花瓶と熱傷

25,267文字

かこん、と竹が石を叩く。
あらゆる喧噪が遠い屋敷の一角で、迅は湯呑を傾けていた。
長い髪を耳の裏で一括りにした少女、つづりが、部屋の隅で線香に火をつけた。ふわりと品の良い香りが鼻をくすぐる。
つづりは畳を滑り、向かいに膝を正す。

三刀屋みとや様は、この研究には携わらないのですか」

静けさにそっと乗る声に、迅は湯呑の水面を見つめたまま答えた。

「ああ。立案はさっきの赤毛の少年だ。僕はただの斡旋者」
「そうでしたか。ではこの訪問は、貴方が提案されたものなのですね」
「そうだね。千縁戸ちよりど借血かりちと術式なら、術者の霊力量に寄らず術を動かせるだろう。彼が求める機構がそれだった」

一拍間があって、彼女が疑問を口にする。

「よくご存知ですね。千縁戸の技術は、直し屋という形でしか見ることができないのですが」
「ああ、実は三刀屋の蔵に千縁戸の資料があってね。どうやら僕の祖父の兄が、君のお爺さんにあたるらしい」
「……なるほど。三刀屋様は千縁戸の血縁者でしたか」
「そう。そして君のはとこ」

はとこ、と小さく復唱する彼女を見て、迅は口を軽く引き結ぶ。自分で言っておいてなんだが、形式張った接待の中ではやけに間が抜けた響きに思えた。

蔵で見つけた千縁戸の技術は、一般に普及してもいなければ、家名の聞き覚えすらなかった。書物は厳重に保護されていたから、秘匿事項であることは予測できた。さぞ有意義な資料なのだろうと踏んで、すぐに解読にかかる。封印術と暗号を解くのにはえらく骨が折れたが、答えを見つけた時の高揚で全て上書きされてしまった。

「不思議な縁もあるものですね」
「……まあ、三刀屋が君たちの力を求めたという点では、ある意味予定調和かもしれないけど」
「たしかに。だとすれば、その年で意志を継いでいることを、三刀屋当主も誇らしく思うでしょう」

十と少しほどの年齢の少女は、滑らかに迅を賞賛する。

慣れている、と思う。ほとんど年も変わらない男に、そつない世辞が出てくるほどには。緩やかな微笑と透き通った瞳は、精巧な硝子細工を思わせた。

湯呑を茶托に下ろす。

「そんないいもんじゃない」

微かに首を傾げるつづりから視線を外し、開け放たれた障子の向こう側を見やった。

「僕の両親はね。技術を眠らせたいと思っている」

庭は春の陽気に照らされている。並んだ低木には鞠のような花がなっていて、日差しを反射して白く輝いていた。

「僕の祖父の代かな。三刀屋は襲撃にあってね、滅んでしまった。でも幸か不幸か、父だけが生き残った。まだ幼子だった彼を、防衛に参加していた審神者が保護したんだ」

眩しさに目を細める。

残された技術は、当然父が相続する。けれど父にはそれを扱う知恵も、身を守る術もない。だから政府は父と三刀屋の遺物を、『蔵』に押し込めて保全することにした。

迅はそこで生まれた。父は、あらゆる金属に熱を入れ、真っ赤なそれを打つ。美しく象られた物が並ぶ蔵で育ったから、自分もそれに焦がれることは自然のことに思えた。

両親は、初めこそ息子の関心に喜んでみせた。代替わりした政府の役人も、あれやこれやを迅に教えてくれた。術書を読めば感嘆し、金を打てば褒めたたえた。けれど。
父の目に恐れが渦巻いていることに気付いたのは、いつの日だったか。

「まあ、その襲撃も何やらきな臭い裏話があったみたいでね。時の技術は争いを生むからって、両親は根元を断ちに行ったよ」

つづりは黙って聞いている。

「……歴史修正を、望んだのですか?」

横向いていた首を元の位置に据えて、迅は彼女の顔を正面から見た。

それは彼女の意思の介入しない、ただの事実確認だった。これまで幾度も見せられた、哀れみ、恐れ、憤りのどれとも違う。透明な瞳は意図的なものなのか、それとも真に何も映していないのか、迅にはわからなかった。

「……ま、そういうこと。おかげで僕は政府の監視の元、三刀屋の蔵を管理しなきゃいけなくなった」

迅は膝を崩し、胡座をかく。

「そんなわけだから、三刀屋はとっくに滅んだし、少なくとも様付けで呼ばれるような身分じゃない。君がそこまで肩肘張る必要もないよ」

ひらりと片手を振って見せれば、つづりはほんの少し眉を上げて、それから顔を伏せた。

彼女は言葉を探しているように見えた。別に困らせたり気を遣わせたいわけではなかったが、訂正する気も起きなかったので、迅は再び湯呑を持ち上げる。

それを下ろす頃、かかる声があった。

「……じゃあ、迅くん」

たどたどしくも飾りの落ちた声色に、迅は目を瞬かせた。

「なんだ、できるんだな」
「慣れてないから、あんまり、うまくできないけど」
「親にも敬語なのか?」
「うん」
「ふうん。通りで板についてるわけだ」
「……ありがとう?」

なんだか逆にぎこちないような気もした。
迅は片眉を上げる。

「やめるか?」
「……ううん、いい。このままで」
「そうか」

そうして再び静寂が訪れる。

竹や水の音に混じって、ぴぃ、と高い音がする。先ほどまでのどこか現実味のない空気が、随分長閑なものに感じられた。

「よく鳴くな」
「メジロだよ。春になるとよく来てる」

目を凝らせば、緑色が二つ枝の上で跳ねている。

「迅くんは、鳥が好き?」
「……まあ、うん。嫌いじゃない」
「そう」

別に好きとは言っていないのだが、思ってもいないものを受け取られた気がして居心地が悪かった。

それを振り払うように、というと癪だが、迅は蔵から持ち出していた疑問を切り出すことにした。

「聞いてもいいか」
「なにを?」
「千縁戸の技術について」
「……わたしにわかることなら、答える」
「そうか。助かる」

蔵の資料には、不明瞭な部分があった。

「千縁戸の人間は、借血の恩恵を受けられないそうだな」

千縁戸の記述は大きく二つ。外界に流れる霊力とパスを形成する借血と、血に流れる霊力を操作する術式。

『術者』は通常、己の霊力しか扱うことはできない。しかし、あくまで『術式』が霊力を操作するのであれば話は別だ。
外界から得た霊力の操作は術式に任せて、術式の起動工程のみ分離する。そこに術者が関与できる起動術式を繋いでしまえば、スイッチのような機構ができあがる。
すると、スイッチ分、少量の霊力で大量に霊力を消費する術式を動かせる。それが千縁戸の技術であり、かけるが求める機構そのものでもあった。

そんな便利な代物だが、千縁戸の人間でも完全な恩恵は受けられないという。彼らの血と術式があれば、無尽蔵に霊力を扱えても良さそうなものなのだが、実際のところ、並の術師よりも本人が自由に扱える霊力量は少ないらしい。

「借血の持ち主は、霊力を自由に操れないという記述を見た。でも君たちには、取り込んだ霊力を操る術式があるだろう。自分の血にそれをかけることはできないのか?」

つづりは、少し考える素振りを見せる。

そういう制約は特段珍しいものではない。他者への能力強化を行うことはできても、自己強化が不得手であったり、全く効果がなかったり。

「……千縁戸の術式は、ある決まった文様や文字のことなんだ」

迅ははたと、回りかけていた思考を止める。

術式には様々な形態が存在する。一般的には、詠唱、手印など、いくつかの決まった手順を踏んで効果を顕現させるものである。確かに文様や文字もまた、術式の一種であると言えるだろう。

「本当は血じゃなくてもよくて。水とか植物とか、鉱物顔料……に含まれている霊力で、効果の持続時間も変わる。借血を使えば、半永久的に動くというだけ」

そこまで聞いたところで、思考を偏らせていたことに気付く。なるほどたしかに、体内で術を描くことはできない。継ぎ接ぎの資料にあった、血に流れる霊力を操るという記述も間違いではないのだろうが、あれでは不十分だ。

