白昼夢
9,649文字
夜。
夜は素晴らしい。深まる闇はどんな清濁をも飲み込んで溶かしていく。全てをさらけ出し、自分に素直になっても許される。脳中に飼った花が一斉に開いて、多幸感に逆上せていくその感覚が心地よい。今日もそのはずだった。
頭が急速に冷えていく。
「……ゆうくん、どうしたの……?」
おい嘘だろと、問いかける。
返事はない。我が息子は萎びてそっぽを向いている。
ぶわりと嫌な汗が吹き出す。インポ、ED、勃起不全。瞬時に巡った思考が警鐘を鳴らす。
落ち着け天野佑星。例えお前の息子が役立たずでも、愛してやらねばならない。親のお前が息子を見捨ててどうするというのだ。
時間を稼ぐ。
出した答えは単純明快だった。
「……次はコレで遊ばない?」
何食わぬ声音で取り出したそれは、どぎついピンク色のローター。可愛らしい卵形のそれは遠隔で操作することができる。
ちらりと頭をよぎった記憶は、なぜか今は思い出してはいけない気がした。
「やだ……ゆうくんのが欲しい……」
しなだれるりんちゃん。さすがはプロといったところか、いじらしさのレベルが違う。いつもの俺なら秒で反応していたし、可愛く強請られて落ちない男などいないだろう。据え膳食わぬは男の恥。お残しは許されない。
「ふふ、まだだぁめ」
「あっ」
彼女を優しく押し倒し、覆い被さる。頭を撫で額に軽く口付けてやれば、きゅ、と目を細める様子が愛おしい。
頭を撫でられるのが好きな女の子は多く、単純に可愛がる以上にその場を凌ぐ目的で使うスキルでもある。つい先日じゃじゃ馬にも効果があることが判明したので、この説は信憑性が高いと言えるだろう。
そう、ちょうどこんな風に大人しくなって、力みがとれて、
「……りんちゃん」
「え?」
「ごめん。やっぱり挿れてもいい?」
「……うん、いいよ?」
ごめん、ともう一度心の中で謝る。彼女に、自身の息子に。
その日俺は、過去に縋るセックスをしていた。
飴色の灯りに照らされた店内は、グラスのぶつかる音や陽気な笑い声に溢れていた。
その中に紛れ込ませるように身の内の思いを訥々を語る。目の前に座る男は時折相槌を打ちながらせっせと那須の天ぷらを口に運んでいた。
「へえ、お前にも春は来るんだな」
「話聞いてた?枯れてるんだけど」
自分で吐いた言葉に心臓を刺されながら素知らぬ顔の友人を睨めつける。
「お前は年中夏の男だと思ってたよ」
「ハイハイ、刹那的って言いたいのね?」
「なんだ、らしくない。その時その瞬間を楽しむ。お前の美学だろ」
そうだ、今更その姿勢を変えるつもりはない。できれば今後もそうして生きていきたいというのに。
「もう会えないのか?」
腐れ縁兼友人の和真はグラスの縁を持ちゆらゆらと回している。
「再会の可能性は限りなく低いね」
『彼女』に関して言えば、ほぼない。
かと言って『彼』にもう一度会いたいかと聞かれれば、答えは否。
寸分狂わず繰り出された拳。顎から突き抜けた衝撃は俺の脳を揺らし、めまい、耳鳴りを引き起こす。糸が切れるように意識が落ちて、次に目が覚めた時には上半身と股間はすっかり冷えきっていた。
自分の身に起こったことを調べてみたところ、あの技にはタイミングなど諸々の精度が求められるらしい。腰もろくに立たなかったろうにあの一瞬であの判断。彼女、いや彼は相当の手練だと結論付けた。
きっと彼は抵抗できなかったのではなく、抵抗しなかったのだ。それが最善だと頭のどこかで理解していたから。中出しだなんてとち狂ったミッション、達成してやる義理もなかったが、やらないと出られないというのだからこの世は理不尽である。大義名分の名のもとに美味しい思いをした俺の話はさておき。
「じゃあ破局なのか。せっかく温まってきたのに」
「始まってすらいないからね? 心は冷え冷えよ?」
「熱いのは股間だけか……」
「和真ってたまにおじさん臭くなるよね」
「お前も似たようなもんだよ」
