期末試験
7,671文字
ジメジメとした6月の湿度に押し潰されている。
カツカツと黒板を叩く音が教室に響く。息苦しさの中、俺はついに机に突っ伏した。
汗をかくほどでもない微妙な気温ではこの学校のエアコンはつかない。教室が水槽のようになろうともだ。こんな中でじっとさせられる生徒も、立ち仕事をする教師も気の毒だと思う。誰も幸せにならない。
のろのろと首を左に回すと汗ひとつない葛原が真面目にノートをとっているのが見える。イケメンは纏う空気までイケメンにしてしまうらしい。隣の俺まで浄化してくれないだろうか。
少しだけ、と自分に言い聞かせて目を閉じる。古典の教師の平坦な声を聞きながら、急速に迫る睡魔に身を委ねていく。
「おーい松風、豪快に寝るなー」
「ふがっ」
ぱん、と頭に教科書を乗せられたのは俺じゃない。しかし俺を現実に引き戻すには十分だった。
窓際の一番前の席、松風が教師に起こされていた。教室を背後まで見渡すと俺と同じようにハッとする者が散見される。松風は代表して気付けされたようだ。
「だってセンセー、あちぃよ」
「お前は暑くなくても寝るだろうが。さあここを読め。音読の時間だ」
「げぇ!」
2年連続で同じ学年を担当しているだけあって、教師は松風の扱いに慣れている。松風はしぶしぶ立ち上がって伸びをすると、大人しく古文を読み始めた。
時々詰まりながらも何とか段落を読み終え着席する。そのまま後ろに音読が回っていった。
「よ、問題児」
「うるせー」
松風は体操着を抱えて俺たちの席を横切る。ここ最近で定着した天野、葛原、俺の並びで続いた。
廊下を2列で歩きながら体育館に向かう。天野が前を向いたまま声を出す。
「今日からバドミントンだよね」
「あーそうだな。やっと陸上から解放される」
「ね〜……ホント持久走しんどかった」
先週まではグラウンドでひたすら土を蹴っていた。嘆く天野や松風とは違って、俺には比較的マシな部類である。合唱部でたまに走り込みを行っているのでその慣れもあるかもしれない。
さすがというか、葛原は一人で颯爽と高ペースを維持して走り去っていった。元々一緒に走ろうとは言っていないのでそのまま見送ったのだが、一周差で並んだ時に俺の肩を叩き、軽く片手を上げていったのには驚いた。
思い返せばいつも俺から絡んでいるので、彼からのアクションに耐性がなかったらしい。びっくりしすぎて同じく片手を上げ返すことしかできなかった。
葛原は特に気にした様子もなく横を過ぎて、少し前にいた明らかにバテている松風にも声をかけていく。松風はいつもなら嫌味か!とキレそうなところその余裕もないらしく、俺も連れていけと葛原の肩を掴んでいた。長い足に蹴られそうになってすぐにずり落ちていた。
2ヶ月の付き合いでわかったのは、葛原は来る者を拒まないということだ。呼べば反応してくれるし、笑いかければ控えめに笑い返してくれる。積極的に誰かに話しかけることはないけれど、人が嫌いなわけではなさそうだった。
それに甘えてしつこく声をかけ続けているが、俺たちはちゃんと彼の心の一部を占めているらしい。むず痒いようなソワソワとした嬉しさがあった。
そうほくそ笑んでいると、舞い上がる俺を引き止めるようにある光景が思い出される。
はて、それではあの女子生徒はどうなのだろう。上級生の卒業式の日、葛原を空き教室に呼び出して告白した彼女。同じクラスで何度か話したことがあると聞いている。
一体彼女の何がいけなかったのか。健全な男子高校生たるもの可愛い女子には目がないと思うのだが、イケメンともなると余裕が持てるのだろうか。もしくは容姿がタイプでなかったか──、
「前」
「え、」
ぐらりと身体が後ろに傾ぐ。
肩に何かが当たる感触がしたかと思えば、葛原とばっちり目が合う。
腕を掴まれ引き寄せられていた。
「な、なに」
「ぶつかりそうだったよ」
葛原の言葉にぐるりと首を回す。体育館の入口、目の前に白いシャトルドアが待ち構えていた。端まで開けないと自動で閉まってくるそれがちょうど閉じたところだった。
「……あ、ごめん」
「ううん」
腕を離されたので葛原に凭れていた体を起こす。気を取り直してドアを開けると天野と松風が少し先に歩いていた。
「珍しいね。疲れてる?」
「あー、さっきの授業の眠気が抜けてないかも」
「寝てたよね」