「迅くんの言う通り、千縁戸は借血の恩恵の全ては受けられないけど、わたしたちも、自分の血を外に出して使うことはできるよ」
「……なるほど。まあ、家業ができるくらいだしな」

霊力を操作する効果を持つ文様や文字。
彼らによって体系化された文様や文字は、描かれたそれらに流れる霊力を操作する効果を持つらしい。彼らはこの文様や文字のことを、狭義の意味で『術式』と呼ぶようだ。

「しかしまあ、外界から取り込んだ霊力は扱えないにしても、自ら生成した霊力くらいは扱えるんじゃないのか」
「それは、自分の霊力は、外に逃げてしまうから」
「並以下までか」
「体内で生産した霊力は、より霊力密度の低い自然界に流れる。だからわたしたちが扱える霊力は、ほんの少しだけになる」

人の生む霊力は、自然界のそれより密度が高い。人という小さな器に押し込められているから、必然的に圧力も上がる。抜け道があるならば、風のように圧力が高い方から低い方へ流れる。
自然とのパスを形成するということは、取り込むと同時に流れ出ることもまた道理か。

迅は腕を組んで頭を捻る。

取り込んだ霊力密度の低さは、今後議論の的になるかもしれない。
自然の霊力は無限とはいえ、内外の圧力が一致した時点で取り込みは止まる。自然の霊力は密度が低いので、その他一般の機構と同じ威力を求めるなら、器の容積を増やすか、霊力を圧縮する必要があるだろう。
容積を増やす場合は単純だ。大量の血液とそれを染み込ませる大型の媒体があればいい。
圧縮の場合は少し面倒だ。圧縮機構の他に、外界より高圧になった霊力を逃がさない結界術や、圧力耐性のある器が求められる。試す価値があるとしたら、携帯性を追究するときくらい。

しかし、随分と難儀な性質だ。

「力の根源はわかるか。何かに接触したとか、交わったとか、霊脈を発見したとか、封印を解いたとか」

血に宿る性質だ。血族に続いている可能性は高いが、もしかすると、血族以外でも何らかの術をかければ機能するものかもしれない。そうであるならば、術さえ会得してしまえば、更なる応用が見込める。

そこまで考えて、返事がないことに気付く。

「……ああ、いや、秘匿事項なら、無理にとは言わないよ。僕は研究しないしね」

迅は顔を上げて腕を解く。膝に手を置いて、細く息を吐いた。

もし仮に源が物体として存在するとして、それを知られれば千縁戸は存続を危ぶまれる。源を破壊されるか、利用されるか。千縁戸だけじゃない。世に流出すれば、技術が根底から覆され秩序が乱れる。話さない方が懸命だろう。

ところが、少女は少し迷ってから、答えた。

「……ご先祖様が、人ならざるものの、『眷属』になってから、子孫は借血の性質を持つようになった」

迅は少し驚いて、それから頭が痛くなった。膝に肘をつき、額を押さえる。

部外者とはいえ、大昔の契約の話なら問題ないと判断したか、迅の圧に呑まれてしまったか、別の何かか。
彼女の表情は読みにくい。

「なるほど、神の寵愛か。通りで呪いじみてるわけだ」
「え?」
「外界の霊力を取り込めても、それを操る力は与えられなかったんだろ?」
「…………」

その血を自然と一体にさせられながら、自然のものを扱えるわけじゃない。変えるなら全部すげ替えてくれればいいものを、中途半端に同じにさせられて。
神はいつも気まぐれである。

顔を背け、外を見る。視界の端でつづりが同じように首を振った。

「神ってやつは、勝手なもんだな」
「神様というのかはわからないけど、……うん、自然の力を操れたら、便利だったんだろうな、とは思う」

生まれた時からそれが当たり前であった彼女には、呪われているなんて観点はないかもしれないが、迅は少しの歪さを覚えた。

「けどまあ、もしかすると……、……」
「……もしかすると?」

上の空で呟いた言葉に、しまったと思った。なんだか続きを口に出すことがはばかられて黙り込むも、少女は何の疑いもなく次の言葉を待っている。

迅はやけになった。
彼女には理解できないだろうと思った。だから、言ってしまうことにした。

「……全て与えてしまえば、利用され捨てられてしまうと、思ったのかもしれない」
「……神様が、不安になったってこと?」
「神に無理やり"人"を見出すならな」

喉の違和感を茶で押し流す。一息ついたところで、惚けた顔を半目で覗き込む。

「君も、気を付けろよ」

つづりは一つ瞬きをする。

「食い物にされないように」
「…………」

その言葉は、彼女にはあまり響いていないように見えた。まあ今更、耳タコなのかもしれない。重々承知しているから、家も真名も隠しているのだろうし。

「……父さんは」

彼女は一瞬、目を伏せた。

「今回の会談を、とても楽しみにしていた、から。きっといい方向に話がまとまると思う」

今度は迅が瞬きする番だった。つづりは顔を上げ、迅の目を真っ直ぐに見据えた。

「千縁戸の技術は利用価値があるから、秘匿しなきゃいけない。けれど父さんは、本当は千縁戸の力をもっと役立てたいと思ってる」

だから。
だからなんだ。どれだけ役に立っても、用が済んだら捨てられるのに。

政府が千縁戸に力を貸すのはなぜか。保護といえば聞こえはいいが、政府は未知なる力を制御し、独占したいのだ。
政府に利用されていると、考えたことはないのか。
父に利用されていると、考えたことは。

迅は深く溜め息をついた。

「繋みたいに、馬鹿正直に頼み込んでくる奴ばかりじゃないだろう」
彼杵そのぎさんはすごいね」
「好きでやってるからね。あれが生き甲斐なのさ」
「……そっか」

彼女がほんの少し、微笑んだ気がした。

笑えるのだな、と思う。ろくに話してもいない男の、好き勝手な生き様を。わからなくはない。あれを見ていると、笑う以外の選択肢が掻き消える場面があるから。

ふと視線を下に落とせば、茶はほとんど残っていなかった。残りを呷ろうと湯呑を口に寄せ、

「迅くんは、やらないの?」

その手を止めた。

それは始めの問いだった。

直後、廊下を近付いてくる足音に気付く。顔を上げれば、音の主のつま先がすい、と滑り、こちらを向くのが見えた。

昼下がりの日差しが、彼の赤みがかった茶髪を金色に染める。
彼杵繋は、つづりを見て軽く会釈した。

「そろそろお暇します。本日はありがとうございました」

つづりは膝を片方ずつ立て、腰を持ち上げる。繋へ向き直ると、腹に手を当て頭を下げた。

「いいえ、こちらこそ」

繋は微笑んでから、迅を見る。

「おまたせ、迅」
「……ああ」

迅は湯呑の底を一瞥し、手放す。膝に手を付き立ち上がった。

「……じゃあ、また」
「うん、また」

口にしてから、"また"なんてあるのだろうかと疑問に思う。迅は研究から退くので、もう借血について聞きにくることはないだろう。個人的に訪ねる図も思い浮かばない。
ただ、また会うことがあるとして、それに嫌悪は感じない。

長い廊下を繋について渡っていく。揺れる影を踏まないように、一定の間隔を保って歩く。

落宮おちみやは」
「落宮さんは玄関前で篝予かがりよさんと待ってるよ」
「そうか。話はまとまったか?」

繋は振り返って、にこりと笑う。

「いい返事がもらえたよ」
「へぇ」
「迅のおかげ。ありがとう」

前に視線を戻すのを見届けて、迅は目を伏せる。

今日得た収穫を聞いて、話して、この研究からはおさらばだ。迅には別の任が課せられる。
繋はこの研究に明け暮れるだろう。

「それは良かった」

外を見つめる横顔は、綺麗だった。











静かな午後だった。

ぎしりと背中の木が軋む。見上げた空はうっすらレモン色がかっていて、もうすぐ日暮れであることを悟る。のどかな風が吹いて、サンダルから覗く肌を短い草がくすぐっていく。

