常磐木落葉
14,480文字
濡れた上履きを床に叩きつける。ばこんと床を跳ね、薄汚れた染みが広がっていった。
隣にいた女子生徒がギョッとするのを無視して廊下を素足で歩く。床の埃が布に付くのが嫌だったので、靴下は脱いだ。
ぺたぺたと廊下を進み、引き戸を勢いよく開ける。
「スリッパ借りたいんすけど」
事務員の顔は渋い。ノックをしろだとか、きちんと敬語を使えだとか、大方そんなことを言いたいのだろう。
「はいはい、スリッパね」
口にはしない。彼はただ事務的にスリッパを取りに行き、戻ってくる。軽く礼を言って受け取った。
「忘れたの?」
「ええまあ」
靴下を履きながら答える。俺が口を閉ざすと、それ以上の詮索をされることはなかった。
じりじりと頬の片側が焼かれている。空調は効いているものの、窓際の席は暑い。まだ初夏だというのに容赦ない日差しである。
「ねぇ亨さ、なんで最近スリッパなの?」
佑星は一つ聞いて、サンドイッチを頬張る。
俺は端的に答えた。
「上履きがないから」
しゃく、と葉物が咀嚼される音がする。数秒の沈黙が落ちて、サンドイッチは嚥下されていった。
「……そんなに見られると食べづらいんだけど」
「ふーん」
視線を下ろして、自分の食料のラップを剥がす。朝のうちに購買で買った焼きそばパンは、冷めていても美味い。
「あー……もしかして、この前呼び出されてたやつ?」
この前、と聞かれて思い返す。
衝動のまま床に投げ捨てた上履きは、その後用務員に見つかり、教師の耳に入れられた。当然のようにスリッパ装備の俺が目をつけられ、職員室に呼び出される。昼飯を食っている時にである。
誰にやられたのか、誰かと揉めたか、矢継ぎ早に問い詰める教師に、俺だってロクな情報は持っていないのだとお手上げのポーズを取り続ける。彼は予鈴が鳴る中、悩みがあればすぐに相談するようにと俺の肩を揺さぶった。悩みは昼飯を食べ損ねたことだと言えば、少々バツが悪そうに頭をはたかれた。おい、謝れよ。
悩みがあったとして、教師に期待するものなどたかが知れている。とっとと犯人を捕まえて、白日の下に晒し上げてくれればそれでいい。
教室に置いてきた佑星は、数人の女子に囲まれていた。漫画を借りていたらしく、何やら熱い感想戦を繰り広げており、後ろから声をかけると面白いように飛び上がったのを覚えている。
というか思い出したので、肯定してやった。
「そうだな」
「そこはあっさり教えてくれるのね」
「別に隠すことでもないし」
「聞かないと教えてくれないじゃん」
佑星はサンドイッチを両手で持って、不満げな顔をしていた。三角形の頂点をちみちみと唇で弄んでいる。ムカついたので弁当箱の唐揚げを誘拐した。
「あーちょっと!」
「きめぇ。三口で食え」
「それは無茶」
形だけの怒りを無視して、隣の卵焼きを追加で貰う。
「亨、パンばっかじゃなくて、タンパク質もちゃんと買いなよ」
「お前購買パン舐めてんな? 安くて美味いぞ」
「安いて! 百円そこらしか違わんでしょうが」
「それが年だと大分違うんだな」
箸を俺に取られているのでサンドイッチを食むことしかできない佑星は、奇声を上げて悶えていた。
「だから背伸びないんだよ」
思いついたように指差してくる奴のそれを、むんずと掴む。
「あいだだだだだ! すーぐ! すーぐそうやって!」
「夜ちゃんと食ってるわ! これはただの遺伝だ!」
捕らえた人差し指がぺきりと音を立てた。
母は夜遅くまで働いている。とてもではないが夕食を作る体力などない。かといって俺が作るかといえばそうではなく、適当に惣菜や弁当を買って帰る。なぜならその後バイトが控えているから。時は金なりである。
居酒屋のバイトでは賄いが出る。時々常連が奢ってくれることもあり、それもありがたく頂戴している。運が良ければ次の日の飯にもなるので、タッパーは常備することにした。クソみたいな酔っ払いも大勢いるが、そんな雑音の中だからこそ、気のいい客に出会えた時の感動は計り知れない。
なので夜は腹一杯食えている。身長の心配をされる言われはない。
「いいのか君、しまいには弁当一つ余分に持ってくるぞ」
佑星は解放された手をひらひらとはためかせて言う。その提案は、恨めしそうな目とはどうにもちぐはぐだった。
「なんで脅し口調なんだよ。貰えるもんは貰うぞ」
途端苦虫を噛み潰したような顔になる。
「不味そうに食うなあ」
「いや……あのね……君ね……」
「別に腹は十分だけどな」