「バレてた?」
「結構」
葛原は微かに目を細め、笑いながら返事をする。
ほら、そういうところだ。
つれないようでいてこちらを見ていて、他の人とは違う扱いをしてくる。きっと一人でも自然体に過ごせる男が時たま繰り出す好意は破壊力があって、こういうのを人たらしというのだろうと思った。野良猫に懐かれたみたいだ。
彼女もまた、葛原の人たらしな部分に侵されたのかもしれない。葛原にとっては友人感覚のそれを、恋愛的に脈があると捉えてしまってもおかしくない。
何を隠そう俺ですらときめくのだから。本当に全身イケメンは罪である。
そのうち恋愛事情でも聞いてみるか、と考えながら、体育館の熱気に欠伸をした。
*
開かれたノートを三つの頭が覗き込む。持ち主である松風がページをめくると、不自然な空白の間に時々黒一色の文字が現れた。
「相変わらず写させて貰う気マンマンなんだよな……」
「おう、ノートよこせ」
「天野〜俺も頼むわ」
「え? 安西も?」
「ちょっとだけ! な!」
とある水曜日の放課後、俺たちは空き教室に詰めていた。理由は単純、週明けに迫る提出物ラッシュに備えるためである。無論同時にテストが控えているためついでに対策もしよう、という試みだ。
赤点ボーダーを反復横跳び、授業態度は最悪の松風を見かねて天野が始めたこの会。去年の2学期末テストの時から恒例になりつつある。
寂れた教室のエアコンは当然のように効いていないが、日差しはだいぶ落ち着いてきた。隅に寄せられた机を四つ引き出して突き合わせている。
「おい葛原、お前どっちだ」
そのうちの一つに座る松風が顔を真上に逸らす。背後から覗いていた葛原と目を合わせた。なにが、と首を傾げる葛原をよそに、松風は腕を伸ばし彼の机からノートを掠めとる。
開いて沈黙した。
「……マジメか……?」
「葛原はちゃんと取るタイプだぜ」
「また後方腕組みしてる」
松風の頭上から解散してそれぞれ席に戻る。向かいに松風、左右に葛原と天野だ。
そう、今回は葛原もいる。
この空き教室は元は音楽準備室で、隣には第二音楽室がある。吹奏楽部がなくなってから合唱部が使用できることになったが、合唱部には既に南棟の第一音楽室が割り当てられていた。
そのため当時の部長はここをただのたむろ場にした。部活が休みの日や暇な時間に飲み食いしたりゲームしたりする用の。部内でもやんちゃな奴らが集められ、密かな習わしとして俺の代まで下りてきた。
鍵は今3年の部長が管理していて、常に開けっ放しになっている。放課後居座りすぎるとたまに教師がそろそろ帰れと急かしてくるが(やましいものは慌てて隠す)、人がいるかの確認だけで、鍵がかかっているかまでは見ないようだ。
そういうわけなので合唱部の奴らが数人いることもあって、気分によって遠慮するか全員で騒ぐかする。今日はテスト期間なのもあって誰もいなかった。
新学期に入ってからもこの教室を何度か使っているが、葛原を呼んだのは初めてだった。テスト週間のため部活動はすべからく停止、いつも弓道部に向かう葛原を捕まえる絶好の機会を逃す手はない。ホームルームが終わってすぐ誘ってみるとあっさり承諾してくれた。
目当ての天野のノートが松風に取られているので、別の教科のワークにかかることにする。
参考に隣の葛原を覗き込めば物理のワークを開いていた。
「もしかして物理できたりする?」
「うーん……うん、好きな方」
「好き!? 次元が違う!! あの、教えてください」
すぐさま手のひらを合わせる。藁にもすがる思いだった。
天野がワークを恨めしそうに見ながら言う。
「これいつも俺たち頭突き合わせながら解いてたのよ」
「そして意外にも松風が役に立つんだな」
「意外ってなんだオラ。物理は数学よかマシだろ」
「え〜逆だろ逆!」
三人寄れば文殊の知恵などとはいうが、コーチがいるなら頼った方がいいに決まっている。右も左もわからないのが集まったところで、三人一緒に沼の底だ。身に覚えがありすぎた。
「てか葛原はめちゃくちゃ頭いいよ」
「マジ? ランキング常連?」
「じょうれ……一応……」
そういえば天野は同じクラスだったか、と思い出す。そして朧げに学年順位の張り紙でも葛原の名前を見たことがあるような気がした。葛原慎の名に覚えがあったのはそれかもしれない。