「ああ……」

湖のほとりに構えられたベンチに腰掛けている三刀屋迅は、空虚な目で思案する。

一体全体、繋はどこまで自分を追い込む気だ。

かつて迅が斡旋し、千縁戸の助力を得た研究は、現在『繋布けいふ』という名を受け三年継続されている。立案者である繋は、『布を編む』という工程においてその技量を遺憾無く発揮していた。
繋布とは、霊布れいふ ──霊糸れいしを主原料とする布の一種である。原料である霊糸は、複数の術式を繋ぐことができ、糸の撚り手、及び布の織り手によっては親和性の低い術式の結合が可能となる。そのため霊布は機械での大量生産から手作業での一点物まで幅広く研究されていた。

繋布の核となる機構は、『霊力効率』と『収束・反射』である。
千縁戸の『借血』を用いた、使用者の霊力量に依存しない機構。そして、特定の術を収束し、軌道を変える機構。
借血の操作は、千縁戸当主、篝予を中心に細心の注意を払い行われている。篝予は繋布研究の主任でもあり、繋同様、大層精を出しているようだ。最近政府で見かけないが、本気で研究室に骨を埋める気じゃなかろうか。

そして小耳に挟んだところでは、繋は少し前から別の研究に手を出し始めたらしい。
題を『格納式封印術』という。ある対象物を任意の容れ物に封印する術であり、その研究には対象物や容れ物の種類に応じた繊細な霊力操作が求められていた。形式に則れば術式自体は難解なものではないが、より効率的なものを模索する段階では、手動で霊力の流れを追う必要があるためだ。
件の布を織る工程の通り、繋は霊力の操作が得意であるので、どこへ行っても重宝される。繋自ら出した申請はあっさり通ったそうだ。

しかし、正直言って愚策だ。彼が審神者に就任したのは去年の秋、明らかなオーバーワーク。実際、桜真おうま学園にはろくに通えていないようで、うら若き少年の青春が奪われている、と落宮(付き合いの長い政府職員だ)が嘆いていた。

どうにも腑に落ちなくて、繋当人に手紙を出した。私的な手紙を送るのは初めてではない。マメな男だから、大抵二、三日もすれば返事が帰ってくる。四年前、飛鳥あすか令人れいととかいう男に現を抜かし始めた時期でさえ、一週間以内には返信があった。
それがどうだ。一ヶ月経っても音沙汰ないときた。よっぽどの激務に忙殺されているか、ついに愛想を尽かされたか。

迅は空に溜め息をついた。なぜ自分がやきもきしなければならないのか。
迅が疑問に思うことなど繋は予想が着くはずだった。あえて何も言わないならば、詮索されても文句は言えないだろう。むしろそれを期待しているんじゃないか。
だというのに、繋からの応答はない。何のために"手紙"というツールを選んだと思っている。

「……あ?」

微かな風の乱れを感じて、迅は仰け反っていた体をすくりと起こす。
それは何かが結界を越えた合図だった。

結界の内側に侵入できるのは、結界と対をなす"鍵"を持つ者だけ。迅の居住区であるこの森に張られた結界は、迅が作った『羅針盤』がそれに当たる。十二ある方位の一つに針を合わせて進み、針が回ったら再度盤を回して進む。合わせる方位は鍵によって変えていて、物と解法が合致した際に結界は解錠するようになっている。

現在鍵を持っているのは三名。落宮、篝予、そして繋。
噂をすれば、である。ようやく話をする気になったらしい。

膝を叩いて立ち上がり、足早に風穴の方へ向かう。均された芝生を抜け、木が鬱蒼と生い茂る結界の際まで行けば何か大きなシルエットが見えた。

「来ちゃった♡」

引き返した。

「まてまてまてーい!なんだその『見てはいけないものを見た』顔!久しぶりの再会だっていうのに!」

迅はざくざくと草をかき分けて湖の方に戻る。その後ろを白髪の男、一ノ宮はじめがバイクを押しながら着いてきていた。
完全に忘れていた。この男にも鍵を渡していたことを。

「やっぱりあの時回収しとくべきだった……」
「なにが?ねえさっきから目合わないんだけど。こっち見てよ」
「ゴーグル面が言うな。何しに来た、そんな大荷物で」
「ああ梅ちゃんね。確かにちょっと無茶だったかも、めっちゃ泥にタイヤ取られる。あ、でもこっちの方綺麗だね。この橋渡っていい?」
「残念ながら重量オーバーだ」
「ちぇーじゃあ梅氏、ここで待ってて」
「君もだ」
「さすがに騙されないよ。二人くらい乗るでしょ」

創が梅、と呼ぶのは白いボディにピンクのラインが入ったバイクだった。荷台にトランクや丸めた布類が巻き付けられていて、旅でもする気なのかと思う。こんな森の奥まで足労をかけられて、車体にはあちこち泥が跳ねている。そういう道具なのだし、少々無理に連れ回すくらいはとやかく言わないが、ちゃんと整備しているのだろうか。

「で、目的は」
「もー急かさないでって。用がなきゃ遊びに来ちゃダメなの?」
「用もないのに一年越しに来る奴がいるか」

連絡も寄越さず来るからには、よほど差し迫った用件があるに違いない。そうであると言え。
背後に着いていた足音が止まる。湖に掛かる板橋の上から振り向けば、創は首を傾げていた。

「そんなに経ってたっけ」
「…………」

惚けた態度に迅は内心舌打ちした。
最後の日にしでかした事を、創は忘れているらしい。一丁前に罪悪感からこちらを避けているのかと思っていたが、やはりこの男にそういう機敏はない。

一年前、まだ三刀屋の蔵が岩肌の立つ竹林にあった頃。創は実家を氷漬けにした。
一部崩壊した一ノ宮邸により使用人数名が打撲等の重軽傷、最も近くにいた母親が左半身に凍傷を負う。凄惨な事故だった。
原因は、体内許容量を超えて生産され高圧になった霊力の暴発。
駆け付けた父親が創に封印術をかけその場は一時収まったが、溢れたものを無理やり押し込めたので、またすぐ破裂することは自明だった。

だから父親は、息子を三刀屋に預けた。
創の体質は一族に周知されており、既に対策として、三刀屋に霊器を依頼していた。依頼は事故の半年前に完成しており、迅は余分な霊力を無害な術に変えて排出する霊器を創に渡していた。同じ要領でなんとかしろ、あるいは不良品の責任を取れ、という意図があったのだろう。

確かに、排出量が間に合っていなかったのは誤算だった。というのも、毎月検診にも行っているようだったので、生産量が変わってもすぐに対応できるだろうと思っていたのだ。
ところが創の霊力はひと月ほどで限界まで達した。彼の霊力は、感情の昂りによって生産量を変える。こちらの非もあるが、彼をそんな風になるまで追い詰めたのは、どうせ"一ノ宮"だろう。家族内の不始末までこちらに押し付けられて、迅はほとほと呆れ果てていた。

三刀屋の蔵に預けられた創は、割とすぐに暴発した。迅は左足に軽い打撲を負わされながら、彼の霊力を相手取る。なんとか事態は収束したものの、その後正気に戻った創は大層しおらしく縮こまっていたのだった。

だというのに、今の彼はその見る影もない。

許す許さないの問題ではない。あの時己の何を捨てても償い改めるという面をしていたくせに、今の腑抜けた顔ときたら。
所詮、時の流れで風化する程度の感情だったということだ。

「覚えててくれたんだ。あ、もしかして寂しかった?」
「なわけあるか。今の今まで忘れてた」
「ごめんねえ、おれあれから外出れなくなっちゃってさあ」
「は?」
「病人だったのよ。監禁されてた」

あっけらかんと言う創に迅の頬が引き攣る。

創の霊力は安全に排出されたはずだった。それから病院に行くとなると、どこだ。頭か、体か。

色々気になることはあったが、迅はまず恐ろしい可能性を一つ潰すことにした。

「……それは……、……軟禁というんじゃないか?」
「え?軟禁ってなんか違うの?」
「体を拘束されてるのが監禁、行動範囲を制限されるのが軟禁だ」
「……じゃあ軟禁かも」