佑星が俺のために弁当の具を増やしていることは知っている。それで十分だというのは嘘ではない。購買パン好きだし。
焼きそばパンを処理し、次にちくわパンを開封する。これは中にシーチキンが入っているので満足度が高い。彼の言うタンパク質もちゃんと入っている。
「つうかお前朝ギリギリだろ。弁当増やしたら遅刻するのがオチだ」
「平気で一限サボるか寝てる人に言われたくなかった」
「まあどこで寝ても一緒だからな」
「授業置いてかれるよ」
「おめーにノート見せてもらうからいい」
「キィーーッ! 俺のことなんだと思ってるのよ!」
「見た目と違って真面目な奴」
「正統なイケメンでしょうが」
サンドイッチがだんだんハンカチに見えてきた。さっきから全然食べ進めてないので、遠慮しているのかと思い箸を返してやる。ようやくまともに歯型を付けたのを確認して、俺もパンに齧り付いた。
「まあでも、亨理解が早いから教えがいあるよ。ほんと授業聞いてないのがもったいない」
「教師よりお前に聞く方がわかりやすいからな」
「いやあはは、そりゃまあ、ワンツーマンですし」
ハンカチをちゃんと食べ終えた佑星は、満更でもなさそうだった。
佑星は、世話好きである。
それは俺に限らずクラスの連中は皆対象になるようで、いつも誰かしらと会話しては世話を焼く様が聞こえてくる。
時々それがお節介になり、突き放されることもあるようだが、少々凹むだけでまたちょっかいをかけるのだから呑気なものだ。よほど人が好きと見る。
勝手に世話を焼いて一人で満足しているし、特にこちらにデメリットもないので好きにさせている。何が楽しいのかは、全く理解できない。
まあ、佑星が疲れたり面倒だと思うならやめればいいのだし、俺は鬱陶しいと感じたらとめればいい。
それだけのことだ。
靴を投げ捨てたのは失敗だったと、まくし立てる教師を見ながら思う。
俺は前回と同じく、昼休みに職員室に軟禁されていた。朝は遅く、夕方もとっとと下校する俺は、昼にしか捕まらないからという理由らしい。
「他の先生方にも頼んで、朝と放課後の巡回を強化してみよう」
さて何の話かと思えば、俺の靴を濡らした犯人を突き止めるとのこと。元より犯人の面は拝むつもりだが、俺には別の方針があった。
「ヤマセンさあ、あんまり隙がないと、犯人もしっぽ出してくんないよ」
「……お前な、再発しないに越したことはないだろう」
「なんで?」
靴からは犯人を特定できなかったのだ。次の犯行を誘導する必要がある。
「だから、標的はお前なんだぞ!」
「うるさっ! でかい声出さんでください!」
教師の声は鋭い。職員室がザワついて、じろじろと視線が刺さった。
「自分の身を粗末にするんじゃない」
がしり肩を掴む教師の顔は至って真摯だ。このやる気があと少し方向性を変えてくれれば、と思わずにはいられない。
「してないって」
「じゃあなんで靴をあそこに放置した」
仰け反る俺を引き戻して彼は問いかける。質問の意図が読めなくて、無言になる。
濡れた靴を投げ捨てたのは、ただの衝動だった。下駄箱を開けて、湿った感触に怖気が走って。何をされたのか理解した瞬間、一秒でも長くそれを触っていたくなくて、地面に叩き付けた。
「気付いてほしかったんだろ」
だから、何の疑いもなく真っ直ぐに見つめてくる男の目に、心底嫌悪感が湧いた。
「気付いて、助けてほしかったんだろう。もうお前が心を痛める必要はない。ここからは大人の問題だ」
それを耳に入れた瞬間、
空っぽの胃が沸騰して、熱が脳天まで到達した。
「ハァ〜〜!?俺がいつアンタに助けてほしいって言った!」
がたん、と派手な音がする。
眼下で教師の目が間抜けに見開かれている。状況を理解しきれていない男は、珍獣にでも遭遇したかのような顔をしていた。
そうだ、お前は何も理解しちゃいない。
「なんで俺が片付けなきゃなんねぇんだ? きったねぇ水に浸かったゴミを? 屑の尻拭いはてめぇらの仕事だろうが」
胸ぐらを掴む力を上げる。彼はようやく事態を把握したのか、俺の腕を捕らえた。
「ーー松風。汚れ物も、誰かが触らないといけないんだ。人の好意をそんな風に馬鹿にするんじゃない」
「そういうのが恩着せがましいっつってんだよ! 俺は!」
好意を受け取るも受け取らないも、自由であるべきで、強要されるものではない。ましてや賞賛を求めて渡すそれは、押し売りだ。迷惑だ。鬱陶しくてたまらない。
「お前らごときに、そんなもん期待してねぇ」
