砂の鏡

8,334文字

幾度目かのアラームを、画面をあちこち叩いて止めた。
うつ伏せで潰された腹がぐうと鳴り、しぶしぶ体を起こす。枕元の端末は8時過ぎを示していた。まだ歌仙とお玉はやってきていないようである。
初夏、気持ちの良い晴天。日で温められた畳へ這い出て、寝巻きの袖を抜く。箪笥からいつもの着流しを引っ掴んだところで、はたと思い出すことがあった。
「ちがうちがう。休み」
特に休日用の服があるわけではない。大抵は着流し一枚で、重要な任務に当たる時だけ襦袢と袴を揃える。
最近はそういった急な出陣要請もなく、各時代における遡行軍の定期掃討をこなしている。それも部隊長の指揮に任せていることがほとんどで、俺のすることといえば危なげなく任を達成してくる彼らの報告を受け、手入れをするくらい。その間に手合わせの監督をしたり、時に自分も混ぜられたり、稀に馬糞が飛んできたり、追いかけっこしたり。あとは形式張った報告書がいくつかあるが、まあそれは月末になんとかなるので問題ない。ないったらない。
平和だなあ、と何もない天井を見つめて、感覚が麻痺していることに苦笑した。
本丸に寝泊まりしていることもあり、平日と休日の境が曖昧な日々を過ごしている。しかし今日は一般的に"休日"と呼ばれるであろう予定があった。
「戸くらい閉めたらどうなんだい」
「んー、はよ」
部屋の外から歌仙の呆れ声が聞こえてくる。男所帯とは言えね、と続くお決まり文句は聞き慣れた物で、彼も律儀に窘めてはいるが半ば諦めたような様子だった。
軽くいなし箪笥の奥を漁っている間、歌仙は先ほど引っ張り出してそのままだった着流しを隣で畳んでいた。
「きみの距離感、時々わからなくなるよ」
「なんだそれ」
短刀たちが多い時間帯に風呂に入ったりはするし、そう言われるほど露骨に距離を置いているつもりはない。
目当てのTシャツを掘り当て、畳み皺を伸ばす。もう随分着ていなかった気がする。頭から被ったそれは微かに防虫剤の匂いをさせていた。洗っておけばよかったかと一瞬脱ぐか迷うが、面倒なのでやめた。
「今日は出かけるのかい?」
「うん」
「そうか、良かった。最近煮詰まっていただろう」
すぽん、と襟から頭を抜く。ゆっくりと歌仙の言葉を噛み締めて、そちらを見た。
一月前、獅子王と鶴丸と飲んだきり酒には手を付けていない。正直酒を味わうどころではなかったし、手っ取り早く酔いを回すために飲んだ面も否めなかった。
案の定吐きはしたものの、溜まっていた悪いものを外に出せたので、それなりにすっきりしたと思っていたのだが。
歌仙に言わせれば、これはまだ不合格らしい。
「なぜそうむくれるんだい。心配してるだけだよ」
「むくれてない。寝起きなだけ」
「はいはい、顔を洗っておいで」
一体何がダメだったのか。いつもと違うところがあったから言うのだろうが、生憎心当たりがない。
「夕餉はいるかい?」
「ああ。夕方には帰るから」
「わかった」
楽しんでおいで、と言う歌仙に俺は首を傾げる。
外に出るのはあくまで息抜きであって、楽しむためではない。当てもなく、ぶらぶらと人混みに紛れる。自分が何か大きな流れの一部になったかのような浮遊感。あれは、"楽しむ"と言うにはあまりにも現実離れしていて、なんだかその言葉では括りたくなかったのだ。
「うん」
それでも頷いたのは、歌仙が嬉しそうだったから。
俺の仲間たちはきっと、俺が楽しんでいる方が、安心する。



外への通路は、大都市付近に多く張り巡らされている。首都圏の一角に構えられた武蔵国も、その例に漏れず多くの抜け道を持っていた。
待ち合わせは浅草駅。ちょうど4番出口が通路として機能する。武蔵の転送ゲートでそこ目掛けて飛ぶこともできるが、本丸最寄りの通路から先に外へ出てしまうことにした。
当然外の交通機関を乗り継ぐことになる。平日の昼前だというのに中々の人混みだった。スーツ姿のサラリーマン、大きな荷物を抱えた外国人、手摺に寄りかかって談笑しているのは……修学旅行生か。線路を滑る箱に揺られながら、雑多な音を耳に入れる。
いつぶりだろう、外に出たのは。