愚息はあれ以来呑気なもので、あの部屋での記憶に引っかかるような物に喜び勇んで反応しては、それ以外の物には全く興味を示さなくなってしまった。試しに借りたAVは素人モノがお気に召したようである。完全に引きずっていることを証明されて軽く死にたくなった。
……百歩譲って興奮するのはいい、それ以外に反応しなくなってしまったことが問題なのだ。
あの日はハメを外してキツめのプレイをした自覚がある。それが不味かったのか? 湯に揺蕩うような刺激では満足できない身体になってしまったのだろうか。
きっとあの時に飲んだ精力剤の副作用に違いない。いやそうであってくれと俺は願わずにはいられなかった。
「……まぁでも、時間の問題か」
原因が彼にせよ薬にせよ、どちらも時間が経てば薄れていくものだから。今はまだ余韻が尾を引いているだけ。
必ずその時は来る。焦る必要はない。
「そうだな。時間にしか癒せない傷がある」
「だから勝手に失恋させるなよ人を」
速いペースで杯を重ねる和真を横目に、俺は甘苦い雫をちびりと飲み下す。無性に塩辛いものが恋しくなって和真の皿からイカリングを掠め取った。
毎回一杯目から日本酒を入れる和真の目が据わりかけている。そろそろ締めかな、と良い塩梅に煮立った思考で呟いた。
「そういえばあの子、和服着てたな。君と同業者だったりして」
「うん?」
和真は審神者という職に就いている。
なんでもこの国は一般人には視認できない何かと戦争状態にあるらしい。幼い頃から言い聞かされはしたが、あまりにも実害がないので半ば冷戦中なのではないかと踏んでいる。まあ、さしずめヤクザ……もとい自衛隊のような物と言えばいいだろうか。
以前、何度か和真と共に審神者関係者が生活する区域に忍び込んだことがある。一見何の変哲もなく思える横丁だが、通行証を携帯していると、たちまち未知の区域への通路に姿を変える。目が眩む程の美形な男共が揃いも揃って和服を身にまとい帯刀している様は圧巻で、住む世界が違うのだと痛いほど実感させられた。
「や、単に寝巻きとかかもしれないけどさ」
得体の知れない物が戦争になるほど溢れているとすれば、ある日突然見知らぬ部屋に見知らぬ人間と閉じ込められ、その様子をどこからか監視されることになろうと不思議ではない、と自分を納得させる。あれ、実害出てないか。
「君たちは、俺らには見えない物にいっぱい触れてるんだろうなぁ」
「……なんだ?『そっち系』の生命体だったのか?」
「怖いこと言わないでよ」
生命体とはなんだ生命体とは。一々規模がデカい。
「容姿は? お前好みの女の子というと……なんだっけ」
こてんと首を傾げてみせる友人にため息が出る。和真、それは余計なお世話というやつだ。
「いいよいいよ。知らないほうがいい」
「なんだよ、別にお膳立てする気はないぞ。話の流れだろ」
「君さては面白がってるな」
表情は変わらないが瞳は悪戯っ子ようにきらりと光っている。それなりに長い付き合いの俺にはわかる。これは紛うことなき『余計なお世話』モード。
その目に絆された末路を俺は身をもって知っている。
「いやだよ、殴られるのはもうたくさんなんだ」
「佑、お前老けたな」
「大人になったと言ってくれ」
「……守るものが増えると、大人にならざるを得ないよな」
和真はどこか遠くを見つめていた。実際今や俺とは別世界で生きている。彼もあれから苦労しているのだろう。随分と澄ました顔をするようになった。
俺は守るものだなんて大層な言い方をするつもりはないが、まあ引き際の見極めくらいは上手くなったのではと思う。
「で、背丈は? 髪の長さは? 胸の大きさは?」
信頼する側近と実の姉に殴られたというのに、この男はまだまだ懲りていないらしかった。
『誰から回ってきた?』
てろん、と通知音を鳴らした端末を見て僕は首を捻る。てっきり会話は終わったものだと思っていたが、彼は続きを聞きたいらしい。
先日、伯労さんから連絡を受けた。内容は人探し。政府の依頼という訳ではなく、伯労さん個人の頼みという話だった。
