出会い編
6,884文字
卒業する先輩たちを見送った後、空き教室の私物を回収しにいった俺は、男子生徒が女子生徒に迫られているのを目撃した。
られている、と男子目線で言うのは、どうにも彼が困っているように見えたからだ。体や爪先は彼女に向き合っておらず、その場を去りたいという心境がありありと伝わってくる。
だから俺は、軽い親切心でその中途半端に閉まっていた扉を開け放った。
瞬間、二人の目線がこちらに刺さる。
「……あらま、先客?」
少し大袈裟に、口に手を当てて驚いてみせれば、女子は顔を真っ赤にしてごにょごにょと何かを呟いた。あー申し訳ないことしてるな、と思いつつも、男子のあからさまにほっとした顔も見えたので、そのまま教室へ入ることにする。
「やーごめんごめん、すぐ済むからさ! いいよなここ、人来なくて」
今度は男子も少し顔を顰めた。きっと彼はここに来たくて来たのではなく、彼女に呼び出されたのだろう。今すぐにでもこの場を離れたそうだが、もう少しだけ空気の読めない俺に付き合ってほしい。
「俺もよく使うの。こっそり、ほら」
無造作に端に寄せられている机の一つを漁る。中から漫画雑誌を取り出して顔の横で振ってみせた。携帯ゲーム機なんかも入っているが、とりあえずはそれだけ。ここはそういう屯場だった。
女子はもうほとんど首を90度に落としていて、今すぐ消えてしまいたいといった様子だった。艶やかな黒髪がカーテンのように垂れる。いじらしくて可愛い子じゃないか。なのになぜ。未だ仏頂面を保っている男子を一周回って尊敬する。
「あ〜あともうそろ俺の友だちも来る予定なんだけど、まあそいつら引き上げさせるからさ、許してほしい」
「い、いいです!」
裏返った高い声が響く。
闖入者一人ならず、悪ガキ数人に自分の痴態が知れ渡ることは避けたいのだろう。彼女は貼り付いていた足をなんとか動かして扉の方へ後ずさっていく。
そこに声をかける男が一人。
「……ごめん。でもさっき言ったことで全部だから」
それを聞いた彼女は、まだ赤くなるところがあったのかと思うほど顔中を染め、目尻から大量の涙を溢れさせる。踵を返した瞬間、それが空に散っていった。
彼のそれは、時と場所を変えて話そう、ではなく、もうこの話はしないという意思表示だった。
中々辛辣ではあるが、下手に取り繕わない物言いは俺にとっては好印象だった。期待を持たせるくらいなら、すっぱり拒否した方がお互いのためだと思う。例え嫌われ憎まれたとしても。
しかしまあ、そんなことをしても中々嫌われないのがイケメンというもので。顔がいいだけで処世術にプラス500点くらいは入るんじゃなかろうか。
そう、彼の顔は迷いなく整ってると言える造形だった。
乱暴に扉を開けて去っていった彼女がどう思ったかはわからない。すっぱり諦めて忘れられるのだろうか。
邪魔した張本人ながら、両手を合わせ黙祷する。彼女の未来に幸あらんことを。
「……助かりました」
横を向くと綺麗な顔が見下ろして来ていた。俺は慌てて首を振る。
「いやいや、そういうつもりじゃないんだけど……困ってた?」
「かなり。しつこかったので」
「わ〜ひで〜。そりゃあの子も泣くわ」
そう言うと彼は少しバツの悪そうな顔をした。やっぱりか、と内心苦笑いする。あまり大袈裟ではないが、彼は感情が表情に出やすいタイプなのだろう。というか、取り繕おうとせず、素直に思ったことを口にするタイプ。
「……色々置いてあるんですね」
人見知りもあまりしないらしい。
「あー……そう。ここで遊んでる」
「バレないんですか」
「先輩の代からお決まりの場所らしくてね。ほとんど人は来ない」
校舎東棟の奥、備品の少ない音楽準備室。それが俺たちの根城である。
昔は色々楽器が置かれていたそうだが、吹奏楽部がなくなった時に処分されてしまったらしい。クラス教室や職員室は長い渡り廊下を挟んだ南棟に集まっているので、日中は先生の見回りも来ない。
「いいですね。静かで」
思わずぱちりと瞬きする。
神経質そうに見える男子は、意外にもすんなり納得してくれた。
「まあそうかも。人集まると凄いけど」
「……あ、そういえば友だち来るんでしたっけ」
「あーあれね。嘘だよ、これいくつか俺が回収してくの。パシリパシリ」