初めてではない。一貫校を卒業した頃、よく外の空気を吸いに来ていた。
自分の霊力量では、本丸の維持が難しいことはわかっていた。だからまず、三刀屋みとやじんの協力を仰いで、あいつの研究を引き継ぐことにした。
そうして迅経由で出会った落宮おちみやという男に、えらくこき使われて。
落宮は現金な男だった。必要なことを必要なだけ教え、それに見合う対価を要求する。わかりやすい契約。互いに利のある取引であるために、彼の言うままに糸を撚り、霊布を編んだ。
あまりにも神経のすり減る作業である。今時、霊布なんて機械で大量生産できるし、そもそも純度を上げたところで術者に適合しなければ逆効果。一体誰が、何のために使う気なのか。
干渉することはしなかった。そうするにはあまりにも、こちらの後暗い部分が大きかったから。
最終的に目当ての物は完成したが、正直落宮の顔を見ると今でも苦い思いをせざるを得ない。
思えば随分疲弊していたのだろう。その時期の外はとても綺麗に感じた。
きんと冷え込んだクリスマスの夜。薄く積もった粉雪を踏みしめ、アスファルトに溶かすあの感覚。その後遠藤えんどうの働いているコンビニに深夜まで居座ったのだったか。そうだ、あの餅巾着は大層身に染みた。
周りを刀剣たちに囲まれるようになって忘れていた。ぼやけていた記憶がじわじわと蘇ってきて、触発された腹が空腹を訴える。
同時にびー、とアナウンスが入った。まもなく停車して、人が流れ始める。それに逆らわずホームに降り立つ。タイルに歩幅を合わせて歩き、エスカレーターに吸われる人を横目に階段を踏んだ。
べんがら色の屋根を越えると、脳天に暖かな日差しを感じる。人間もいつか光合成で生きていける日がくるのだろうか。そう思えるほど心地の良い空気だった。
端末の通知はゼロ件。まだ待ち合わせまで時間があった。
足の赴くまま、辺りをぶらつくことにする。



「来てくれないんじゃないかと思った」
目の前の男は、皿の上でフォークを回しながらそう笑った。
天野あまのと名乗った青年は、俺が駅出口に戻った頃には既に待機していた。チノパンに七分丈のノーカラーシャツ、肩から下がる薄い鞄。セットしているのだろう猫っ毛にはしっかり見覚えがあった。
飯を奢るという話が上がってから二週間。少し大きな事件が片付いて、余裕を持って日課に勤しむようになった頃、日程決めを切り出された。いくつか店の候補を出されて、小洒落た名前のパスタ店を所望する。とにかく無性にカルボナーラが食べたかった。
もっと頻繁に連絡をしてくるタイプかと思っていたが、会話という会話はその二回だけだった。交友関係が広いのか、仕事に打ち込んでいるのか、暇な時間に人と話す趣味は持っていないのか。
例え今日俺が来ていなくともそこまで困る男ではないように思う。代わりの友人などいくらでもいるのだろうし、その軟派な態度で呼びつければ空席はすぐに埋まりそうだ。
というかそもそも、奴隷宣言をした割に態度があっさりしすぎている。これは金の搾取であって、お前はヘラヘラするところではない。罪の自覚が足りないぞ。
「来るだろ。タダ飯だし」
「まあ〜でもさ、嫌いな奴とご飯食べたくないって言われたら、それで終わっちゃうじゃん」
「……きら……」
「え? そこ真剣に考える?」
嫌い、嫌いというより、癇に障る。
苛立ちの矛先は他でもないこいつだが、このむしゃくしゃした思いを発散する先もまた、こいつでしかない。
「……サンドバッグを殴る時」
「うん?」
「サンドバッグを何かに見立てることはあっても、サンドバッグ自身を憎むことはない」
「……物……だしね」
「そういうこと」
「俺サンドバッグって言われてる?」
この男はこの男で、自分が嫌われてるかもしれない相手を食事に誘うという行為ができるらしい。なんと図太い神経なことか。
天野は、サンドバッグか……、と複雑そうな顔で巻き上げた冷製パスタを見つめていた。つるんと解けて皿に落ちた。
「君、サンドバッグとか使うの?」
今度は俺が落とす番だった。
「……俺に筋肉がねえって言いたいのか……」
「言ってない! 何も思ってないよ!」
「嘘をつけ今『想像できない』って顔してただろ」