バカにされたのは俺だ。お前じゃない。俺が見返さなければ意味がない。
「……お前のそういう、人を見下すところが、いじめの原因じゃないのか」
気の毒そうな目が俺を貫く。
気付いた時には、背中は硬い感触に覆われていて、四肢は複数の人間に抑えられていた。
午後はずっと寝ていた。教室ではなく保健室で。
振り上げた拳は教師に当たることはなかった。容易に腕を取られ、床に投げ飛ばされ。聞き耳を立てていたらしい教師陣に押さえつけられ、抵抗虚しく保健室まで引きずられた。
痛む場所などどこにもなかったが、教室に戻る気は失せていた。どうせ戻っても寝るだけなのだからと、思う存分に惰眠を貪った。
ひとつ伸びをして、廊下を歩く。思ったより眠ってしまったようで、生徒の数は少ない。スーパーの特売には間に合いそうになかった。
とはいえ休息を得た頭はすっきり冴えている。
意気揚々と下駄箱を開けて、
開けて、閉めた。
ぐるりと周りを見渡す。談笑する女子生徒に、端末をいじる男子生徒。こちらを監視する者はいない。
ーー上履きの次は外靴。
人が掃けたのを確認して再び箱を開ける。受け皿に溜まった水と、ご丁寧にひっくり返して沈められているスニーカーを直視して、思わず盛大な舌打ちが出る。
ビニール袋は常備している。それは買い出しのために用意されている物であって、間違っても汚物を持ち帰るための物ではないのだが。
濡れて重くなったスニーカーをその中に落とし、スリッパを脱いで、下駄箱を見つめた。
そこには数日前に用務員に回収され返還された上履きが鎮座している。
「…………」
濡れた靴を履いて帰るよりはマシだ。
スリッパと上履きを置き換えて、振り返って、
「…………お疲れ」
引き攣った笑みを浮かべる佑星と目が合った。
「……いつからいた」
「え?今……」
煮え切らない返事をして、沈黙が落ちる。かと思えば、すいと目を逸らして自分の靴を履き替え始めた。まるで見てはいけない物を見てしまったかのような。かけるべき言葉を測りかねているような。
だから、余計な口を開く前に塞いだ。
「おぶれ」
「……え?」
間抜けな声を落とした佑星に向き直る。想像通りの焦燥した顔に、自分の歯が鳴るのを感じた。
「いいからおぶれっつってんだよ!」
「なんでケンカ腰ぃ!?」
用のなくなった上履きを下駄箱に投げ込み、靴下一枚で距離を詰める。棒立ちの男の肩を掴み力を入れると、困惑しながらもすとんと膝を折った。そのまま押し込んで後ろから飛び乗れば、潰れたカエルのような声が上がった。
「なんっ……なに……せめて優しく乗って……」
「レッツゴーユーセー」
ばしんと背中を叩く。佑星は自分の鞄を首に下げて、ゆっくりと腰を上げた。
「おっも」
「これくらいでへばってんじゃねぇ」
「人って結構重いからねぇ!?」
文句を垂れつつもよいしょ、と脚を抱え直す。
通行人が物珍しげにこちらを見る。目が合ったらさっと逸らされた。どいつもこいつも。
「ねぇちょっと、ガン飛ばしてないよね」
「飛ばしてねぇ」
ごん、と背中に頭突きをかます。一瞬ぐらついたので二度打ちはやめた。
やめて、そっと背に耳を当ててみると、とくとくと規則正しい心拍音が聞こえてくる。
それにどことなく懐かしさを覚えて、目を閉じた。
俺と佑星は、いわゆる幼馴染というやつだ。家が徒歩五分圏内なので、外に出れば大体会うし、互いの家を行き来することも多かった。大人数ではしゃぐ時も大抵佑星は同じグループにいて、彼が俺の近くにいるのは最早当たり前のことだった。
共に一番近場の高校を受けたことも、軽音部に入ったことも(俺は幽霊部員気味だが)、そこに深い理由なんてありはしない。
けれど思えば佑星は、いつも俺の選択を参考にしていた気がする。
いつも俺の面倒を見ていた気がする。
なぜそんなことをするのか。正義感が強いから、共感してしまうから、必要とされたいから?限界はないのか、すり減りはしないのか、面倒だと思わないのか。わからない。考えるのはとうにやめたのだ。彼はそういう性質なのだからと。
考えずとも、今まで困ることはなかったのだから、これからも考える必要はない。
あのさ、と控えめな声に目を開く。
「……なんで嫌われてるの?」
言うに事欠いて、犯人の動機ときた。
誰にやられたかすらわかっていないのに、そんなもの思い当たるわけがない。
「理由なんか知らねぇよ。喧嘩売られたからには叩き潰す」
吐き捨てた声に、下の体が強ばった気がした。それが少し苛立たしかったので首を締めてやる。