それを聞いて迅は大いに脱力する。

「よかった……」
「え!迅がおれのこと心配した!」
「してない!」
「なんでそんな全力で否定するの!?」

意図していないところで喜ばれると肌が粟立つからやめてほしい。

一人で騒いでいる創を置いて、迅は再び歩き出す。

「天下の一ノ宮様が、児童虐待に手を出しているとなったら大事だろ」

俯きながら言えば、背後の平坦な声が答える。

「監禁って虐待なの」
「……虐待だろ」
「へー、軟禁は?」
「…………」

声からは感情が読めず、迅は渋い顔をする。
一般的には虐待に入るのではなかろうか。当人たちが納得しているなら他人がとやかく言うものでもないが。

「……子どもが『理不尽だ』と思ってしまった時点で、虐待だと言う権利はあるだろう」

創は惚けた声を出した。

「んー、じゃあ違うかな。体のことだし、しょうがないってことはわかってる」

こちらが皆まで言わずとも、創は勝手に自分事に消化する。基本的に頓珍漢だが、時々的を射ているというか、変なところで聡い。

昔から、創は虐待を受けていたかと聞かれれば、そうではないと彼自身は言う。迅から言わせればその言葉自体が一ノ宮のタチの悪さを証明しているようなものなのだが、いまいち創には伝わらずにいる。

「まあ子どもが何も不満に思わないのも、それはそれで問題だが……」

親に舗装された歩きやすい道。始めのうち、子どもはそこを歩くものだが、そのうち舗道の外にどんな世界が広がっているのか興味を持ち、道を逸れていく。それは自然なことだ。

ところが時々、外を知らない子どもが存在する。逸れようとして連れ戻されたのかもしれないし、そもそも外の世界が見えないように覆われていたのかもしれない。どちらにせよ、一本道の上に生きる子どもは狭く偏った世界しか知りえない。

それが正しいのか考えることもない。自ら道を拓くことを知らぬまま、思考を止めていく。

選択肢は、本来与えられるべき権利のはずだ。
不満も、疑問も。飲み込んでしまったら、しまいだろう。

「まあ外出られないのはフツーにムカつくけどね。だから脱走してきてるんだし」

声色を変えずに言うものだから、意味を理解するのが遅れた。

「…………はい?」

小島の砂利の上から振り向く。創はちょうど橋を渡り終えるところだった。大きめのリュックを地面に下ろして何かを探っている。

「ハァ!?」
「うわ、迅そんなおっきい声でたの」
「おま、お前なあ!何してるんだ!つまり現在進行形で病人じゃないか!」
「え?あー違う違う、自宅待機ってやつだよ。外で暴れ出したら大変だからね」
「……、……!」

迅が人差し指を震わせていると、創はその腕に紙袋を引っ掛けた。

「でね、これお礼」

にぱりと笑う創と腕の袋を見比べる。彼は迅に構わず話を進めるが、最早指摘する気は起きなかった。
こわごわ腕を引っ込めて袋の中を覗くと、見覚えのある外箱が数個鎮座していた。

「お焼きはそれチンしてね。クッキーは入れたらだめだよ」
「いれない、けど……どうしたんだこれ」
「来る前に買ってきたー。好きだったしょ?」

迅は袋を覗き込んだまま固まった。

「……よく覚えてたな」
「だってあの迅が好きって言ってたんだよ?さすがに覚えるって」
「どういう意味だ」

込み上げる何かを飲み込んで、辛うじて味気ない言葉を絞り出す。たった今まで腹を立てていたのに、菓子折り一つで絆されてはたまらないのだ。

元々人好きな奴だから、人の好きなものにも興味があるのだろう。おそらく、相手を知りたいとか、一緒に楽しみたいとか、そういう感情。

そう結論付けてなんとか顔を上げた瞬間、ぎょっと目を剥いた。

「なんで当然のように君も食ってる!」
「え、いーじゃんいっぱい買ってきたんだし」
「おい待て鳥にやるな」

創は野鳥にクッキーを砕いて与えようとしている。人間の食べ物の塩分量は鳥には毒だ。

創の前に手を差し込み菓子屑を掻き寄せると、褐色の腹に灰色の翼の──ヤマガラは驚いて飛び去ってしまった。

「油断も隙もありゃしない……」
「そんなにがっつかなくても迅の分なくならないよ」
「僕が鳥から餌を奪うほど飢えているように見えるか」
「ちがうの」
「これは鳥には毒なんだよ」
「えっウソ!ごめんねまめぞうー」
「まめぞう……?」

餌が気になるのか、ヤマガラが遠くでこちらを伺っている。創はバラバラになったクッキーを口に投げ込みながら手を振っていた。

ああそうだ、こいつはこういう奴だった。
小さな鳥に付けた名前も、明日には忘れているくせに。

彼はいつも自由だ。











がたがたと戸が鳴っている。
静かに燃える暖炉の火の前で、迅は椅子に腰掛けていた。

『迅、聞いてるかい?』

男の声が響く。
迅は揺れる火を見つめたまま、赤いブランケットを撫でた。

「聞こえてますよ」
『そうか。妙な気を起こしてるんじゃないかと気が気でなくてね』
「妙ってなんですか。首でも括るって?」
『まあ、首よりは腹の方がありそうだなあ』

迅は音の元を見る。食卓に置かれた端末の液晶が黒く光っていた。

「……仰っている意味がわかりません」
『うん、わからないままでいてほしいな』

迅は目を細め、再び前を向く。ぱちりと薪から火の粉が散った。

『繋くんのことは残念だった』

声の主、落宮は重々しい口調で切り出した。

去る12月17日。彼杵繋が姿を消した。

その日は空が白かった。気温は高く、時々細い雨が降っていて、そのくせ雲の切れ間から黄色い日差しがさしている。妙な天気だった。

異変が起こったのは午後二時過ぎ。政府指定区域である武蔵国と都内を繋ぐ通路の電源が落ちた。
電源が落ちるとゲートが機能しなくなるため、事故当時通路を利用していた者は、通路内部に閉じ込められることになる。被害者多数の事案だったため、中々の大事として扱われた。

武蔵の通路は第七支部が管理している。電源が落ちたのは、支部で異常が発生したからだろう。

そして第七支部には『繋布』研究室が設置されている。

『詳しいことは話せないが、事故、とだけ伝えておくよ。僕たちにとっても不本意なことだった』
「秘匿する必要がある時点で、ある程度予想はつきますが」
『困ったな。君に追求されたら、きっと僕は口を滑らせてしまうなあ』
「…………」

わざとらしく笑う声に迅は下唇を噛んだ。

あの日、第七支部で何かが起こった。問題はそれが何で、何故起きてしまったのかだ。
ただ、落宮にそれを聞く気にはなれなかった。

「いりません」
『そうかい?じゃあ君は、そのモヤモヤを晴らすことができず、燻る羽目になるね』
「人の心中を勝手に計らないでもらえます?」
『計りもするさ。君を心配しているんだよ。君と繋くんは友だちだったから』

落宮はいつもこうだ。
心配だの情だのを盾に、人の中に土足で踏み込むことを正当化する。

「……彼はそう思っていたかもしれませんが、生憎僕はそんな殊勝な感情は抱いていません」
『おや。彼に思われていた自覚はあるのに、同じものを向けることは怖いんだね』

思われていた、だなんて薄っぺらな響きにはうんざりする。
落宮は勘違いをしている。彼と同じ感情なんてただの一度も抱けたことはない。いつも違いに打ちのめされて、行き場のない思いを腹の底で煮込んできた。
形のない汚泥を渡して、彼に一体何を求める。

『全部じゃなくていい。向けられるものだけ見せればいいじゃないか』

向けられるものなんてただの一つもなかった。

『少なくともね、友人を失って泣くことは、全く恥ずかしいことじゃない』

友人でもなければ、泣きたいとも思っていないのに。

「……世間一般の話は関係ないですよ。僕はそこから外れているので」
『そうかなあ。君には友人を失って傷付く心があると思うよ』
「仮にそうだとして、泣いたところで何も変わりはしないでしょう。ましてや貴方の前でなんて、休まるものも休まらない」