「先生は別次元すぎて何言ってるかわかんなくてさー、だから葛原に教えてもらえると……」
そこまで口にしてからハッとする。
勝手に盛り上がってしまったが肝心の葛原の意見を聞いていない。葛原はワークを消化しようとしていたのに、完全に彼の出鼻をくじいている。しかも断りづらい雰囲気にしてしまった。
改めて葛原の方を見ると、彼はいつものように微かに口角を上げた。
「いいよ。どこからやる?」
葛原は優しかった。
お決まりというか、なんというか。
集中力というものはそう長く続かないもので。
あれから1時間ほど経って一旦休憩しようという話になった。俺たちは机に突っ伏し椅子に伸びている。教える葛原も疲れたのだろう、腕を組んで船を漕いでいた。
「脳みそシワシワだわ」
「賢くなったな」
葛原の教え方は柔らかかった。葛原が簡単に問題のタイプや取っ掛りを説明して、俺たちが使えそうな公式を提案する形だ。わからないことがあっても馬鹿にせず聞いてくれて、その都度より伝わりやすい言葉を選んでくれる。
ついなんでも聞いてしまうので、全部教えてもらっていたらキリがなさそうだった。残りは自分でやってみて、わからないところだけ質問しようと思う。
だいぶ脳みそを使った気がする。密度が濃いので少しくらい休んでもいいはずだ──、とお喋りに気が逸れるのはいつもの流れである。
しかしこの微妙なだらけ具合が嫌いなわけではない。ダルいだのメンドイだのシンドイだのを吐き出せる空気がむしろ愛おしくさえある。
「葛原はさあ、不安な教科とかねえの」
「あー……」
軽い気持ちで葛原に振った。あったとしても俺たちよりはできそう、と思いながらも返事を待ってみる。
「英語と……歴史……」
俺はぱちぱちと瞬きする。ちゃんと出てきた。しかも二つ。
「そこ二つっていうと……もしかして暗記系嫌いなタチ?」
「……やっぱり覚えるしかないか」
「はーんわかってんな」
背もたれに限界まで反り返っていた松風が体を起こす。ポッキーを一本シュレッダーのように口に取り込んだ。
「歴史はめんどい、寝みぃ、不毛」
「うん。覚えることが多いのもそうだし、レポートとかも苦手」
松風の雑な不満も葛原はしっかりと肯定する。
英語と歴史、確かにどちらも知識量が読解力と表現力に直結する教科な気はする。
「ふは、なんか意外」
「そう?」
「黙々と頭に入れてそーって思って」
「まあ……やる時はそうだけど。気付いたら寝てる」
「それな」
「はははは」
単語帳を熟読しては眠気を振り払おうと顔を上げる葛原を想像してみた。ちゃんと困ってはいるらしい。
「記憶力勝負つまらん」
「それだけでもないぜ」
「あん?」
顎に手を当ててにやりと笑ってみせる。松風はああ始まった、という顔をした。失礼な。
一口に暗記といっても色々手法がある。少しやり方を変えるだけで案外楽に覚えられたりするものだ。
「夜寝る前とか隙間時間とか、覚えやすいって言わね? あと覚え方な。声に出したり、手を動かしたり、目で覚えたり」
「あーあるよねそういうの」
天野が乗ってくる。ちなみに俺は声を出す派だ。
松風がポッキーを咥えながら上を向いた。
「俺は声出すか、語呂合わせしてんな」
「歴史とか特にそうだよね。でも語呂合わせってチートみたいで抵抗あるんだよな……」
「んだそれ。勉強にチートも正規もあるかよ」
「ははは。まあ先生になるわけじゃないなら、そんくらいでいいって」
「まあ、そうか……もしなるとしても社会科じゃないね」
語呂合わせだって立派な記憶術だ。何の関連性もない情報でも自分なりに意味付けすることで覚えやすくなる。
「まー色々あるけど、ぶっ続けより細切れがいいってのはそう。今やろう。俺も覚えたいし」
「あー、問題とか出す?」
「あり」
天野が英単語帳を顔の横に掲げた。率先して出題側になってくれるらしい。
葛原を伺えば、心做しか目が輝いているように見えた。
「頼もしい」
「でしょー。安西英語も社会科も得意だし、たまに数学も教えてもらってたからね」
「そうなんだ」
突然俺を持ち上げ出した天野に目を剥く。確かにちょっとカッコつけたかもしれないが、そうストレートに褒められたくてやったわけじゃない。断じて。
「いや、俺もお前らに教えるために頑張って聞いてるだけであって、そんなずば抜けて得意なわけじゃ……」
