滲んだ染み
6,986文字
「出来心だったんです、やったらできちゃったんだもん」
こけた頬、骨ばった肩。窶れた風体の男は、上目遣いで身体をくねらせた。後ろ手に拘束されていなければ拳を二つ眼前に揃えていただろう甘えた撓り。こんな汚物をキョウの前に晒していいものかと横を見れば、何やらこちらも首を傾げていた。
「ではあの部屋は、貴方が構築されたのですか」
まるで意に介さない様子のキョウに心の中で合掌する。俺なら一発腹に入れておくところだが、さすがの忍耐力である。まずはこちらの疑問を解決させる気らしい。
「そりゃそうよ。なんたってわたしは天才でございますので」
彼はへらへらと笑ってみせた。嗄れた息の音が胡散臭さを助長させている。
キョウは手元の端末に何事かを打ち込み、淡々と続けた。
「なるほど、それは勿体ないですね。もっと多くの人がその才能の恩恵を受けられる策を探すといいんじゃないでしょうか」
いつもと何ら変わりないように思える笑顔で男の肩を叩く。そこに既視感を覚えてーー即座に否定した。
キョウは本気だ。作り笑顔でもなければ、皮肉を込めた笑顔でもない。善意から改心の道を進めていて、その道が正しいと本気で思っている。
あれと似ているのは表層だけ。間違っても重ねるだなんてことは許されない。
「ええ、ええ、ですから、馬鹿にも理解できるようにあの部屋を選んだ」
肩に添えられた手を引き、男がこれでもかと顔を近づける。俺は仰け反ったキョウを更に追いかける男の首根っこを掴んだ。
「おい、その辺にしとけよ」
「否定したのはあなたたちですよ。あれほどわかりやすい欲の昇華もないでしょうに」
男は構わずキョウに食いつく。手錠がガチャガチャと擦れる音がした。
「みんなわたしのこと馬鹿扱いして、腫れ物扱いして」
唾が飛ぶような勢いで捲し立てる。実際飛んでいたかもしれないが、俺からは死角になっていて見えなかった。
「馬鹿はおまえらのほうだっていうのに、馬鹿、馬鹿、馬鹿、おまえら全員馬鹿!」
侮り、蔑み、憎しみ、腹に抱えた毒をひたすらに吐き散らす。耳障りなそれらに頬が引き攣るのを感じた。
「ねぇ、あなたもご存知でしょう。己が神の機嫌を伺うことしかできない人間だと」
ぎょろりと瞳がこちらを向く。落窪んだ瞼から覗くそれは酷く濁っていて、微かに三日月型に歪んでいた。
ああ、やはり覚えているのか。数十もの実験を繰り返していれば、一人くらい記憶から抜け落ちているかもしれないと淡い期待を抱いていたが、そう都合良くもいかないらしい。
データの在処を聞かなければならない。元々それが目的だった。恥を抹消するために、らしくもなく首を突っ込んで、キョウに頼って、件の変態野郎と再会する羽目になってまで、漕ぎ着けた。
だがここでは聞けない。そうでなければキョウに隠してきた意味がない。労力全てが水の泡だ。
何か言わなければと重い口を開きかけた時、ぴしゃりとそれは響いた。
「そういう信仰の形もあるでしょう。しかし、それに縛られすぎて己の価値を見失ってしまうのは、悲しいことだと思います」
体温が数度下がったような感覚と共にその言葉を飲み下す。
神ではなく、人としての発言だった。
ああ、やっぱり違うな。
キョウは、人としてあるべき像を追い求め続ける、人間だ。彼はどこまでも人だった。
目の前で下卑た笑みを浮かべていた男の顔から、一切の感情が削げ落ちた。ゆっくりと振り返る彼を目で追う。
「あなた方も、わたしの価値を奪おうとするんですね。落ちませんよ、わたしは。地べたに這い蹲るのは馬鹿だけで十分です」
男の背はわなわなと震えていた。向かい合った二人の男の表情は見えない。
しばしの沈黙の後、
「……それが貴方の目指す神であるなら、あなたは正しく神であったと思いますよ」
キョウは噛み締めるようにそう答えた。
昏倒した男のポケットから覗いたガラス片は、触れればスイッチという文字を浮かび上がらせた。そこには埋め込まれた小さなボタン。一体何のスイッチかと首を傾げて、それが男のポケットから出てきた物であることを思い出す。恐らく男はそれを『隠し持っていた』。