吐き捨てれば、端末は沈黙した。
弁解はしなかった。突き放す物言いをしたところで、落宮はこちらの言葉など適当にいなす。放っておけば直に通話は切れるだろう。

『泣くことが、心を休める行為だということは知っているんだね』

柔らかく撫でるような声だった。

橙色の揺らめきがやけに遅く見えて、吸い込まれるような錯覚を覚えた。

あくまで知識として知っていることだった。経験と言うには、最後に泣いた日も思い出せないような浅いもの。

『いいんだよ』

これだから嫌いなんだ。全部わかった気になって、"よくあること"に押し込めて。誰も加護なんて求めていないのに、勝手に守った気になって、こっちが受け取ることを疑わない。

「いらないって言ってるでしょう!」

喉に鋭い痛みが走る。視界に赤い布と足が映っていて、立ち上がっていることに気付いた。
胃がひっくり返るような目眩がして、咄嗟に卓の端を掴む。後ずさった表紙に椅子が倒れて、鈍い音を立てた。

両の手をついた卓の先、黒い四角が光っている。
べたべたと的外れな場所に手のひらをつきながら、端末に辿り着く。画面に浮かぶ赤い記号を叩いた。

無機質な電子音が鳴っている。
体を傾かせたまま、迅は呆然と明かりの消えた端末を見つめていた。

戸を叩く音が、聞こえてくるまでは。











雪はしんしんと降り積もる。
迅は門の少し手前で立ち止まり、屋敷を見上げる。三年ぶりに訪れたそこは、以前よりもひっそりと佇んでいるように見えた。

しばらく待っていると、上等な外套に身を包んだ男や女が門をくぐっていく。全ての音は雪に吸われ、どこか現実味のない空気が辺りに満ちる。

「…………」

ぼんやりと視線を置いたまま、懐に手を入れる。取り出すのは、ひと月に届いた手紙。
それは千縁戸の就任式の招待状だった。次期当主の名も、座標の情報もない、無味な文書。本家で行うということだけ記されていたためひとまずここに来てみたが、どうやら当たりだったらしい。

中折れ帽を被った男が門に消えたのを確認して、迅は歩みを進める。
門を潜る瞬間、懐がほんのりと熱を持った。それが収まったのを感じて懐を確認すると、手紙の表面に赤い文様が浮き上がっていた。

石畳に薄らと積もる雪にいくつかの足跡が付いている。迅もまた、その一つとして跡を重ねながら、頭を下げている使用人の元へと向かった。

使用人に名乗れば、招待状の提出を求められる。差し出した赤く光るそれを、彼女は横の水盆に乗せた。するとみるみるうちに紙が溶けて、赤い筋が解かれていく。後には薄く染まる水が残った。

招かれるまま、屋敷の中へ通される。上がり框を登ってすぐ左の廊下は、以前饗された時に渡ったものだ。あの時は落宮と繋が正面に進むのを見送って、つづりと客間に向かったのだったか。

「いかがされましたか」

使用人の声がする。正面に向き直ると、彼女はこちらを振り返って迅を待っていた。

「いや、なんでもない」

あの時見られなかったものを、こんな形で見ることになるとは。

迅は首を緩く振って、長い廊下を歩いていく。





式は大広間で行われる。畳の上には何列か座布団が敷き詰められ、それを低い衝立が仕切っている。和装の男女が前列の方を埋めているのを見て、迅は後列の隅に腰を下ろした。

主役と思しき少女は、前列の男に礼をしている。二言三言会話したのち、隣の男にも同様に腰を折っていく。
半分ほど回ったところで、少女はおもむろに辺りを見渡し、奥の方へ下がっていく。
男の声が響いた。

「刻限となりました。ただいまより、千縁戸の就任式を執り行います」

洋装の、おそらく政府の男が手招きし、少女を呼ぶ。彼女が床を滑りこちらを向く。

その瞬間、迅はどこか違和感を覚えた。
彼女はつづりで間違いない、と思う。滑らかに流れる髪、感情の読めない瞳。背は伸びたが、容姿はかつての面影を残している。

ただ、なんと言えば良いのか。体の前に掲げた柊の赤が、くっきりと浮き上がって見える。対照的に分厚い外套を羽織った彼女の輪郭はぼやけていて、
──ひどく色褪せて見えた。

つづりは中央に置かれた腰丈ほどの台に近づく。螺旋を描く硝子の花器に、手にした赤を添えた。

式は粛々と進められていく。
政府の男が話し、女が話す。流暢に飾られた文句を聞きながら、迅はそっと視線だけを動かす。

娘が当主を引継ぐのだ、前当主である篝予の祝辞が入ってもおかしくない。しかし、三年前に見た男の姿はどこにもなく、ただ淡々と形式的な祝いばかりが宙に浮いていく。

つづりが呼ばれ、一歩前に出る。
それほど長くない簡潔な答辞を述べると、政府の男が再び手招きする。

つづりは男と向かい合った。

「名を授けます」

男は懐から札を出し、軽く息を吹きかける。すると札から墨が剥がれ、浮き上がった。
つづりもまた併せから札を取り出す。胸の前で掲げると、墨はそこに吸い込まれていった。

綴予つづりよ

男が字名を呼ぶ。

「この名に恥じぬよう、より一層、励んで参ります」

彼女は、凛とした声で答えた。

「以上をもちまして、千縁戸当主、綴予の就任式を終了いたします」





席を立つ者、歓談する者、人々が行き交う様子を、迅はぼうと見つめていた。
少女は式前に回り切れなかったであろう参列者と会話をしている。

その背が障子の向こうに消えていくのを見送ってから、迅はようやく我に返った。
慌てて腰を上げ、廊下に出る。角の部屋に入っていく影を追いかけた。

「つづり」

口走ってから、今しがた聞いた名を思い出した。
彼女は立ち止まり、こちらを振り向く。

「……迅様。いらしていたのですね」

微かに口角を上げるつづりを見て、迅は眉を上げる。
その精巧な笑みには見覚えがあった。

「……今は綴予か。まあ、なんだ。就任おめでとう」
「ありがとうございます」

随分背が伸びたと思う。昔も迅と同じくらいの目線だったが、今もそれは変わらない。

「今少しいいか」
「はい」

少女は開きかけていた外套の襟元を閉める。
迅は目を眇めた。

襟の隙間から見える黒い何か。何かを縛めるような、塞き止めるような。
それは呪いのように見えた。
しかし、悪意や邪気は感じない。今すぐ身体を蝕むものではないのかもしれないが、神聖な儀式の場では無粋なもののように思われた。

抱えていた柊の赤がやけに目に染みたのも、彼女がひどく色褪せて見えるのも、それのせいであるならば。

しかし迅が何か聞く前に、少女は自然な動作で襟を閉めた。その外套は、術を覆い隠す物なのかもしれない。彼女がそうするのであれば、迅から言うことはない。

腑に落ちなさはあれど、迅にはそれよりも優先されるものがあった。

「覚えてるか。三年前、金髪の男と赤毛の少年が篝予を研究に誘い、君が僕を饗していた日」
「……はい、記憶しています」
「ああ。あの、『繋布』と名付けられた研究」

迅は一つ、息を吸う。

「──君の父親、篝予の取り持っている繋布研究の今について、教えてほしい」

彼女のまとう空気が、少し揺れた気がした。

篝予は今この場にいないのだと思う。娘の就任式に出席しないのは些か薄情に感じるが、繋の件もあっただろうし、多忙なのだとすれば納得はできる。
篝予にはまた日を改めて伺うことにして、今は彼女に聞くしかなかった。

「残念ながら、彼杵繋はつい一週間前に失踪してね」
「…………」
「失踪の詳細が伏せられてるもんだから、繋のこと教えろってうるさい奴がいてさ」
「ご友人、ですか」
「まあ、そんなところだね。そしてあわよくば、繋の意志を継ぎたいのさ」

彼が繋に抱いている感情が、果たして友情という枠で表せるのかは知らないが、少なくとも好意を向け合ってはいたのだろう。

彼女は少し俯き、口元に手を寄せる。状況を飲み込もうとしているように見えた。
無理もない。迅だって報せを受けた当時、すぐには理解できなかったのだ。

「……彼杵さんの失踪というのは、本当なのですか」
「ああ、突然姿を消した。十中八九、研究絡みだと踏んでいる」
「……そうですか」

繋は一般人として暮らしてきた。その能力こそ並外れていても、学園にだって多くの知り合いがいた。そんな男の失踪を隠蔽しようだなんて、元々無茶がすぎるのだ。それでも説明できない何かなんて、『研究』絡みのことに決まっている。