水色の髪に淡い赤紫の瞳と聞いて、真っ先に思い浮かべたのが鶺鴒だったので、彼にも聞いてみることにしたのだ。
少女、と言っていたので彼自身ではないのだが、姉妹や親戚に特徴の合致する女性がいるかもしれない。そう思い『何か心当たりがあれば教えてくれ』と文面で情報共有をしたところ、返ってきたのは『悪いけど知らん』という簡潔な返事だった。
空振りに終わったとはいえ鶺鴒関係である可能性を一つ潰せたので良しとして、『わかった、ありがとう』と打ち込んだのが今朝のこと。そして暖かな陽気に満ちた昼下がり、先の通知が来た。
彼はあまり長い会話が好きではない。それが仕事関連であれば尚更。プライベートな内容であれば気が向いた時にぽつぽつと返信してくれるのだが、仕事となると途中で『今話せるか?』と通話体勢に切り替えることも少なくない。
そんな彼が文面で会話を続けようとしている。個人依頼という点では彼の中でプライベートの枠に入るのだろうか。それとも朝は睡魔により思い出せなかっただけで、思い当たる節があったのだろうか。
少し違和感を覚えるも、『伯労さんだ』と出せる答えは提供しておく。すぐに既読のマークが付いて、数秒の沈黙の後に『六十里の?』と続く。
いくつか六十里家について解説を添える。七紋一派の六十里家は主に執政に携わっている。時空の監視及び審神者を管理する時の政府と、一般市民を管理し統治機構を運用する外の政府を繋ぐ重要な立ち位置にあり、外と交わる機会も多いのがこの家の特徴である。
なのでもしかすると、伯労さんの探し人はこちら側の人間ではないのかもしれない。『そう簡単には見つからないかもな』と締め括り、返答を待った。
『わかんねぇぞ。世界は意外と狭いっていうしな』
そうかもしれない。人との縁は、思いもよらぬところで繋がり芽生えるものだ。
『そのうち見つかんだろ。あんま根詰めるなよ』
ふふ、と思わず声が漏れる。大根が地中に埋められているスタンプが送られてきた。葉を掴まれた泣き顔には悲壮感が漂っている。
ありがとう、と僕は人参を咥えた兎で返しておいた。
「あ」
と、完全に忘れていた。これも伝えておかなければ。
『最近、数人規模で白い空間に幽閉される事例が多発しているんだが』
何でも空間内である実験への協力を強制され、非協力的な態度を取れば生命の危険まであるという。実験内容は様々で、直近の物だとカラオケで95点以上の得点を上げる、だったか。一体どのような論に必要なのか、またなぜ脅すような要請なのかなど、不可解な点は多い。
『陸奥国でワープコアが発見されたんだ』
こちらは二階堂が調査を担当していて、現在各地に点在していると思われるワープコアを回収して回っている。
コアはいくつかの対になっており、同時に何らかの反応を検知することで作動するようだ。陸奥国で見つかったコアは、同地域内に対のコアが存在していた。厳密には片方は審神者指定区域外にあり、こちらの人間以外にも一般人が巻き込まれたことが判明している。
『そのうち正式な発表があると思うけど、不審なものを見つけたら触らずに報告してくれ』
『起動条件はわからん?』
『少なくとも、対のワープコアそれぞれの周りに一人だけの時に発生するらしい』
『ふーん。じゃあ複数人で当たった方がいいな』
そう、今回の問題はそこである。圧倒的な人員不足。
区域内ならともかく、外で帯刀するわけにはいかない。彼らを連れるなら幻術に頼る必要があるが、生憎その類の幻術は量産が規制されており、認可を受けるのにも少々手間がかかる。そのため、ひとまずは二階堂や政府から人材を集めつつ、複数組の刀剣に区域内のコアを捜索してもらっている。
外のコアは未だ手付かずの状態だ。
『まあ、そうだな。外にもあるから、時間のかかる作業になると思う』
しばらく区域外には出ない方がいいかも、と打ち込んで、それよりも先に上がってきた吹き出しに目を見張った。
『手、足りてる?』