「……それ仲は……いいんですか?」
「あはは! じゃんけんで負けただけだから」
今度は彼が瞬きする番だった。そういうものか、と首を傾げる様子が妙に可愛く見える。純情坊ちゃんめ。
卒業式が終わって今日から短い春休みが始まる。仲間の一人が久しぶりにボードゲームがしたいというので取りに来たのだ。今頃卒業生や保護者の群れに揉まれているだろう。
と、彼はこくりと頷く。何かに合点が言ったようだ。
「じゃあ、俺のために嘘ついてくれたんですね」
数秒間があって、俺の口からあー、と否定でも肯定でもない答えが漏れる。面と向かって言われるとむず痒い。さりげなく助けるのが格好いいんだから、わざわざ突き付けないでほしい。
頭を振って切り替える。目の前の表情が少し柔らかくなっているのがわかって、いたたまれなさに目線を逸らした。
「てか俺しれっとタメ口きいてるけどさ、もしかして上の学年だったり……します?」
ついでに話題も逸らせば、彼はすんなり乗ってくれる。
「一年です。4月から二年」
「あー同い年! よかったー」
「一年なんですか」
「え、どゆこと? 俺のが身長低いじゃん」
「大人びてるので……」
「……ん? 老けてるって言いたい?」
「いや、そういうわけじゃなく」
彼は軽く手のひらを振って否定する。
まあ、言いたいことはわかる。おそらく天然モノな彼とは違って、俺は色々こねくり回して容姿を作っている。髪は茶色に染めたし分け目には立ち上がりを付けている。ピアスホールも空いていることを思えば、下級生にあるまじき生意気ルックかもしれない。
律儀に言葉を探している男を下から覗き込む。
「俺、安西な。タメでいいぜ」
「……葛原。葛原慎」
くずはら、と繰り返す。どこかで聞いたような気がした。イケメンだから噂になっていたのかもしれない。
「葛餅みたいでうまそう」
透明でぷるぷるしている餅に黒蜜をかける様を想像してちょっと笑ってしまう。
「……初めて言われました」
「マジ? やったー」
「喜ぶところ……なんだ」
ゲームのパッケージをリュックに詰めながら背後に葛原の声を聞く。
かなり友人を待たせているなと思いスマホを覗いてみると、チャットが二人の友人のスタ爆で埋まっていた。寒さに凍える兎と兎を食う虎だ。校舎の中で待ってればいいのに。人の波に押し出されたのだろうか。
その後は、南棟の正面玄関まで一緒に歩きながら色々話をした。葛原は5組で担任はおじいちゃん先生だとか、さっきの子は同じクラスの子だとか、それも4月から一新するなとか。
玄関で友人と合流すれば、片方――天野と知り合いだったらしく、どういう組み合わせ?と問われる。言っていいか葛原に聞くと少し考えた後頷かれたので、軽く説明したらもう一人の友人――松風にえらくウケていた。そのままバシバシと肩を叩かれた葛原は嫌そうな顔をしてこちらを見る。確かに俺の話し方がちょっと大袈裟だったかもな。ごめん。
それが葛原との出会いだった。
*
「まさか同じクラスとはなあ」
俺の呟きに、松風がお手上げのポーズを取りながら肩を竦める。
「安西、お前やったか?」
「やったかも」
「テキトーこいてんな」
もちろんクラス分けに細工なんてしていないしできるはずもなく。
あれから半月。何の因果か、俺は葛原とクラスメイトとなっていた。ついでに松風と天野も一緒である。
出席番号順に並べられた席で、俺、天野、葛原は廊下側前列にまとまっていた。ちょうど俺と葛原が隣だったので、これ幸いと真っ先に話しかけた。美人とイケメンは、人だかりができる前に素早く囲むべし、である。
今は新学期の健康診断を、イツメンの二人に加え葛原を誘って回っている。ついさっき聴力検査を終え、松風と共に彼らを待っていた。
「松風、モスキート音聞こえた?」
「聞こえるわ。お前は?」
「聞こえたけど、今も鳴ってる気がする」
「耳鳴りじゃねえか」
「あれさ、2、3個だけじゃなくて、もっと色んな周波数調べたら面白いと思うんだよな」
「あー、レベル分けか」
「そーそー。松風とか絶対SSレアだって。よっ地獄耳」
「俺の耳はガチャじゃねえ」
廊下で駄弁っていると葛原が出てきた。
「どうだった?」
「異常なし」
「なにより」