「ぎぎがぎごご、ちょ、落とす落とす」
「落としたら締める」
「もう締まってんのぉ!」
ああ、腹立たしい。くだらない嫌がらせを仕込む奴らも、俺に怯える佑星も。
俺は真っ当な怒りを抱いていて、奴らは報いを受けるべきで、佑星は復讐に協力……とまでは言わないが、それを肯定すべきだ。
「あんま反応しない方がいいんじゃない? 調子に乗るよきっと」
「いいや、むしろ乗らせるべきだね」
「……なんで」
「調子こいた奴はボロ出すからな。言い逃れできない証拠を抑えんだよ」
俺の靴は確かに濡れていたが、誰かが濡らすその瞬間を見たわけではない。あれでは証拠不十分なのだ。もっと明快な、器物破損や名誉毀損で脅せるくらいの物が欲しい。
小型カメラやレコーダーといった機材は和真(俺の幼馴染の一人だ)に言えば揃うだろう。盗撮だろうが盗聴だろうが、手段を選んでいる場合ではない。裁判には持っていけずとも、脅すくらいはできるはずだ。
「でも、その間亨は、」
「佑星」
それを言うことは許さない。
俺の足は乾いている。奴らの行いに、これっぽっちの被害も受け取っていない。
俺が受け取ったのは、"どうぞ殴ってください"という挑発だけ。
お前らが望むのなら、いくらでも同じ土俵に上がってやる。叩いて、殴って、二度と立ち上がれないように折ってやる。そうしてまだ拳を向けるのであれば、そちらの言い分を聞いてやってもいい。殴られる覚悟で告げるそれになら、多少の価値はあるだろう。
手を出したなら、底まで落ちろ。中途半端は許さない。
「……無理しないでね」
痛々しくてたまらないというその声には、覚えがあった。
俺はどこも痛めていないというのに。
「大丈夫だっつの。馬いるし」
「え、馬って俺?」
「他に誰がいんだ」
「ヒヒン……」
嘆いた声は少しだけ笑っていた。
「あーちー」
多目的ホールの床で寝返りを打つ。うつ伏せになっていくらか冷たい床に頬を擦り付けた。
「松風ー踏むよー」
「蹴るなおい」
ぐい、と脇腹を小突くのはクラスの委員長だった。彼女もまた額に汗を浮かべている。
同じく横で転がっている生徒たちがつま先でひっくり返されていく。
「俺たちはおせんべい……」
「アーまだ焼けてない! やめて委員長!」
昼下がりのホールはサウナ状態だった。空調は故障中らしい。
「なんで俺たちが割り当てられてる日に限ってぶっ壊れてんだこのポンコツは」
「それなー。松風、クーラーの下に保冷剤とか貼ってみろよ」
「わかった。じゃあお前保冷剤と養生テープ買ってこい」
「委員長ー買ってきてーあとついでにアイスも」
「嫌だよ。そんだけ元気なら大丈夫そうだね」
「アイスはさっき谷崎に買いに行かせたろ」
夏に行われる文化祭。そのイベントの一つとしてステージ発表があり、俺たちのクラスはミュージカルをすることになっていた。二流スターとして音楽活動する女性が、高校の音楽クラスの不良生徒を相手に奮闘するコメディストーリーだ。今寝転がっている連中は皆、不良役として立候補または推薦された者たちだった。
そして今、チャイムと共に劇中歌の譜面と睨めっこを開始したのだが、早々にバテて床に伸びていた。そこを見回りに来た委員長に咎められているのである。
「で君たち、決まった?」
起き上がったせんべいの一枚が答えた。
「全く。みんなでダチョウ倶楽部してたら誰もやらなくなっちゃった」
「何してんのさ。君ら一応歌える組だろ」
劇中歌にはメインボーカルがいる。ソロパートはもちろん、主役級の量の台詞までしっかり完備されているので、荷が重いと誰もやりたがらないのだ。
とはいえ歌が好きな連中だ。その場のノリで「どうぞどうぞ」と譲り合っているが、案ぜずともそのうち決まるだろう。
「松風ーお前やれよー」
「嫌だね。俺は演技とかわかんねぇよ」
「お前なら演技しなくても素でいけるだろ」
「どういう意味だオラ」
半笑いで煽るこの男も、中々に歌が上手い。合唱部に入っているだけあって、伸びのある音を出す。そういうお前こそやらないのかと問えば、またまたあ、と曖昧な返事が帰ってくる。何がしたいんだこいつは。
「俺はね、お前を買ってるんですよ。絶対真面目に歌ったら上手いだろうなーって。純粋に気になる」
「ハイハイ、褒めても何も出ねぇぞ」
メインは、皆を引っ張り焚き付ける存在でなければならない。俺がメインを張って不協を生むのはごめんだ。
今もこのホールに、俺に嫌がらせをする輩がいないとは限らないのだし。