たちまち自分の頬が緩むのを感じる。
久しぶりに一緒に仕事ができるかもしれない。
立ち往生で落ち込んだ気分は、今日の鶺鴒はやけに積極的だなという違和感と一緒に吹き飛んだ。
さくりと口の中で衣が溶ける。紅生姜と青のりの風味が広がって、さっぱりとした塩気に舌鼓を打つ。手頃なサイズの揚げ菓子は食べ歩くにはちょうどいい。
やはり休日は外に出るに限る。当てもなく目に付いた物に向かい、惜しみなく散財する。それだけで日頃の疲れが吹き飛ぶのだから、我ながら便利な体をしていると思う。
最も、これほど清々しいのは、己の分身との和解が済んだからかもしれないが。
ーーつい数十分前、俺は自宅のテレビを虚ろな心で見つめていた。
童顔ショートヘアの女性。股間が違う、との判定を下す。
容姿が好みであることは確かだが、喘ぎ声がわざとらしい。もっとか細い悲鳴のような鳴き声は出せぬものかーー、彼の注文は多い。
処女とは儚いものである。どんなに初な反応をしていても、回数を重ねれば恥じらいは薄れるし、ある程度の余裕が出てくる。最初こそ自分がこの体を拓いたのだという優越感も抱くのだが、それも時が経つに連れて徐々に薄れ、新しい刺激もなくぬるま湯に浸かるような日々を送る。
出会いの先には必ず別れがある。別れを惜しむならそれなりの労力をかけ続けなければならないが、俺はその力を何かを失わないためよりも得るために使っていたい。結局駆け引きをしている間が一番楽しいのだ。
その点彼女は都合がいい。二度と会うことがない故に、その幻想を否定する者もいない。
「……あれ?」
そうだ。彼女はこれ以上ないほどの逸材。
俺は気付く。今のこの状況は滅多にない好機であると。
時はまだかと以前の趣味を掘り起こして息子の機嫌を伺うなど、俺らしくない。
受け入れよう。百歩を譲ることにしよう。あの刺激を葬ってしまうのは勿体ない。いっそ楽しんでしまえ。自分を許してやるのだ。
和真に少女の乱れぶりを惚気た時の高揚は中々のものだった。自分に素直になるだけであんなにも気が満たされるのだから、これは全くもって素晴らしい気付きである。
うんうんと頷く和真が話を聞いていたかは微妙なところだが、気持ちよく話せたので恐らく聞いていたのだと思う。そういえば『俺は年上のほうがいい』などとぼやいていた気がする。
自身の趣向を認めることは、同時に趣向でないものが存在することを認めることでもある。
和真の趣味を俺は理解できないかもしれない。だがそれに腹を立てる必要はない。いつか理解できる時が来るかもしれないし、来ないとしても、それは自分の趣味に誇りを持てているということだ。
ぷつんと切れたテレビには、まるで憑き物が落ちたような顔の俺が映っている。
ーーそうして俺は、膝を一つ叩いて立ち上がるのだった。
最後の一口を放り込んで、包みを通りに設置された塵箱に落とす。さて、映画を見るか、本を物色するか、カラオケでもいい。練り歩いていれば友人に会うかもしれない。
ふわりと鼻をくすぐる胡麻の香り。どこからか漂うそれは俺を誘うようだ。
そういえばこの辺りのラーメン店はまだ制覇していない。そして性欲のしがらみから解き放たれた今、食欲に舵を切るのは至極真っ当なことのように思える。
香りを追って角を曲がる。薄暗い路地奥にその店は建っていた。
ちょっとした隠れ家的な佇まいに期待を抱きつつ、赤い暖簾を潜る。
「こんにちはー」
誰もいない。
人ひとりいないその室内は、少し肌寒く靄がかっていた。
まさか今日は定休日だったか。ではあの匂いは仕込みか、賄いだろうか。ならば仕方ない。名残惜しさを感じながらも踵を返し、
ひょん、と軽い音がした。
その瞬間、光が鈍く、重たくなる。
脳裏にこびり付いた記憶、埋め立てられたそれがその機械音によって揺さぶられ、浮上してくる。
前にもこんなことがあった。
思考が溶けるような感覚、視界が傾いてぐるりと反転する。
俺はこれを知っている。