横で同じように誰かを待っている女子の目がわかりやすくそちらを向く。気付いていないのか、それとも慣れてしまったのか、葛原は相変わらずすました顔でこちらに寄ってきた。
松風がよし、と壁に凭れていた体を起こした。
「いくか」
「おー残すは身長体重だぜ。空いてるといいな」
「……天野は……?」
「葛原、アイツのことは忘れろ」
「尊い犠牲だった……」
松風に乗っかって遊んでいると、頭部に何かがくい込む感触がした。
「二人とも、葛原に変なこと吹き込まないでよ」
おせーぞー、と首を動かせないまま答える。ぺしんと頭をはたかれて解放された。
振り向けば天野が呆れた顔をしている。
「おいバカ、今頭を触るな。これから身長だぞ」
「誤差も誤差じゃん……諦めなよ」
「黙れ70台」
「ひゃくをつけてひゃくを」
松風が天野に詰め寄る中、葛原は物珍しそうな顔で二人のやり取りを見ていた。俺はその横に寄っていく。
「いつもあんな感じなんだよ」
「そうなんだ……なんか思ってた感じと違うから」
「マジ? 何がどう違った?」
「や、天野ってもっと……ふわっとしてたような気がして」
唸る葛原を見て納得する。葛原と天野は一年の時同じクラスだったというが、つまり天野のもう少し柔らかい、よそ行きのテンションを知っているのだろう。それからしたらあれは少しドライに見えるかもしれない。
天野と松風は幼なじみだ。今更取り繕うものも何もなく、お互い素の対応をしている。ちなみに別の高校にもう一人幼なじみがいるらしく、よく三人で会うのだとか。微笑ましいことだ。
「こいつら幼なじみだからねー。てか天野と仲良かったん?」
「いや、特には」
「正直か。まあ天野目立つよね。人気者だし」
「人気者ぉ〜?」
ぐるりと松風が首を回してきた。目を剥き眉を八の字にして意義を申し立てる。
「ただの口うるさいオカンだろ」
「そこが人気なんだよ。な、葛原」
「オカンかはわからないけど……誰にでも優しいと思う」
「え、うそ褒められてる?」
真面目に返答する葛原に、口に手を当てて驚く天野、釈然としない様子の松風。三人を見比べた俺の心は浮き足立っていた。
高校生活二年目、楽しくなりそうだ。
「君たち、検査中だから静かにしなさい」
「あ」
背後の扉が開き、担当教師に睨まれる。
教師の指差す『聴力検査』の札を今一度確かめ、各々返事をした。
結果から言えば、松風の身長は170に満たなかった。
「泣くな松風。俺たちの成長期はこれからだ」
「そうだよ亨。去年より伸びてたしょ」
「泣いてねえよ。その足切り落とすぞ」
つつがなく身体検査を終え、俺たちは教室に戻ってきていた。窓際の一番前の自席に戻ろうとする傷心の松風を引き止めている。
松風は、俺の机のへりにどっかり腰掛け、組んだ両手を額に当てている。ぶらぶらと揺れる踵が俺の膝を掠めかけた。ちっ、という舌打ちと共に足首が組まれる。
「よこせよ……身長……」
恨めしそうな目の矛先はこの中で最も背の高い葛原だ。
葛原は視線に気付いて顔を上げる。
「そんなに低くないのに」
ぽつりと落ちた呟きに、松風がくわっと目を見開く。
「かっ……! これだから高身長は!」
「あははは! 煽りだ煽り!」
なるほど、葛原にしてみれば自分より低い奴らは全員一緒なのだろう。170の壁というものを理解していないようだ。なぜ俺が笑っているのかも。
同じく笑っていた天野が聞く。
「葛原何センチだったの?」
「ええっと……結構伸びてた」
見ていい?と天野が葛原の健康診断カードを指差す。頷いたのを見て俺も覗きにいく。
見えた数字は179.2。去年の記録と5センチも差がある。まだまだ成長期のようだ。
流れるように天野のカードも奪えば彼は176.5。そして成長期は終わっている様子。代わりに奪われた俺のカードには172.0の文字。去年よりちょっとだけ伸びた。
松風のは測定後すぐみんなで見たが(葛原もちゃっかり覗いていた)167.8センチだった。来年への望みは……ワンチャンある、といったところか。
「すげー、ほぼ180じゃん。てか裸眼じゃないのな」
視力検査の欄を見ながら問えば葛原は言う。
「うん。近視強くて」
「へー、コンタクト派かー」
「眼鏡だったんだけど、飛ばしちゃって」
「え?」
「はい?」
「あ?」
俺、天野、松風の順に間抜け声が被さる。