すなわち、あれは男女をスイッチするーー入れ替えるトリガーだったのではないか。そうであるならば、男は全て自分に任せておけという言葉通り、つつがなく事を終わらせたことになる。余計な情報は一切与えず、相手に疑問も不安も抱かせない。事実何かを考える余裕はなく、記憶が途切れる直前には脳の煮える感覚だけが頭を支配していた。
性欲に思考を乗っ取られた馬鹿と侮り、同じところに堕ちてなるものかと己を叱責した。しかし、あの男は頭から尾まで冷静だったのだ。結局馬鹿になっていたのは俺だけだということに気付いてしまった瞬間、駆け出さずにはいられなかった。
羞恥も葛藤も、全ては無意味な徒労で。上から見下ろすのはさぞ気分が良かっただろう。完全なる敗北だと認めざるを得ない。
俺は人生の汚点をまた一つ増やしてしまったことに溜め息をつきながら、その染みを二度と見えないように脳の隅に追いやるしかなかった。
それが間もなくして、再び目の前に広がってくることになるとは。
「世界狭すぎるんだよぉ!」
「荒れてるなぁ」
「えーなになに、なしたの。今日お祝いじゃなかったっけ」
食卓に突っ伏すとがたがたと揺れが伝播する。向かいで皿が空に救出される気配を感じながらも、額を打ち付ける動作は止められなかった。ごん、ごんと脳を震わせると酔いが一気に身体中を巡る。交互に来る浮遊感と鈍い痛みに溺れて、この憂鬱な気分を飛ばしてしまいたかった。
「そのはずだな。愚痴を聞いてくれと頼まれた覚えはない」
「あ、鶴丸楽しんでる。主が撃沈してんのに」
「人聞きの悪い。いつもの酒宴かと思えば、珍しいものに立ち会えた。役得というやつだろう」
「やめろってー。そういうこと言うと主なにも言えなくなっちゃうから」
この場でたった一人の人類に聞かれたら悪評が立つであろう文言をいけしゃあしゃあと宣う鶴丸はどことなく上機嫌である。聞こえてんだよ。
しかしツッコむ気力は既にない。獅子王がそちらに回ってくれているので大人しくそれに甘えることにする。全くできる刀だ。育ての親の顔が見てみたい。まあ俺なんだが。
「で、なんだ。例の事件、解決したんだよな」
「……したよ」
突然白い空間に投げ込まれ、無理難題を押し付けられる事案。ワープコアから漏れる微量の霊力を逆探知し、犯人と思わしき男を捕らえることができた。
いくつかダミーに引っ掛けられるという腹立たしい事態も発生したが、所詮は一介の自称技術者。数の力には敵わない。ようやく認可が下りた幻術札をありったけ使い、刀剣に包囲網を張らせる。後は存外呆気ない幕引きであった。
なお、男に問い詰めたところによると、あの部屋の映像記録はその部屋毎に保存されているらしい。ワープコアが回収されてしまった今では、その部屋が一体どこの空間を彷徨っているのか分からなくなってしまった。
つまり、あると言えばあるし、ないと言えばない。二階堂家が大量のコアをどう扱うのか気になるところであるが、切実に破壊して欲しい思いと、全て検分させろという思いがせめぎ合っている。
まあそれはさておき、そこそこ大きな仕事を片付けたということで、先程二階堂の打ち上げを終えてきた。どことなく物足りなさを感じたので、こうして本丸で飲み直している。今日ばかりは歌仙も見逃してくれているが、四合瓶一本でストップがかかった。
「キョウと喧嘩したとか?」
「……してないよ、するわけないじゃん」
思わず首を捻って声の主を見上げる。燭台切が用意してくれた椎茸のシーチキン乗せが獅子王の口に消えていった。
できないな、と思う。
多分あいつと喧嘩する時は、俺が一方的に怒りをぶつけて終わる気がした。そして俺の人権も同時に終わりを告げるのだ。
男を相手取ったキョウがやけに無機質に感じられたのは、罪を償わねばならない人間の前だったからなのか。醜くのたうつ男をその目に捉えておきながら、明確な肯定も否定もせず、一切の感情を乱さない。いつもこちらの言葉や感情に応答してコロコロと表情を変える彼にしては、あまりにも異質で、心底怖いと思った。
自身の信条とそぐわない程度では、彼は怒りを覚えないのかもしれない。もしくはあれが怒りに相当する反応なのだろうか。あれをぶつけられたら、俺はきっと一人相撲の虚しさに耐えきれず敵前逃亡する。
真っ当な怒り。例えば、体裁も外聞も取り払った思いを、感情に乗せてぶつけること。キョウがそれを行うことがあるとして、おそらくそこに俺はいない。
なぜならキョウは、彼ではないから。