あれは案外バランスを取るのが難しい。ストレス解消のために殴るようなやり方では、反動で体をぶたれて敗北する。
ただの例え話だ。俺はサンドバッグは使わないが、お前はサンドバッグの概念である。実際に伸すのであれば打撃技よりも関節技を決めたい。
「いやっ、その……確かに華奢だなとは思うけど、鶺鴒せきれいくん強いじゃん? だからなんかスポーツやってるのかなって」
「スポーツだぁ……?」
そういえばこいつのことは一度沈めていたか。顎を打ち抜いて、目を回した様子を覚えている。
『どうせ誰も見てないんだし、俺たちの縁もこれっきりだと思えばさ』
目的を達成したというのに、"ついでに"と行為を再開しようとした男を殴ったのは、正当防衛と見なされるか否か。
殴らなければこちらがやられていた、かどうかはわからない。ただ俺は、あそこで明確に、拒んでおかなければならなかったのだ。あれ以上あの男の言葉を聞いてはいけない気がした。だから力づくで、ねじ伏せて、黙らせて、
「知り合いもね、格闘技やってるんだけど、やっぱやってる人って立ち姿から違うんだなって」
「……殴られるまで気付いてなかったろ」
「あの時は立ち姿っていうかほとんど寝姿しか見てなごっ」
がたん、と天野はテーブルに勢いよくしがみついた。床と一体化したそれはひっくり返ることはなく、皿だけがカタカタと音を立てる。彼は体を縮め悶絶していた。
「まあ、俺のは軽い護身術だよ。職業柄あると便利でね」
「今職業関係ありました!? てかただの脛蹴りですよね!?」
「相手の急所をつくのは基本だろ」
「加減して! 無闇につかないで!」
喚く男を無視してベーコンを噛む。黒胡椒がよく効いていた。
それは食事中にする話ではない。いや、いつ何時もする話ではない。今後一切するべきではない。

しばらく震えた後、天野は何事もなかったかのように向き直った。エビが口の中に消えていく。
「……職業柄って、警察とかそういうの?」
素知らぬ顔で聞いてくる天野を鼻で笑う。
隠しているつもりか知らないが、審神者生活区域に侵入していたことはとうに掴んでいる。伯労はくろうと繋がりがあることも。
区域外において、審神者という職業は眉唾物とされている。区域があるといっても通行証がなければ認知することはできないし、小さな被害は記憶処理で誤魔化されているから。大きな被害──歴史が改変されたその時は、こちらが何かするまでもなく、人の記憶は"上書き"される。区域外の人間は、どう転んでも、審神者について認識を深めることはないのだ。
だから、天野の反応は一般人としては正解だ。残念ながらお前は前科者なわけだが。
「審神者って知ってるか」
徐々に、それとなく探りを入れる。
つもりだった。
「あ〜やっぱり! そうだと思った!」
「ん?」
「自衛隊みたいな感じだよね」
「じえ……」
天野は突然はしゃぎ出した。
なぜなのか。触れられたくない話題じゃないのか。
眉根を寄せれば天野はああ、と説明する。
「審神者の知り合いいてさ。そいつと似てたから。ほら、和服着てたりとか」
十中八九伯労のことを言っているのだろうが、隠す気がなさすぎる。なんなら話したそうである。
「……予想ついてたんなら最初からそう言え」
「ああいや、いきなり言い当てたら気持ち悪いかなと」
「……」
つまり、こうか。
天野は一般人を装うつもりは毛頭なく、知人と同業者であることに親しみを感じて喜んでいると、そういうことなのか。
一際大きなため息が出た。
天野にとって伯労という男は、共に罪を犯した後ろめたい記憶ではなく、変わらずそこにいる友人、らしい。
『お互いあの部屋のことは、あの部屋の中だけで完結させたいだろ?』
そうだ、あの言葉はどうにも嘘だとは思えなかった。天野が伯労にしたのは、俺の捜索依頼ではなく、相手した一人の女の話とか、多分その程度だ。それを伯労が勝手に探していた。だから『水色の髪に淡い赤紫の瞳の"少女"』だった。
こいつは自分を隠そうとはしていないし、俺を謀ろうともしていない。
直接犯罪について聞いてみればまた反応も違うかもしれないが、それは止めることにした。