「篝予は何か言っていないか?」

あれから落宮とは連絡を取っていない。
子供じみた反抗をした自覚はある。適当に言わせておけば良かったのだ。そうすれば彼は三日後には自分の言ったことなど忘れて、いつもと同じように依頼を持ってくるのだから。

対して彼女なら、不躾に迅の胸の内を撫でることもない。

「篝予は、昨年の冬、失踪しました」

無機質な声が落ちた。

ふと顔を上げると、何の感慨もない表情がこちらを見つめていた。

「……は」

喉から乾いた音が鳴る。

つい先日の衝撃をもう一度受けた気分だった。

篝予が失踪した。去年の冬、つまり一年前、繋より前に。研究熱心な男だった。志半ばで放棄するとは思えない。何者かに害された。何のために。借血、繋布、いや、理由なんていくらでもある。それよりも。

なぜそんなにも、冷静でいられる。

「何があった」
「わかりません」
「いつ」
「父は元々、研究のため家を空けることがありましたので、正確な日付までは」
「動機は」
「突然でした。何の前触れも、置き文もないものですから、」
「行方に心当たりは」
「……申し訳ありません。父の消息については、私には見当もつきません」

言い切る前に、矢継ぎ早に畳みかける。彼女がゆっくりと瞼を下ろしていく様に、胸を掻きむしられるような焦燥を覚えた。

追い詰めている自覚はあった。止まらない口に、どこか遠くの自分が哀れみと蔑みの眼差しを向けてくる。

やめなければと思うのに、口は止まらない。

「繋布研究については?」
「……すみません。そちらも全く存じ上げません」

迅は唖然とした。
本当に何も知らないようだ。
行方は知らずとも、自分の父親が何に生きたのかくらい。

「知りたいとは思わなかったのか」

瞬間、少女は瞠目し、それから沈黙した。
それを見て、ようやく迅は我に返った心地がした。

「……すまない、君を責めたいわけじゃない。思わなかったならそれでいい」

こんなものは、八つ当たりだった。
落宮に山ほど聞きたくて聞けなかったことを、彼女にぶつけている。

何かを失ったとき、失った理由を知ることで溜飲を下げる者がいるのと同じように、痛みに触れないように、癒すために、記憶の底に仕舞う者がいる。
ぶつけたところで、それらが交わることはない。互いに傷を付けるだけだ。

「父親は嫌いか」
「……いいえ」

そこで初めて、『わからない』以外の返答を受ける。否定できるだけの情はあるらしい。
痛みは既に癒えたのか、そもそも痛みなどなかったのか、痛みに気付いていないのか。

互いの間に、長い沈黙が横たわっている。

何かに追われるようにここに来た。
それはあの少年だったかもしれないし、繋に抱いていた何かだったかもしれない。頭は鈍ったまま、答えを見付けられずにいた。
熱くて苦しくて、息をするのもやっとのくせに、なぜ熱を煽るような真似をしているのか。

──あの火に、消えてほしくない。

迅は唾を飲む。

「──僕は」

震えかけた声を、拳を握り締めて叱責した。

「君に研究を引き継いでほしいと思っている」

頭を下げれば、頭上で困惑の気配がする。

要だった二人の消息が絶たれているとあっては、情報も技量も足りない。特に借血の操作は、専門の技師が細心の注意を払って行う方がいい。
このままではいずれ、研究は凍結するだろう。さすればこの研究に関わった人間の志もまた、息を止める。繋の友人と名乗るあの男も。

「……ただ、君には権利がある」
「……権利、ですか。それは、どのような」
「父親のことを知る権利と、繋布研究の存続を決める権利」

顔を上げ、噛み締めるように言う。

誰かを生かすために、彼女が息を止める必要などない。それを強制されることなどあってはならない。

「あの研究の肝は君の血だろう。だから、君が決めるべきだ。その力を今後どうするのか、どうしたいのか」
「…………」

彼女は少し顔を俯ける。これ以上余計なものをぶつけてしまう前に切り上げてしまいたかったが、何かを考えているようだったから、迅もその場に留まった。

決して喋りの遅い口ではない。けれど何か理解の及ばない事柄があったとき、彼女はそれを丁寧に食み、応える。待てば必ず返ってくる。
なぜそんな確信を持ってしまうのか。

逡巡ののち、彼女が口を開く。

「──迅くん」

懐かしい響きだった。

「お友達に頼まれて、ここまで来たのでしょう。私が断ったら、貴方は困ってしまうはず」

相変わらず力のない声が、まるで道に迷った童子のようだった。けれど、

「それならどうして、わたしに選択を委ねるの?」

縹色が、真っ直ぐにこちらを見つめていた。

そういえば、部屋の明かりも付けていない。雪の振る空は灰色だから、差し込む光のない部屋は随分と暗く沈んでいた。

煙の香りが鼻を掠める。
品の良い、微かに甘みのある味わいには覚えがある。あの時は何の香かわからなかったが、今ならわかる。おそらく伽羅だ。

知っているようで知らない瞳。

「僕は、始祖を踏みにじる行為が嫌いなんだ」

気付けばつづりを正面から見据えながら、呟くように零していた。

自分の拘りが世のそれから外れていることは知っている。だから理解してほしいとは思わない。それでも口にしてしまうのは、彼女の前で、何かを偽る気が全く起きなかったからだ。

「……優先順位の問題だよ。君に無理強いして作るのは気分が悪い」

それは自尊だった。決して犯してはならない罪だった。

「まあ、気が向いたらでいい。なにか進展あれば連絡してくれ。それじゃ」

踵を返せば、つづりが引き止めることはなかった。

部屋を出て、長い廊下に出る。
物音一つしない世界を、一人歩いた。











きんと張り詰めた空気に、白い息が乗る。
まだ辺りは薄暗いが、空は雲ひとつない薄青色に透き通っている。年を締めくくるに相応しい冬の快晴だった。

昨晩は随分荒れていたようで、まっさらな雪が辺りを埋めつくしている。

新雪に深靴を沈ませ、橋に踏み出した。
橋の外を見れば、湖に斑模様の結氷が出来上がっている。木々は枝に粉雪を乗せ、白い花を咲かせていた。

迅は眉をひそめる。

黒い郵便函の上。
見慣れない細い目のフクロウが留まっていた。
迅と目が合うと、フクロウはくるりと首を回す。

近付いてもそれは逃げない。迅は少し顎に手を当ててから、ダイヤルを回す。そうして金属の戸を開放したところで、それは満足したように飛び去っていった。

「……手紙?」

中には白い封筒が入っていた。
宛名は『三刀屋 迅様』とある。

迅は手首を捻り封を裏返す。記された『綴予』の文字を見て、目を丸くした。

確かに連絡をくれと言いはした。言いはしたが、まさか本当に返事を寄越してくるとは。
いや、生真面目そうな彼女のことだ。それほど驚くことでもないのかもしれない。ただあの日の彼女はひどく頼りなく見えたから、これほど早く進展があるとは思わなかっただけで。

箱の戸を閉め、再び雪の上を歩き出す。

橋を渡り、扉を潜る。後ろ手に錠を閉めた。
玄関先の棚の文具入れに立てられたペーパーナイフを引き抜く。外套を衣桁に掛け、深靴をサンダルに履き替える。乾いた土間を行き、作業台の上へ向かった。

台に紙とナイフを並べ、じっと見つめる。

数十秒ほどそうした後、迅はおもむろに封筒に手を伸ばした。
ペーパーナイフで封筒の上部を裂く。中から便箋を取り出した。

二つ折りを開き、視線を落とす。



『三刀屋 迅様
 
拝啓 歳晩の候、
庭一面が白雪に染まる冬の日に、いかがお過ごしでしょうか。

 先日は取り乱した姿をお見せしてしまい、申し訳ありませんでした。貴方の投げた問いかけに動かされ、貴方が屋敷から去った後、我に返った心地で父のことを調べました。随分と遅くなってはしまいましたが、この手紙に変えて、あの日の問いにお答えします。