勝手に彼と重ねたのは俺。キョウは彼にはなれないし、ならないのだ。
「調査中、例の空間に巻き込まれた、とかどうだ」
鶴丸が口に運んだアボカドチーズがみょんと伸びて、ぷつりと切れた。
「どうだじゃねぇえええ!! 人の悩みをクイズ感覚で当てるな!!」
「え、今そういう流れじゃなかったか」
「え、当たってんの?」
当たってねぇよと、間髪入れずに吐き出せば良かったのだ。言葉の綾だと言えば、一線のわかるこの二振は滅多に踏み込んで来ないのだから。
ああもう、駄目だ。
「ねぇ二人とも、聞いてほしいんだけど」
その時の俺の顔は、わかりやすく死相が滲んでいたと思う。
「吐きそう」
途端ぎょっとした二振の顔が面白くて、ほんの少しだけ溜飲が下がった気がした。
別にいつもと変わらなかった。それなりに先は読める方だし、嘘をつくのも苦手でない。酒量は少なくないし、引き際は弁えている。
結果このように体調を崩していることから、その判断は間違っていたということになる。
「うぇえ……」
「おーい、だいじょぶかー……」
言語を紡ぐ余裕はなかったので個室の壁をこつこつと叩く。少々バツの悪そうな声色だった。別に笑い飛ばしてくれても構わないのだが、飲み直しとはいえたかだか一合飲んだ程度で潰れたので、違和感でそれどころではないのだろう。
あらかた吐き出して気分はいくらかマシになった。紙を巻き取り口を拭う。汚物に蓋をして水に流す。汚いものは見たくなかった。それでも、すぐに自分で掃除しなければと思った。
「……きたねえ」
ああそうだ。
汚いものは見たくないし、見せたくないのだ。
木を隠すなら森の中、人を隠すなら人混みの中、汚れを隠すなら汚れの中。
多少の汚れは本当に見せたくないものを包み隠してくれる。あいつみたいに完璧になろうとしたわけじゃない。あいつとは違う方法でそれを視界から消そうとした。汚れに真正面から向き合って、全て綺麗に紐解いて、飲み込んだりは俺にはできないから。
キョウはそもそも汚れを汚れとして認識しない嫌いがある。だからキョウとあいつは違う。わかっている。それでも、
彼にまで、汚れを認識されたなら、その時俺はきっと耐えられない。
あの部屋で、恥と醜態を晒した自分を、全て投げ出して思考を放棄した自分を、一瞬なら汚れを見せてもいいかと楽になってしまった自分を、
本当は楽になりたい自分を、
「主」
感じたのは、別の温度。
ゆっくりと視線を落とすと腕をしかと掴む手があった。
倒れたら危ないからと言われ、個室の鍵はかけずにいた。振り返ればそこには獅子王がいるのだろう。わかっているのに、身体はなぜか動かなかった。
「俺、やっとくから、寝とけ」
胃酸に塗れていた口内は乾ききって、不快な刺激臭が鼻に抜けた。
「布団敷いといたぞー」
厠の外からいつもの鶴丸の声がする。腕を掴む手の力が強くなった。
多分あと少しで引っ張られる。そうしたら俺は無様にたたらを踏んで、されるがままに寝室に連れていかれるのだろう。
取り繕うなら、今。
こうして俺に選択の余地を与えるのは、さすがというか。我ながら良い教育をした。
俺が道に迷いかけた時に、元の道を示してくれる。
ありがたいことだ。そしてそんな役を背負わせてしまって、申し訳ないとも思う。
本当は不満なのかもしれない。彼らの行動は時々、道を外れろと、もっと頼って欲しいと訴えてくるから。おそらく自惚れでない。
だから、頼れるところで頼っておかなければ。
「あー、うん。お願いします」
発した音は笑えるほど掠れていた。その言葉に無言で手を離した獅子王の顔は見ることができなかった。
「お、出すもの出したか?」
「もーでねぇな」
「うわ! お、驚いた……」
「人の顔見て失礼な反応じゃない?」
「きみ……一緒に生気か何か吐いたか?」
「いやー出てるかも、持っていかれた……」
蛇口を捻り口を濯ぐ。軽く顔を洗うと冷たい水が火照った頬に沁みた。
最近は内外合わせて、汚いものに触れすぎた。
そう気付いた視界は、嫌になるほどはっきりと冴え渡っている。
室内にカチカチと打鍵音が響く。外の天気は良く、窓際に陣取る俺の半身を暖めていた。
政府の提供するPC室は空いている。大抵の情報収集は自端末で事足りることが多いからだろう。わざわざ出向いて得られる情報といえば、構内ネットワークに乗っている当たり障りのない職員名簿、各本丸で進行中の任務についてなど。加えて飲食禁止であるので、長居するには向いていない。