俺は葛原が屈強な男に殴られて眼鏡を飛ばす様を想像した。綺麗な顔面に鼻血が散る。しかし彼は一歩退くのみで踏みとどまり、暴漢を鈍く光る目で睨みつけ──、
「マジか葛原。やるな」
「え、いや、やらない。弓引いたら弦が顔に当たったんだよ。どっちかというと下手くそ」
俺と似たような想像をしたらしい松風が感嘆し、葛原がそれを一刀両断する。
一瞬の静寂。
「ワハハハ! 眼鏡弾け飛んだんか!」
「やらないって……フフ……」
言葉もなく笑いこけていた俺は耐え切れずに言う。
「ね、葛原おもろいしょ」
「ハハ、いやなんでお前が自慢げなんだ」
そりゃあ、一番初めに目を付けたのは俺である。もしかしたらこのクラスに葛原と仲のいいやつがいて、俺が声をかけなかったらそいつと一緒にいたかもしれないが、今もなんだかんだ葛原は俺たちと一緒にいる。なら多少自惚れても許されるだろう。
きょとんとした顔で言葉の意味を噛み締める葛原に再び波が押し寄せかける。そういうところが面白いんだな。
「そっか、葛原弓道部だよね」
「え、絶対絵になるやつ。大会とか出んの?」
「……そのうち」
「見たい。行くわ」
「…………うん」
葛原は少し返事に詰まっていた。
おや、と思う。見られるのはあまり好きじゃないのかもしれない。もしくは緊張するとか。それとも社交辞令と取られているのか。
葛原は面白いが、考えていることはわからない。まあつつきすぎるのも良くないし、これから知っていけばいいのだが。
葛原は思い出したように自分の鞄を探る。小さな袋から容器を取り出し、慣れた手つきで目薬を差した。
「コンタクト怖くねえ? 目の中入れるの」
「痛かったら取れるし……ピアスの方が失敗しそうで怖い」
「あーこれはなぁ。まあブレたりするしね」
じ、と耳に視線を感じたので髪の毛をかきあげてやる。左右の耳朶の中央に一つ。去年の夏に空けた。
「お前空けたくせにつけねぇよな」
「ここぞというときにつけるのよ」
「なになに。デートとか?」
「コイツ彼女いねーぞ」
当たり前のように断言するな、と思いつつ事実なので否定はしない。松風は一年の時も俺と同じクラスだったので把握しているのだろう。というか彼女と別れた時報告し(泣きつい)たので、意外とそれを覚えているのかもしれない。
ここぞとは言うが、要は休日のことだ。あとは行事の日とか。体育祭の時に女子がやっていた顔へのペインティング、あれは可愛かった。目尻に散るハートマークも、輪になって戯れる女子も。
葛原が首を傾げた。
「つけてなくて、塞がったりしないの?」
「あー、な」
不意にぐい、と頭が持ち上げられる感覚。
斜め上方向に右耳を引っ張られている。
「キレーに空いてんな」
「あ〜〜ガサツ! もっと優しく触れ!」
松風は耳の縁と耳朶を広げるようにぴんと引っ張る。くり抜いたクッキー生地でも見るように伸ばされた。
ほれ、と葛原に向けて見せている。
一瞬、視界に影が下りた。
大きな手だ、と認識した頃には、触れるか触れないかくらいの強さで左耳の縁を挟まれていた。つるりとした顔に比べ意外と乾燥している。
ぐっと近付いた顔と目線は合わない。くっきりとした二重瞼に涙袋。長いまつ毛がよく映えていた。
そのまま指をスライドさせて耳朶に辿りつく。
くに、と穴の形を確かめるように親指が耳朶を揉む。耳の裏を支えていた人差し指がすす、と下りてきて、表と裏から軽く爪が食いこんだ。
「くっつかないか」
「…………何が……?」
「あ、ごめん。爪立てちゃった」
葛原が独りごちて、ぱ、と手が離されていく。
確かに優しく触れとは言った。けどそんなくすぐるように触れろとは言っていない。おかげで首筋辺りの産毛がチリチリと逆立っている気がする。
「あちぃ」
まだ摘まれていたもう片方が解放された。
同時に落とされたぼやきに思わずそちらを向く。松風は葛原の方を無表情で見てから、こちらを見下ろしてきた。
「なに照れてんだ」
虫を見るような目だった。
「照れてないが」
「耳真っ赤だぞ」
「持病だし」
「病院行け」
助けを求めて天野の方を見れば、俺と葛原を見比べて、それからにっこりと微笑んだ。おい、こんなところで母性を発揮するな。
「安西、ごめ」
「ちがう、違うから」
一体何が違うのか弁明したかったが、今はちょっと葛原の顔は見れそうになかった。