「安西、フリが雑だぞ」
「あ、おかえり谷崎。サンキュー」
委員長が来る少し前、生徒の一人がアイスを調達しに出ていた。暑すぎると駄々を捏ねる俺たちを見かねたのだ。
「松風はやらねぇっつったらやらねぇだろ。言っても無駄だ」
「ええ、でもさあ谷崎、せっかくの学祭だぜ。普段聞けない奴の歌聞きたくない?」
二人は共に合唱部に所属している。順当に、二人のうちどちらかがメインをやるべきだ。強いて言うならば俺は安西の方が深みがあって好きだが、この際贅沢は言っていられない。
谷崎に矛先を向けようと口を開きかけた時だった。
「ちなみに言っとくと、伴奏は斉藤さんだからね」
「は?」
咄嗟に口は別の音を出した。
「は、てなんだよ。お前失礼だな……」
谷崎が苦い顔をするのは無視する。
「お前やるんじゃねぇのかよ」
体を起こすとばちりと目が合う。彼女は若干狼狽えたが、視線は逸らさなかった。俺は、こいつが案外負けず嫌いなことを知っている。余計なものを削ぎ落とした克己の精神。そこから生まれるのは、芯のある、曇りのない透明な音。
また聴けるものだと思っていたから、それは聞き捨てならなかった。
「いや、私は……」
何か不味いことでもあるのか。
「ほら、実行委員の仕事があるから、そういうのは別の子に任せようと思って」
抑揚のない、後ろめたさの滲む声だった。
なぜそんな嘘を吐くのかはわからないが、それが本心ではないことは明白だった。
「そうしろって言われたのか?」
「え?」
「ヤマセンに」
ゆっくりと息を吐いて、否定する。
「……違うよ。言うわけないよ。そんなこと」
「じゃあやれよ」
「いや話聞いてた?」
「できるだろ、やれよ」
調和を乱さず歌と溶け合える音は、一朝一夕で出せるものではない。お前にしかできないのだ。
ぴり、とどこかで空気が張り詰めた気がしたが、そんなことはどうでもよかった。
「…………」
彼女はふと表情を緩めると、俺の頭に手を置いた。
「松風って、五歳児みがある」
予想だにしない言葉が降ってきて、思わず顎が落ちる。
「あーわかる。よーちよちよち」
安西が横から頬をつついたのを認識して、ようやく思考が戻ってきた。
「……あ!? 脛とばしていいか!?」
「人の脚でだるま落としするんじゃない。身長の話じゃないから」
「あだだだだ! 俺には何も聞かねぇの!? なぁ!!」
暴れる安西の耳を引っ張りながら足を構える。委員長は呑気に笑っていた。おい、お前の話をしているんだが。
「なんでかね、松風にできるって言われると、自信持てる気がするよ」
「はあ。なんだそれ、自信なかったのか」
「まさか。自信はあるよ。あるからこそさ」
彼女は心做しか上機嫌だったが、いくら促してもその先を言うことはなかった。
あるから、なんだ。
そこはお前の場所だろうが。
「あー委員長いた! へループ!」
空気を読まない明るい声が響く。振り返れば佑星が入口から顔を出していた。
すかさず安西が野次を飛ばす。
「あ、無能理事長だ」
「お黙り不良共! 廃校にするぞ!」
「何、どしたの」
呼ばれた当人はすたすたとそちらへ行ってしまった。ちなみに無能理事長とは、佑星が演じる役の愛称(蔑称)である。
「いやーはよ配役名簿作れって急かされてるのぉ。助けて」
「私に言われてもな」
「一緒に急かして回ってよ」
この日は結局、アイスを食べ、雑に踊り、歌い、配役は決まらずに終わった。
和真に打診した小型カメラは、イヤホンの形を取っていた。録画、録音に加え、端末に専用アプリを入れれば、リアルタイムで映像を受け取ることも可能だとか。
放課後の教室で一人、それを自分の机に仕掛ける。もし中身を漁る者がいれば、これで捉えるという寸法だ。何でも電子データで事足りるご時世、机を占めるのはしょうもないプリント類。落書きされるも破かれるも、大したダメージにはならない。
当のイヤホンを盗まれることもありそうだが、それならそれで内蔵GPSを追えばいい。
嫌がらせは続いていた。
上履き、外靴ときて、お次はジャージが誘拐される。いっそサボってやろうかとも考えたが、佑星が隣のクラスから借りてきて事なきを得た。曰く、「まんまと不利益被るの、相手の思うツボじゃん」とのこと。
数日前に俺が言ったことを彼なりに解釈したらしい。俺は大丈夫だと言ったのに。犯人を調子に乗らせたいという部分はちゃんと覚えているだろうか。