「あーやっぱりか」
そんな寂れた空間で、俺は過去に起こった犯罪について調べていた。
検索から算出されたのは数年前の事件ファイル。3人の少年が指定区域侵入及び内通罪に問われた事件。
六十里家の審神者、伯労。彼はかつて、一般人を区域内に通すという罪を犯していた。軽犯罪に分類されるそれに下された判決は懲役六ヶ月。破門の噂も立っていたが、結局彼は本丸に戻った。
そんな彼が、つい先日水色の髪に淡い赤紫の瞳の少女を探していたという。十中八九俺のことである。一体どこから嗅ぎつけたのか。可能性は2つ。あの空間か、天野本人の関係者であること。
もちろんそのどちらでもある可能性も考慮してみたが、天野はあの空間については何も知らないらしい。しれっとスイッチを隠し持っていた男の言うことは信じ難い。
まあ、それは犯人が捕まったので良しとする。
兎にも角にも伯労が区域外の人脈を得やすい立場であることは確かで。更には天野と歳が近いときた。ひょっとして、とその事件について調べたところ、こちらは侵入罪として罰金を食らった『天野佑星』の名前が出てくる。
つまり、彼らは知人だったのだろう。そして今も尚、関係を保っている。
「思ってたより馬鹿やってんな」
つくづく頭が良いのか悪いのかよく分からない男である。門の前でダチョウ倶楽部でもやっていたのか。
てろん、と軽快な音が響いて、思考がそちらに行く。現れた通知を確認して溜め息が漏れた。
『あるとは思ってたけど出ちゃったか〜そっか〜』
噂をすれば天野である。
彼には部屋の主が捕まり、部屋の記録も回収された体で報告してある。
彼と再会したのは、薄暗い路地だった。
心底会いたくなかったという顔をするので、こいつにも守りたい体裁なんてものがあるのかと疑問を抱いた記憶がある。
彼は、深く考えず楽しんでしまえばいいと、それが正しいのだと自信に満ちた横柄さで事に及んだ。それが打算や性欲に塗れていようとも、少なからず同意してしまったから、俺は負けを認めたというのに。
そして、きっぱり認めることで染みを清算できれば良かったのだが、この頭はそう割り切れない性質らしい。思ったよりも『敗北』の二文字は脳裏にこびりついている。先日身を持って思い知らされた。
大抵そういう染みは、とことん頭の隅に追いやって隠しているがーー
勝ちの記憶で上書きできるというなら、そうしない手はない。
『中身どんなんですか? 最初から撮られてる?』
あってないような物なので、確認しているわけがないが、適当にでっち上げることにする。
『モニターがついた辺りから、俺が元に戻る前辺り』
『え、見たの』
『見たけど』
『欲しいです。ください』
これはツッコミ待ちだろうか。お互い抹消したい記録のはずだが、若干別のニュアンスを感じる気がする。
『欲しいならそれなりに積め』
『コレですか』
コレ、とOKマークを送ってくる天野はふざけているようにしか見えない。いや落ち着け、追い詰められると一周回ってふざけるタイプかもしれない。
口座に5億振り込んでおけというのも酷だろうし、それではつまらない。そもそも記録は手元にないのだし。
さてどうしようかと画面を開いたまま思案していると、下から候補が上がってきた。
『メシとかなら? いくらでも奢ります』
めんどくせぇ。
第一にその感想が浮かんで、待てよと冷静に考える。この様子だと奴は徹底して下手に出るつもりのようだ。
最近は区域外に出ていなかった。内部の散歩コースもマンネリ気味。それに一人の顔見知りもいない雑踏に紛れるのは嫌いでない。
休日の息抜きのついでに昼代が浮く。何なら飯屋の選択を他人に任せられるというのは楽でいい。ああ、何も考えたくなくなってきた。
脱力感。
なんかもう、こいつはいいか。
繕わなければならないものなど最早存在しない。飽きたら適当にすっぽかせばいい。
これよりお前はお望み通りサンドバッグとなるのだ。
『わかった。絞る』
『やめて』
雑な宣言に雑な嘆きが返ってきて、俺は気の抜けるような思いで端末を机に滑らせた。
暖かな陽光に誘われるまま、重くなる瞼を閉じる。
落ちる寸前、何か猛烈な違和感を覚えた気がした。