 結論から申し上げると、仮称『繋布』の研究は凍結されていました。原因はご想像の通り彼杵繋の死ですが、そのきっかけは千縁戸の先代当主、篝予の失踪に起因します。

 一年前、篝予は何者かによって殺害されました。正確には、その何者かに拐かされそうになった篝予が自ら死を選んだそうです。敵の狙いは『借血』か『繋布』か。どちらにせよ、篝予は命と引き換えにそれらを守りました。
 千縁戸の当主が亡くなったと公表すれば、未完成の研究は明るみに出ます。政府は研究を存続させるため、篝予の死を隠蔽し密やかに当主を交代させました。私が当主の座を継いで仕舞えば、多少の違和も風化していくと考えたのでしょう。
 
 けれど、篝予を失ってできた欠落は大きかった。篝予は多くの研究成果を挙げましたが、残されたそれらだけでは『借血』を扱いきれなかったのです。不安定な態勢で研究を続けた結果、制御しきれない霊力の流れが出来上がり、その末路として事故が起きました。犠牲となったのは、貴方の友人である彼杵繋です。
 
 支柱であった篝予だけでなく、要である彼杵繋までもを失った『繋布』研究は、必然と凍結されるに至りました。
 
 重ねて、貴方にご報告すべきことがございます。私は調べ物のために政府に掛け合いましたが、その際に、彼らにこう問われました。
 
 「『繋布』を完成させる気はないか」と。

 私は、その申し出を断りました。
 きっと篝予は、私の父は、私が研究を継ぐことを喜んだはずです。それがあの人の悲願だったから。けれど、父を失わせた研究に携わることを、私はどうしても選べませんでした。
 仮称『繋布』の研究は永遠に凍結されたままか、そうでなければ、不完全な形で生き永らえることでしょう。

 以上が、私が知り得た仔細の顛末です。
 
 ここに綴られたあらゆる文字は、政府の極秘事項にあたります。この手紙はもう間も無く、跡形もなく溶けて消え去るはず。これらの情報を取り扱う際は、くれぐれも慎重になさるようお願い申し上げます。』



迅はゆっくりと顔を上げた。

「──そうか。あの子は断ったのか」

ぽつりと落ちた呟きが虚空に消えていく。彼女の性根の滲む整った墨を、人差し指でなぞる。

彼女は理由を問うていた。迅がつづりに選択を託す理由。

つづりは、人の思惑を捉えることに長けている。
彼女は透明だった。透明だから、その瞳に他人を映すことができる。何の濁りもない、ありのままの他人を。

対してというか、だからこそというか。彼女は自分のことにとんと疎いように見えたのだ。自分がどうしたいのか、どうありたいのか、意志がない。願いがない。
彼女には色がなかった。

別に善し悪しを述べる気はない。それが透明という彼女の色だと思うから。
けれど最後に見た時、彼女は透明ではなかった。絵筆を洗った水バケツのように、複雑に混ざりあった形容しがたい色だ。

一度色を入れたら、きっと元には戻らない。
だったらせめて、彼女らしい澄んだ色であってほしいと思う。

迅の願いは半分敗れ、半分叶った。

ぼうと紙を見つめていると、視界の端に黒点が滲む。見やれば先の紙に小さな穴が空いていた。波はじわりと広がり、1枚目、2枚目と紙を溶かしていく。

「……ん?」

消えていく2枚目の向こう。
もう一枚、続きがあった。



『末筆ながら、あの春の日に目見えた貴方に宛てて。
 
 久しぶりにお会いしましたが、あの頃と変わらず友人思いな貴方でしたね。この手紙が貴方の望んだ答えでなくとも、どうか、貴方とご友人の助けになりますように。


敬具
綴予』










「……は?」

小さな音を零した瞬間、指から紙がすり抜ける。それはすぐに形を保てなくなったかと思えば、はらりと雪のように散ってしまった。

一片を掴もうとした手が虚しく空に取り残されている。



違う。



違う、

違う。

「…………」

わなないた口からは何も発されることはなく、ただ息が漏れていく。

こいつは、何を言っている?










十日前、訪ねてきた飛鳥令人は、繋の研究を引き継ぎたいと言った。
繋が消えて、たった四日だった。

どうやってここを突き止めた。
──繋の手持ちにコンパスがあった。
コンパスだけじゃ辿り着けない。
──開いた。

飛鳥令人が端的な呟きと共に差し出したジップロックには、無惨に分解された羅針盤が収まっていた。

そこで痛いほどに理解する。この男は、繋が気に入っていた男だと。

鍵にどんな術式が使われているのか、ただ分解するだけでは解読できない。糸を手繰り、絡まらないように浮かせ、その状態を維持したまま糸に撚られた軌跡を抜く。

ふと顔を上げる。
まだ幼い輪郭、大きな淡紅藤の瞳。目の下に隈があるとはいえ、可憐な印象を与える少年だと思う。だというのに、真正面から認める彼の顔は、研ぎ澄まされた刃物のようだ。

他になにものも見ない目が、恐ろしかった。

まるで、鳩尾の辺りに焼鏝を押し付けられるような息苦しさに襲われる。
その感覚は初めてではない。それは父が政府を退いた時。はたまた繋が繋布の研究を持ちかけてきた時。肺が熱で爛れていくような感覚を、何度も飲み下してきた。

この熱から解放されたかった。
だから、繋布研究の今を知るためにつづりの元を訪れた。
それを飛鳥令人のためだったと言うには、抱いてしまった念いがあまりにも屈折していて。自分はただ、彼らがどこまでいっても"そう"なのだと、思い知ってしまっただけなのだ。己の信じるもののためならなんだってする。それ以外はどうなっても構わない。

そこに入り込む余地などない。
わかっている。
彼らの瞳は、どこまでも澄んでいる。
わかっていた。

「……、…………」

ず、と足が地面を擦る。踵を返して、ゆっくりと、努めて真っ直ぐに歩いた。
錠を抜き、扉を押し開ける。空はぼんやりと白み始めている。突き刺すような寒さが首を撫でた。羽織一枚では凌げそうもなかった。

さくりと雪に沈む自分の足が赤く染まっているのを見て、靴を履き替えていなかったことに気付く。良くないな、とぼんやり思うものの、足は止まらなかった。
迅は進み続ける。小島から伸びる橋を渡り、湖のほとりに出る。そこでようやく立ち止まり、

力を解いた。

一面の白に沈む。首を回して息を継げば、頬を冷たさが焼いた。
頭が冷えていくのを感じて、目を閉じる。

──3年前、彼杵繋を千縁戸の元へ連れていったのは、繋の志が成るべきだと思ったからだ。

繋は迅と同じ春に政府へやってきた。学園での功績を見込まれ推薦された、二つ上の同期。『三刀屋』というだけで政府と関わることが決まっていた迅にとって、繋は目の上のたんこぶだった。彼の一挙一動が皆の目を引く。彼はその目を裏切らない。人のくせに機械のようで、気持ち悪いと思った。

右へ倣えで繋の作ったものを持て囃す人間に反吐が出て、迅はいつも粗探しをした。政府に諂うだけの、ガワだけ取り繕った中身のない代物に意味などないと。彼の目の前で言ってやった。
すると周りは迅を白い目で見て、逆に繋は喜んだ。後から聞くと、迅の指摘は自分が課題に感じていたことそのものだったらしい。何を凡人の振りをしているのだと、その時は益々憎たらしく思ったものだ。
こちらの気も知らず、呑気にも彼はよく話しかけてきて、迅の作品を褒めていく。そういうところも気に食わなかった。

それが突然、ボロを出し始めた。

学友と何かを作っているらしい、と聞いたのは迅が十の時だ。彼と渡り合えるだけの能力を持っている人間が、なぜ政府に目を付けられていないのか。疑問ではあったが、とにかく繋は随分熱を入れているようだった。

数ヶ月後、繋から相談があった。彼は、霊力を蓄える機構を作りたいのだと言う。
繋はその身に余る霊力を小瓶型の霊器で外に逃がしている。逃がすのではなく蓄え有効活用できれば、一人で大型の術式を動かすことも可能になるだろう。そしてそれは彼だけに留まらない。霊力の少ない一般人でも術式を起動できるようになるかもしれなかった。