授業をサボったところで、不利益を被ったとは感じない。しかしまあ、一般的には被ったように見えるのかもしれない。それで犯人が勘違いして調子付けば御の字だったのだが。
そこまで考えて、俺はそれを言わなかった。代わりに短く礼を言って、ジャージを受け取って授業に出た。
なぜ何も言えなかったのかは、俺にもわからない。もし余計なことをするなと小突いても、彼はきっと少ししょげるだけで、いつものようにへらりと笑っただろうに。
世話を焼かれるのが癖になっているからか。そう言い聞かせてみても我ながら腑に落ちない。
教室を後にし廊下を歩く。燃えるような赤が目に痛い。
「きみきみ、ちょっと」
声に振り向けば、いつかの渋い顔が手招きしていた。
「なんすか」
事務員は人の顔を見るなりため息を着く。
「なにじゃないよ。それいつまで借りてるの」
それ、と指差す先を目で追う。茶色いスリッパが蛍光灯の光をてかてかと反射させていた。
「あー、上履き洗っちゃったんで。そのうち返します」
「洗った」
彼は反芻して、探るようにこちらを見つめる。
この男はおそらく、こちらから言わない限り踏み込んでくることはない。
あの上履きは、正直もう履きたくない。どこの水に浸かったとも知れない物だ。
「きみだけ特別扱いというわけにもいかないんだよ。いつまでも乾かないなら、新しい物を用意しなさい」
嫌がらせを受けたと言ったところで、哀れみの目と共に同じ台詞が帰ってくるのだろう。どうせ同じことを言われるなら、のらりくらりと躱す方がいい。
「人から借りたものは、ちゃんと返さないといけないよ」
踏み込んではこない。
けれどこの男の、見透かすような目が嫌いだった。
いつか教師に抱いたような苛立ちは湧いてこない。一刻も早くこの場を去りたい思いがして、まるで逃げるみたいだな、とどこか遠くで声がする。
何から?
一体何から、逃げているんだ。
彼は言うだけ言って俺を追い越していく。その背中をどんなに睨み付けて、早くいなくなれと呪う。
足音が聞こえなくなっても、俺はただ虚空を見つめていた。
「天野ってさあ、なんで松風と仲良いわけ」
それを聞いた瞬間、他の音は全て消えた。
傾いた日が廊下を照らしていて、人ひとりいないそこは赤と黒にくっきりと分かれている。男が消えていった曲がり角で、二人分の影が揺れていた。
佑星と、谷崎だ。
「なんでって、幼馴染だし」
当たり障りのない音だった。何の感慨もない、平坦な声。
「幼馴染ならさ、余計嫌になったりしないの」
下卑た笑い声。嫌に決まっていると言いたげな、誘導じみたそれに吐き気がした。
永遠にも感じられる静寂が辺りを包む。影がぼやけて足を飲み込む。それでも音だけは痛いほどに冴え渡っていて、耳は次に寄せる波をただ待ち構えていた。
「まあ、言葉キツイなとは思う」
「だよなーお前よく我慢してるよ」
佑星は、人脈が広い。男女問わずすぐに打ち解ける。分け隔てなく、誰にでも優しい。
それは同時に、誰にでもへらへらと媚びを売る、流されやすい人間であることも指す。
「何もあんなべったり面倒見ることないんじゃね?」
「あーやっぱりそう見える?」
ああ、わかっている。それでいい。
エスカレートさせるのが目的なのだから、俺を孤立させて、お前は安全なところから見ていればいい。それが一番利口で、俺のためにもなる。
ああ、腹が立つ、煩わしい、気持ち悪い。
なんなんだ、どいつもこいつも。
いらないんだ。誰も助けてくれなんて頼んでいない。そこにいてくれれば良かった。いるだけで良かったのに、それにさえ何かを返さなくちゃならないのか。俺は何かを返せているのか? だとしたら、お前は俺から何を得ている。なんでお前はそこにいる。
知っているぞ。お前があの時、肯定も否定もしなかったことを。酷く冷静で、ずるい男だ。安全な身の振り方をよくわかっている。
俺は、そんなにかわいそうに見えるか。
俺とお前は見えるものも聞こえるものも違う。気の毒そうな顔をしてみても、理解できやしないのに。
手を貸しはしない。対岸の火事をそっと見つめているだけ。一緒に燃えはしない。命を懸けて消火することもない。燃える人の灯りで暖を取って、同じ温度になったと錯覚して。
でもそれでいいのだ。火傷を負ってほしいわけじゃないから。火を燻るままにさせてほしいから。こんなクソみたいな世界を、俺は愉しんですらみせるから。
だからお前は、変わらずそこで暖まっていればいい。
全てが終わった後に、変わらずそこで待っていてくれれば、それで。
ちゃんと、待ってるよな?