終わりとはいつも唐突で、儚い。まるで夢から覚めるようだ。
痛みも恐怖もない。こんなにも脆く美しい終わりを多く迎えられる俺は、きっと運に恵まれている。
ああ、今度は俺に
どんな未知を見せてくれるんだ。
「大丈夫ですか!?」
衝撃はいつまで待っても訪れなかった。
代わりに肩に感じたのはやけに熱い手の温度。
「良かった……間一髪でしたね」
90度回転した身体を手を伸ばし支えて、何とか身を起こす。振り返ればそこには凛々しい顔付きの青年がいた。
呆けた頭を軽く振って辺りを見渡す。薄汚れたパイプの張り付く壁、所々雑草の生えるひび割れたアスファルト。そこに店などなく、日の陰る路地裏に俺はただへたり込んでいた。
「お兄さん、何もない路地に入るから。具合悪かったんですか?」
青年は労りの表情を浮かべて俺の顔を覗き込んでいる。
何もないはずがない。あの香ばしい匂いは確かにここから流れてきていた。
「……あー?」
また不思議体験というやつか。全く、この身も随分その手のものに慣れたらしい。
「いや、そうなんだよ。ふらっと休憩したくて……」
青年はじっとこちらの瞳を見つめている。近い近い。
路地裏に若者二人。傍から見たら少々誤解を招きそうな状況である。
その沈黙を破る者が一人。
「おおい!一人で行動すんなっ……て……」
びしりと身体が固まる。
それは声の主も同じようで、徐々に減速する歩みに路地は再び静まり返った。
目が合った俺たちは、互いに似たような表情をしていたと思う。
そこにいたのは、あの日の少年だった。
だらだらと勝手に流れる汗を止める術はない。まさか再会するとは夢にも思わなかったから、心の準備ができていない。なぜ俺はこんなにも焦っているのか。会うと何か不味いことでもあったか。大いにある。そう、これはとても良くない。
「ん? 君たち知り合いか?」
焦げ茶色の髪の青年は俺たちを交互に見比べ、口火を切る。
考えるよりも先に口が動いていた。
「いや、珍しい髪色の子だなって! 不躾に見ちゃってごめんね」
脳内でかちりとギアが入った音がする。停止した思考がようやく回り出した。
あの日のことは、互いにあの部屋限りのこととしてけりを付けたいはずだ。俺がその肌の感触を覚えていようと、現実に持ち込んでその先を求めるような関係ではない。
何より少年はかなり御立腹の様子であった。そうでなければ殴られた意味がわからない。嫌がる自分を押さえつけて猿のように腰を振ったのだと今にも罵られそうだ。
証拠がないため、そこまで大事になるとは思わない。しかし印象というのは根深い物で、会社にでもちくられた日には信用に傷が付くことになる。まだ志半ばだというのに。友人に至っては『お前はいつかやると思ってた』だなんて白い目を向けてくるのが容易に想像できる。
「へぇ……」
少年の目は既に白い。なんだよ、あんなに可愛くよがってたくせに。
ぴろろろ、と電子音が路地に響く。
「あ、悪い。少し待っててくれ」
「え」
青年は腰から端末を持ち上げると、路地の出口の方に行ってしまった。
二人残された俺たちは静かに見つめ合っている。いや、俺は睨まれていたかもしれない。
「そのガラス」
少年が指差した壁には何かガラス状のものが埋め込まれていた。彼は一直線にそこへ向かうとY字型の器具を近づける。ばきん、と磁石の様に引き寄せられたそれは、綺麗な正八面体をしていた。
「これ、あの部屋への案内装置」
「あ、ああ……」
「お前が設置したのか?」
「へ?」
「手当り次第に人間連れ込んで、気に入った奴がいたら出た後に網張ろうって?」
ぽかん、と口が開く。幼い顔付きでありながらその目は獲物を捉える猛禽類のように鋭い。
俺は彼の言葉を反芻する。
彼の中で俺は随分有能な策士となっているようではないか。
「ちょ、ちょっと待って。その言い方だと、俺があの部屋を作った、みたいに聞こえるんだけど」
「惚けてんじゃねぇ! その汗で誤魔化せると思ってんのか!」
「いや焦るでしょ俺殴られたんだよ!? 覚えてる!?」