なんというか、萎えてしまったのだ。勝手に意地の悪い妄想をしていた自分に。
「ど、どこ見てるの……? なんかいるの……?」
「お前の後ろ」
「う? ……いざというときはよろしくお願いします、本職さん」
「はー……?」
「そんな嫌そうな顔しなくても」
守るといっても、区域外での霊力使用に関しては制限がある。無闇に大きな出力を出せば政府の網に引っかかり、後に書類の山が押し寄せてくることになるのだ。
──実はこの網、一般人の安全保証は建前で、審神者の素質のある者を洗い出す方が本意であるとか、書類は量を書けば通るような物であるとか、そういう話は置いておき。
力に驕ってはならない。何か大きな存在を感じたとき、目を合わせてはならない。逃げることを忘れてはならない。何者かになれると錯覚して、蛮勇を振るう人間を、赦してはならない。
"外"では特に、錯覚が起きやすい。力は無闇に使うべきではないだろう。
「護身しろ。妙な物に首突っ込むなよ」
「ええ、そうは言っても、不可抗力とかあるじゃん。ねえ」
「俺を当てにすんなって話だ」
「そんなあ」
大袈裟にしょげてみせる天野を他所に、パスタを噛み締めることに集中する。もちもちとした触感が喉を過ぎ、こってりと絡んだソースが胃に溜まる。
カルボナーラは美味い。美味いが、正直かなり胃に来る。意気揚々と食べ始めたものの、段々雲行きが怪しくなってきた。
本丸では歌仙を中心に小夜や燭台切が厨に立っていて、彩り豊かで健康的な食事を作ってくれる。たまに反動で高カロリーの物に手を出したくなったりして、それが今回だったわけだが、知らない間に随分胃が衰えているらしい。歳か。
俯いて、それでも大分小さくなってきた皿の上の渦を見つめる。目だけを動かして向かいの様子を伺えば、天野は食事の手を止めて、のんびり水を飲んでいた。
「ああ、でもそうだよね。銃刀法みたいな? お咎めあったりするのか」
「それもある」
「その辺律儀だよね。外に出るのも一苦労なんでしょ」
「……んなこたないけど……軟禁されてんじゃねえんだから」
「あれ、住み込み式じゃなかったっけ」
「俺はそうだな。日帰りの奴もいるぞ」
一体どういう印象を持っているのか、天野はふうん、と生返事をする。
「じゃあ、外にはよく出るの」
「いや、最近はあんまり」
「あら、忙しい?」
「そういうわけでも……」
最近は縁側で寝転んで空を見つめてみたり、獅子王が馬当番で不在の間に鵺にブラッシングをかけてみたり、その鵺に柔軟を手伝ってもらったり、そういう息抜きをしながら生活している。
漫画を読んだりゲームをしたりといった趣味は停滞気味である。出不精、とでもいえばいいだろうか。そういえば追っている漫画の新刊もまだ買えていない。
俺が返答に詰まっていると、気の抜けた声が振ってくる。
「まーインドアで十分息抜きできる人もいるよね。俺は外好きだからよく行くけど」
まあそうだろうなという目で見ると、それが伝わったのか、眉尻を下げて苦笑する。
「換気っていうか。ずっと同じコミュニティにいると疲れちゃうから」
天野が片手に持ったグラスを回す。穴の空いた氷がからからとぶつかり合っていた。
それを数秒見つめて、惚けていたことに気付く。
「……意外だな」
「っえ? 何が?」
愛想がよくて、いかにも人が好きですという雰囲気を醸し出している男が、人といることで"疲れる"などと。
「暇さえありゃ誰かとほっつき歩いてんのかと」
「そ、そんな遊び人みたいな言い方……そうでもないって。普通に欲しくない? 静かな時間」
「そりゃあ……うん」
「でしょ。まあ俺は少ない方かもしれないけどね。それでも、全くないってなると窮屈かなあ」
数度ゆっくりと瞬きをしてみるも、特に補足も訂正もないようだった。天野はグラスを置いて、再びフォークを指に引っ掛けている。
この男、そのような感性を持ち合わせていたのか。
口ぶりからするに、ひとつ所に留まることは苦手なのかもしれない。遊び人らしいといえばそうなのだろうが、そう一言で評してしまうと少し違和感が残る。
自分の性質をわかりすぎている、気がする。