俺の耳は
なんで
いつも余計なものを
「ま、席近いしさ、べったりになっちゃうのもしょうがないかなぁって思うんだけど。鬱陶しいって思われてたらやだなあ」
「はい?」
「ていうかさ、『私と松風くんどっちが大事なのよ』って聞いてくる女の子どう思う?」
「いや彼女って言えよそこは」
「この問いはね、聞かれた時点で不満が溜まりに溜まっているんですよ。どう答えようと破局秒読み。覚えておきたまえよ童貞くん」
「俺は童貞じゃねぇ!」
はた、と目を開く。
いつの間にか閉じていたらしい視界の端で、黒い影が飛んでいった。カァ、という間抜けな鳴き声が聞こえてきて、全身からどっと力が抜ける。
新鮮な空気が肺に取り込まれて、噎せ返りそうになるのを咄嗟に抑えた。足が床から剥がれて数歩後ろに下がる。目眩がした。
佑星の声はいつも通りだ。それでも、それとなく話題を逸らしたことくらいわかる。取るに足らない話だったか? そんな風に流す話か?
違う、これは、彼にとって
"聞きたくない話"だ。
そういえば、と佑星は声を落とす。
「委員長がね、メインボーカル亨にするって言ってたよ」
え、と零れた声は頼りなくて、今にも消えそうだった。
拾ったその音は、パズルのピースのように頭の中で組み立てられる。かちりと何かが噛み合った気がした。
「ちょっと待てよ、あいつは別に合唱部とかじゃないだろ」
「ね、なんでだろうね。軽音でも最近見てないや……。てか委員長、さっき教室に忘れ物したって行ったきり帰ってきてないな」
そして、笑いながら言うのだ。
「一緒に聞きにいく? 探すついでに」
顔は見えない。見えなくて良かったと思う。
「……いや、いい」
「そ?」
気付けば足は動き出していた。
おそらく嫌がらせを計画したであろう男を殴りにではない。
俺は逃げた。
知っているようで知らない声を出す男から、逃げ出した。
転げるように階段を下り、廊下を走り、玄関の内扉を勢いよく開く。息が乱れ、足は縺れ、縋るように下駄箱に頭を付きかけて、
「ーーくそ!!」
がん、と全ての雑音を吹き飛ばした。
これは、安堵だ。変わらずそこにいることへの。
安堵してしまう自分に気付いてしまった。
今、何をしようとした?
"そこ"より先に踏み込むことはおろか、去ることすらも許せない。出られないように縛って、閉じ込めて、身動きを封じようとした?
そんなことをしなくても、彼はきっとそこにいるのに。
ーーそうか、俺は、不安だったのか。
自信がないから、無理やり繋ぎ止めようとした。その場所に縋った。そこでしか生きられないのだと絶望した。
ああ、腹が立つ。いつの間にか酷く己を見失っているらしい。どこで落としてきたのかわからない。誰か持っているなら見せてほしい。その代わり、俺に拾えるものがあれば拾うから。
なあ、なんで、お前はそこにいるんだ。
日は落ちて、辺りはすっかり暗くなっていた。
そこにとぼとぼとやってきた佑星を見て片手を上げる。彼は少し驚いた顔をするも、自分の下駄箱を開き、靴を履き替え始めた。
「随分遅いね。もしかして俺のこと待ってた?」
靴紐を結ぶ佑星の頭頂部を見つめる。普段靴紐なんて適当に締めているのに、今日はつま先から順番に緩んだ紐を手繰っていた。
「ああ」
待っていた。逃げたから。
子供扱いするなと牙を剥くくせ、置いていくなと喚く子供。全く、委員長が言っていた「五歳児」もいいところだ。
今まで理解できなくても上手くいっていた。だから聞こうとしなかった。
上手くいかなくなったのなら、聞くべきだ。
それだけのことなんだ。
しばらく無言の時が流れる。結び終わろうかというところで、口を開いた。
「聞こえてたぞ」
蝶結びの紐が抜ける。片結びになってしまったそれを直すこともできずに、佑星は固まる。
「お前さ、なんで俺といんの?」
人に囲まれている佑星は、きっと俺じゃなくても良かったはずだ。いつ見放しても良かったはずだ。それでもそこにいるのは、同情か、それとも。
「なん、なんでって」
佑星は目に見えて動揺していた。辛うじて口だけを動かしている。
無理もない。今まで触れなかった部分だから。でも、それはそれとして腹が立つ。やはり疚しいことでもあるのか。
しゃがみ込んで、彼の後ろ髪を掴んで引き上げる。じ、と赤い瞳を見つめていると、すぐにぐしゃりと歪んだ。
「ーーなんで?」
佑星は責めるような顔で、今にも泣き出しそうな声をしていた。
「"お節介野郎"で、見逃してよ」
「…………」
それは今までに聞いた中で最も悲痛で、混じりけのない音だった。