政府は喜ぶだろうと思った。繋の研究はいつも政府にとって有益だった。またか、と思いつつも違和感を覚えたのは、そこに載せる術式の展望がやけに具体的だったこと。
まるでほとんど完成したパズルの、最後のピースを埋めるようだったのだ。既に作った何かがあって、それに足りないものを補おうとしている。

聞いたのは、ほんの気まぐれだった。

『誰かにやるのか』

その時の彼の表情は忘れられない。微笑が消えて、目を丸くして。取り繕うのも忘れて、本当に虚をつかれた様子で。
それを見て驚くなという方が無理な話だ。迅もまた、間抜けな顔を晒した自覚がある。

最近研究室に来る時間が遅くなったから、学友に入れ込んでいるのかもしれないとは思っていた。けれど心のどこかでありえないと否定する自分もいた。
彼は迅の作品を賞賛するが、他の人間の作品もまた同じように賞賛する。そこに彼個人の嗜好や愛着は存在せず、いつもどこか達観的だ。だから迅は、彼と彼の言葉を空っぽだと思っていた。

そんな男が、特定の誰かに何かを与えるなど、信じられないし、信じたくもなかった。
気まずそうに肯定する男を、どんな思いで見れば良かったのか。

それから先はひどかった。開き直ったとでもいうのかもしれない。
繋はよく口を開くようになった。今日学園でこんな講義があったとか、学友と意見交換をしたとか、おかげで新しい視点を得たとか。饒舌な彼のせいで、会ったこともない男の像ばかり鮮明になっていくのが腹立たしかった。

とんだお喋り好きに引っかかって、迅は辟易していた。
繋は変わったのではない。元々"そう"だったのだろう。隠し紛れることが超人的に上手かっただけで。
まるで人間のような緋色の瞳を見ながら思う。
中身の伴ったそれは最早文句の付けようがなかった。

あてられていたのかもしれない。

気付けば迅は日夜蔵の書庫に篭もり、三刀屋の文献を漁っていた。祖父の代に差し掛かった時、借血の記述を見つけ、点在する手がかりを繋ぎ合わせて千縁戸へ辿り着いた。
得た知識と見解を繋に伝えると、彼はあれよあれよと話を進め、千縁戸との会談を設定した。迅も同行し、つづりと対話したあの訪問で、繋は当主、篝予から二つ返事を受け取った。

そうして始まったのが『繋布』研究だった。
迅が協力したのはそこまでで、情報統制のため繋布の進捗は預かり知らぬところとなる。けれども繋は迅との関わりを絶とうとせず、政府内はおろか三刀屋の蔵にまで押しかけるようになった。

迅は政府の依頼とは別に、よく霊器を作っていた。繋はそれについて意見を述べる。深層に届く言葉は、知らず渇きを癒やす。煮詰めた砂糖菓子のような近況報告は相変わらず続いていたので、結局胸焼けしてしまうのだが。

彼の言葉は昔と同じようでいて、段々と鮮やかになっていく。まるで彼の内側に閉じ込められていた顔料が溶け出すように。水を与えたのはきっと例の学友で、言うならば彼のおかげでその景色を見ることができるのだから、迅は彼に感謝すべきだと思う。
思うのに、それを見る度息が詰まる。

誰彼構わず甘言に漬けておいて、形をなくしていく者に手を差し伸べはしない。
欲などない体を取っておきながら、確固たる望みがその体を貫いている。
いくらでも抱えられる器のくせに、たった一人の人間にのぼせている。

嫌いだった。

あの目が嫌いだ。
あの横顔が、嫌いだ。

大嫌いだ。
嫌いなんだ。

この胸にずっと、焼き付いている熱を消し去ってしまえたら、どんなに、










ああそうか。










彼杵繋は死んだのだ。










真っ白な世界で寝返りを打つ。顔中に張り付いた水滴を軽く拭うと、ぼやけた視界に晴れた空が広がった。

東の青が桜色に焼けていく。
静かな朝だった。











また夏がやってきた。

ここで夏を迎えるのは二度目だった。森の中はひんやりとしていて夏でも居心地が良い。三刀屋の隠蔽のため、またしばらくしたら蔵ごと移動することになるだろうが、少なくとも今年の暑さはここで凌ぐつもりだった。

湖にぽっかり浮かんだ小島の上に構えられた三刀屋の蔵の中で、迅は一人の少年と向かい合っていた。
すう、と息を吸い込む。

「いいよ、受ける。彼が望んだ形になるかは知らないが、少なくとも術として機能する形にする」

飛鳥令人は、眉を上げた。

「ただその前に、一つ聞きたいことがある」

何か答えようとした飛鳥を、右手を上げて制す。

「彼杵繋は事故死した。けれど、その仔細は隠蔽されている。彼の研究は表沙汰にすると不味いものだからだ。親族も遺物も速やかに政府に囲われ、彼は密かに葬られた」

年が明けた頃、繋の死は、審神者業務中の戦死と報告された。彼の本丸で顕現された刀剣は、刀剣管理課の落宮の元で保管されている。その落宮が口を滑らせることには、遺物や政府の後ろめたいものは、軒並み彼の本丸に置かれているという。

「なのに君は、繋の手持ちから羅針盤を入手している」

一つ前の冬の記憶が正しければ、羅針盤は手渡されたわけではない。飛鳥が繋の手持ちを漁ったのだ。繋に接触できたとすれば、死の直前か直後。

「君は、見ていたんだな?」

ほぼ確信を持って問いかければ、瞳の光が少し陰った。

「羅針盤って、あれか?」
「君が分解してくれたやつだ」
「悪かったって。あの時は俺も頭に血が上ってたんだよ」
「今は下がってるって?」
「……下げたら、しまいだろうが」

地を這うような声に、胃の底を揺らされるような気がした。
飛鳥は頭をかいて言う。

「……事故、事故か。まあ確かにそうなんだろうな。研究室が爆発して、二~三フロア吹っ飛んだらしい」

それを聞いて今度こそ足元がぐらついた。
二〜三フロアといえば、大惨事もいいところではないか。なるほど、それで他のシステムに影響が出たのだろう。通路の電源が落ちた件も説明がつく。

「あいつは『後始末』のために、ビル内に残った」

そして繋はそれではくたばらなかったらしい。用意周到な彼のことだ、不測の事態の備えの一つや二つあってもおかしくはないが。

ではなぜ、彼杵繋は死んだのか。

少年は、吐き捨てる。

「そんで俺は、そこに入った」










迅は飛鳥が手に持つ長方形の紙を指差した。

「それで、そいつの名前は何にする」
「……名前?」

オウム返しをする飛鳥に説明する。

「この研究は表向きには凍結された。『繋布』は使えない」
「けいふ」
「……それの研究名だ。知らないのか」
「知らん。さすがに部外者に話さないだろ。まあ俺らで作ってんのと関連してるとは聞いてたけど」
「繋ぐ布と書いて繋布だ。君が持ってるそれは……布というより紙に近いが、こっちでは布寄りの物が研究されてたから」

恐らく植物か何かを原料にしているのだろう。紙を織るというのも耳慣れない話だが、それはおいおい聞かせてもらうことにしよう。

飛鳥は苦虫を噛み潰したような顔をした。

「あいつ、研究に自分の名前とか付けるタイプだったのかよ」
「いいや、想像通り。付けたのは彼じゃない」
「政府の人?」
「研究の主任だな」
「へー。繋のこと、随分買ってたんだ」

彼は白い紙を額に掲げて目を細める。
ああ、これからこの顔を幾度も見ることになるのだろうなと、迅は一人溜め息をついた。

つづりに顔向けできないな、と思う。彼女と同じように、身を引いておけば良かったのだろう。
それが正解だと。
ここから先は、破滅だと。
迅は予感じみたものを感じていた。

いい。この身を焚べて成るものがあるのなら。

「まあ今すぐにとは言わない。大枠として霊布と呼んでも構わないが、いずれは固有名詞を付けた方が──」
「もう決まってる」

唐突に、いくらか明るい声が被さる。
迅は瞬きする。首を傾げて促せば、飛鳥は口角を上げた。

織札おりふだ

その悪戯な笑みは、無垢な子供のようだった。

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