こういう手合は、後先考えずにいられるからその場の波に乗ることができるのだ。内省なんて物から最も遠くて、悩む暇があれば既に行動に移しているような存在。
けれど、常日頃から考えていなければ、そのように澱みない言葉は出ない。自分に必要な時間。きっとそれは、何度か悩んでこそ出す結論で。
──呑気に笑えているくせに。
平凡に悩みを持ち、保ちたい体裁があり、守るべき一線は把握している。多分、そういう男。
妙な男だ。
「……疲れるか」
「うん」
「そういうもんか」
「そういうもんだね」
ちびちび飲んでいたグラスをテーブルに戻す。満腹感はいくらか過ぎたので、目の前の男に倣ってフォークを捻る。残さずに済みそうだ。
パスタは、少し伸びてしまっていた。



約束通り、会計は天野の奢りだった。店を後にして、駅まで送られる。また連絡するね、と言葉を残して去っていった。彼にも予定があったのかわからないが、案外あっさりした解散だった。
無心で列車に乗っていたら最寄り駅を乗り過ごしたので、降りた駅でネットカフェに立ち寄った。追っていた漫画が最新刊までストックされていたので読んでみたが、どうにも内容が頭に入らず、いつの間にか寝落ちていた。起きると体がバキバキに凝っていた。
俺は帰ることにした。
通路から本丸に飛び、石畳を踏んだ瞬間。どっと体が重くなって、今すぐにでも布団に伏してしまいたい衝動に駆られる。
それに逆らわず、帰宅の報せもそこそこに自室に飛び込み、開けっ放しの障子からかかる声と数語交わし。
そして今、用意された夕餉の列に並んでいる。
「ぶぁー……」
「どしたの、二日酔いのおっさんみたいになって」
「外で酒でも飲んできたのか?」
張り詰めた風船から空気が抜けるような情けない声が漏れる。
認めよう。どうやら今日の俺はそれなりに疲れていたらしい。やる事成す事空回りで、僅かに残っていたエネルギーも遂に底を突いてしまったようだ。
「羽は伸ばせたかい」
今朝よりもあからさまに疲れている様子だと思うのだが、心做しか歌仙は上機嫌に茶碗を寄越してくる。
俺は重い息を吐き出した。
「──シワシワ!」
「え! アイロンかける?」
「やめとけ、パサパサの手羽先ができるぞ」
すかさず野次を飛ばす平安太刀共の尻を小突いてから席につく。
ああもう、なんだというのだ。疲れを認めた程度で浮き足立って。お前が正しかったさ。これで自覚できていなかったのだから笑えない。
蓑が剥がれてしまった以上、大人しく世話を焼かれるしかない。これでまた葉をかき集めても、見苦しさを上塗りするだけである。
「主」
いつも通り向かいに座る歌仙の声は、賑やかに食卓を囲う刀剣達の中でもはっきりと耳に入ってきた。
「休むのにも、体力がいるだろう」
俯いた顔は、上げることができなかった。
いつもより少なめにと頼んだ米、夏らしいキュウリの浅漬け、重すぎないウナギの蒲焼き。それらは俺のために用意されたものだった。俺が食欲がないと言ったから、歌仙が急遽準備してくれた。
ああそうだ、俺は。
自覚したくなかったのだ。疲れになど気付かなければ、徐々に体は慣らしていけるから。その方がよっぽど安定的で、負荷が少ないから。
「ずっと我慢してるとね、気付いた頃には休む力さえなくなっているよ」
休もうと思うことも、誰かにそれを伝えることも、億劫で仕方ない。世話を焼かれるのだって、決まりが悪くて苦手だ。
「だから君自身が、君が休むことを赦してあげてくれ」
それでも、嫌ではない。
そうして受け入れられることが、嫌いなわけじゃない。
ふと上げた目で見たのは、凛々しい眉を困ったように下げて微笑む男の顔だった。
頷くことはしなかった。安易に頷いて、それを裏切ってしまうようなことはしたくなかった。
でも、もし──、
「……いただきます」
その先を考えるのは、やめておいた。
そうだ、どうせ疲れているのだ。悲観だろうと楽観だろうと、そういう時の決断は信用ならない。だから。

ぱん、と手のひらを合わせる。
少しだけ、指の先に額を当てた。

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