これだけ長く付き合ってきて、今更新しい音を認識することになるとは。
彼はおそらく嘘をつくのが上手いのだろう。今までの全てが嘘だったとは思わないが、まんまと躱されたこともきっと一度や二度でない。誰にでもいい顔ができるのも、嘘を有効に扱えるからか。
「鬱陶しいと思ってる? お節介だって突き放す? なんでそんなこと聞くの?」
彼はどうやら、負い目を感じているらしい。俺の悪口を言う奴をぶっ飛ばさなかったことだろうか。どさくさに紛れて愚痴っていたことだろうか。そんなことはこの際どうでもいい。
「不安だからだな」
佑星は動きを止めた。近年稀に見る真顔だった。
「……は?」
「お前ごときにかき乱されるのが腹立つ」
「……ごときって、え、それ俺のせい?」
「ごときだろ。今まで不安にされたことなかったんだから」
「なん…………え?」
「いいから答えろ」
佑星は口を割らない。放心している。宇宙人でも見たかのような顔をしている。そろそろ殴って吐かせた方がいいかもしれない。
拳を振り上げたところで、ようやく佑星は呟いた。
「……多分、亨は俺がいなくても生きていけるんだろうなって」
ぐ、と喉が詰まる。
見つめる瞳はぼんやりとしていて、俺を通してどこか遠くを見ている気さえした。
そうだな。俺もそうだと思っていた。
互いの領域を守っていれば、際限なく使い潰すことはない。その均衡を好いていたということか。
残念だが、俺はそうではなかったらしい。そうではなくなってしまったらしい。我ながら大事なものを落としてしまった。
「亨、ちゃんと受け取ってくれるけど、重荷にはしないだろ」
「…………あ?」
佑星は少し目を細めた。これは、多分何かを考えている顔ではあるのだが、いまいち話の流れが読めない。
「……何を?」
「お節介を」
「……お節介だと感じたらそもそも受け取らねぇよ」
「そうだよね。それがね、安心するんだ」
目を伏せて笑う。俺に向けているようで、自分に言い聞かせてもいるような。
要領を得ない物言いだ。
「……どう? 安心した?」
それでも、零れる音はどれも飾り気のないものに思えたから。
少しぎこちない問いは、見逃してやることにした。
「……あれか。つまりお前は、俺が不安にならない方が安心するってことか」
「……それは友だちなら普通だと思うんだけど」
「そうだな。俺たちは普通のことを言ってる」
「そうかも」
佑星は力なく笑っている。
「亨のそういう、ハッキリしたとこ好きだからさ。大事にしてよね、それ」
それは、きっと願いだ。
縛りでも、枷でもない。
ただ変わらずそこにいてほしいという、願い。
もしかしたらこの嫌がらせは、エスカレートすることなく霧散していくのかもしれない。復讐に至るまでもない、嫉妬心が起こした小さないざこざとして。
何事もなかったかのように奴が日常を取り戻していくのは気に食わない。証拠を集めて、完膚なきまでに叩きのめしてやりたかった。
それを、佑星はねじ曲げた。
俺から隠れて、俺の荷を軽くしようとした。
脳筋の教師は、掴みかかった俺を諭して、投げ飛ばして。彼は殴られる覚悟の下に俺を真っ向から否定した。
無愛想な事務員も、俺の領域に踏み込まないギリギリのところで忠告をした。
それらを手放しにありがたいとは思えない。ムカつくものはムカつくし、受け入れられないものは受け入れられない。
それでも少しだけ、ほんの少しだけ、変わってもいいような気がした。追い縋ることは醜いことだからと、俺は俺のままでいるのだと意地を張るのは、存外辛い。
変わらないために変わることを、許された気がしたのだ。だから聞いた。耳を塞がなくてもいいのだと思えた。
俺は変わらないから。
だからそんな風に、置いてけぼりにされたような顔をするな。
「心配しなくても、おめーの席、あるから」
お前の席があって、そこから声が聞こえるのは楽しい。ずっといてもいい。しばらく留守でもいい。
席が用意されているということを、覚えていてくれればそれでいい。
履き古した靴は、生乾きで下駄箱に放置されていたせいで酷い匂いを放っている。
それをどうでもいいと思えるくらいには、気分はからりと澄み渡っていた。
「……てかおい、俺の耳が腐ってなきゃ、俺がメインやらされることになってた気がすんだけど」
「ああそれね、委員長と俺で決めた」
「は!?」
「俺の手には神の名簿があります。俺が白と言えば黒も白です」
「てめ何勝手なことしてんだァ!」
「安西もノリノリでした」
「あの野郎!!」
「そうそう。そのデカい声で黙らせなさいよ」