ぐりぐりと顔に立体の角を押し付けられる。そんなにぞんざいな扱いでいいのだろうか。俺が本当に策士なら彼の身も危ないと思うのだが。
「とにかく俺じゃないって。買い被りすぎ」
「……じゃあ何で俺を探してたんだよ」
「は?」
この光景、どこかで見た気がする。ああそうだ、月曜9時のドラマで、ヒロインがもう放っておいてほしいと手を振りほどくシーン。何で私を探すの、と捨てきれない未練を抱えた彼女に主人公はどうしたんだっけ。どうせ俺なしじゃ生きれないくせにとイキった口調で泣かせたんだったか。
この少年はそういう、可哀想なヒロインという感じはしなかったんだけどな。意外と脆いのかもしれない。
というか俺には彼を探していた記憶がないので、微妙にズレていてちょっと面白くなった。笑ったら顎が砕ける予感がしたので何とか抑えた。
「そんなことしないよ。お互いあの部屋のことは、あの部屋の中だけで完結させたいだろ?」
我ながら冷静な声が出て、自分の思考が整理される。
夢を夢として楽しむには、夢から覚めなければならない。彼女と彼は別物なのだ。
「……なるほどな」
少年は何か腑に落ちたようで、ほんの少しだけ視線を和らげた。
そこに安堵を覚えて、ほ、と息をつく。
彼はあの時とは違い、襦袢に着物、袴を合わせている。相変わらず胸元は少々緩い。
その併せに手を忍ばせた情景が蘇る。きゅうと丸まる身体を剥いて、その帯を解き、何度もイきそうになる度に指を止めて、それでもなおドアに縋る彼女を、どろどろになるまで溶かした。
素知らぬ顔の少年。別物だから当然だ。
それでいいはずなんだ。
「あの部屋、モニタリングされてたろ」
ふと少年は声のトーンを下げた。
「あん時の映像、どっかから出てくるかもなあ」
吊り上げた口角に対して一切笑っていない瞳に背筋が凍る。
この少年と先程の青年、恐らくあの部屋について嗅ぎ回っているのだろう。犯人が捕まるのも時間の問題な気がする。
そして実験というくらいだ。そう言われてみれば、記録の一つや二つ、残されていても不思議ではない。それが出てくると非常に不味い。裁判沙汰が一気に現実味を帯びてくる。
「さて、勘の良さそうなお前に質問です。お前がすべきことは何でしょう」
「いや、はは……勘弁してくださいよ……」
一体何をされるというのか。金品を要求されるのか、体のいい小間使いにされるのか、それとも俺が彼と同じ、もしくはそれ以上の目に合わされるのか。
彼のことなど早く忘れてしまいたいというのに。
猛烈に逃げ出したい。何とかここを切り抜ける手段はないか。
とりあえず先程の青年が戻ってくるまで会話の引き伸ばしを図るべきか。
「えーと……」
ーー本当にそれでいいのか?
俺が乗れば彼は言わない。なぜならそれは彼にとっても捨て身の秘密だから。
生真面目そうな青年に自分が受けた恥辱を洗いざらい暴露できるのか? いいや、できるはずがない。このプライドの高そうな少年が。
乗ってしまえばいい。
細く緩い立ち姿の中に確かに立つ靱やかな芯。それでいて押せば揺れる余地を残している芯。
落としてみたくはないか? この穢れを知らない、美しい人間を。
夢は、覚めなければ、現実にも成り得る。
手が届く位置にあるそれを、掴まない理由など、いつ何時もあり得ない。
瞬間、がばりと彼の前に跪いていた。
「ご主人! 靴でもちんこでも舐めます!」
直後顔面を蹴り飛ばされた。
「やめろ!!!!!」
「なぜですかご主人!」
「どういう思考してればそうなんだよ! 俺はお前のご主人じゃねぇ!」
「え、じゃあなんて呼べばいいの」
「急に正気に戻るな!」
液体の垂れてくる感触を鼻に覚えながら俺は未知への期待に胸を膨らませる。
ああ、良かった。
俺はまだ、冷静らしい。
鶺鴒、と。そう怒鳴るように名乗った少年にふと思い出す存在があった。
ーーこの子も鳥の名前なんだな。
脳内で微かにニヤついている友人が、サムズアップをした気がした。