「聞いてるって言った? ねえこの人授業聞いてるだけでできるって言ってる?」
「言葉の綾! 授業で寝そうな時に思い出すの! お前らに教えないとなって!」
「はいはい。てか安西教えるのうまいんだよ。わかんないとこをわかるのが凄い」
「なんて?」
「わかるくせに、照れてんの?」
意地の悪い言い方をする天野に返す言葉が見つからず押し黙る。なぜ褒められてるのに窘められてるのか。
松風がそんな俺たちを見比べて言う。
「まあ、お前ら器用貧乏だよな」
「毎度赤点スレスレを狙う亨も器用……ってか図太いよね」
「喧嘩か?」
「売ってない売ってない」
ポッキーを処理し終えた松風が購買で買ってきたシュークリームに手を付ける。
「自分で買ってきた土産一番最初に食べてるし」
「いいだろ別に。お前も食えよ、腐るぞ」
「そうします。ありがとね」
松風がビニール袋から取り出して配っていく。一周してどっかりと着席した。
礼と共にもらったそれを見つめている葛原に説明する。
「これな、駄賃なんだよ。主にノート写しの」
「そのうち自分の分も買ってくるようになったんだよね」
「佑星は甘いもの与えとけば大体釣れる」
「こら」
指差す手をはたいて天野はシュークリームの封を切る。
「食える? 甘いの」
「うん」
葛原も開けたのを見て俺も食い付いた。
ふやけた皮にとろりとしたカスタード。脳に染み渡る甘さに浸る。少しだけぬるくなっていた。
俺は天野ほど甘い物が好きではない。小腹が空いている学校帰りに買うのは唐揚げとかコロッケとかの揚げ物類だ。でも甘い物もたまに食べるとおいしい。こんな時でもないと食べないし。
松風はバイト漬けで早くに帰ってしまうから、買い食いしているところは見たことがない。昼に購買の焼きそばパンを買っているのはよく見る。もうちょっとしっかり食べないと背が伸びないと思うのだが。
葛原はどうだろう。見ている限り嫌いではなさそうだ。嫌いだったらはっきり言いそうでもある。というか嫌いな食べ物はあるのだろうか。
ぼう、と見ていると、皮に黄色いクリームが溢れ出る。それは彼の指を掠め、透明な袋に流れていく。
「あ」
咄嗟に手を出していた。
ぽたりと、左の手のひらに五円玉大の染みができる。
「……ごめん……」
「いや! セーフ!」
葛原はひとまずシュークリームを袋の中に落とし、外側に伝ったクリームを指で拭って机に置いた。
片手でティッシュを差し出してくるのを受け取って手のひらを拭く。今度は俺がティッシュを出して葛原の指を拭いてやった。
松風の呆れ声が聞こえる。
「食うの下手か」
葛原がぐ、ときまりの悪そうな顔をする。それを見てちょっと笑ってしまった。
「手洗いにいこ」
「うん……」
「いてら」
手を振る天野は既に器用に平らげていた。
松風は中身を裸で持っていて、俺たちを見てか、ずぞぞ、とまだ漏れてきていないクリームを吸い込んでいた。
席を立つ背後に二人の声を聞く。
「音やば」
「零すよりいいだろ」
水道の蛇口を捻り水を出し、クリームを擦り落とす。隣で同じように手を洗う葛原に声をかけた。
「悪いな、付き合ってもらっちゃって」
「え、」
「あっ、手のことじゃなくて」
勉強会のことだ。今更ながらこのメンツに葛原を巻き込んでしまって良かったのかと思う。
「教えるのってどうしても時間食うだろ。だからやりたかったやつ出来てないんじゃないかなって……」
葛原は成績優秀なので誰かと一緒にやらなくてもきちんと課題をこなせるだろうし、一人でやれば気が逸らされることもない。足を引っ張ってしまったのは確かだ。
「大丈夫。人に教えると自分の整理にもなるから」
「そう言ってもらえるとありがてえけどな……いや、ありがと」
それは勉強を教える側の常套句だ。全くの嘘でもないが、迷惑と思っていないとは限らない。なんて反省してみても後の祭り。謝られても困るだろうし、謝罪タイムは終わりにすることにした。
蛇口を閉め、水気を切る。
ハンカチで手を拭いていた葛原が口を開く。
「人に教えるのも楽しいってわかったから、いい」
俺は顔を上げた。葛原がこちらを真っ直ぐに見つめている。
その一瞬、時間の流れが遅くなって、切れ長の瞳に吸い込まれそうな錯覚に陥った。
心を見透かされたような、内側の柔らかい部分を撫でられたような気がしてつい背を逸らしそうになる。ぐ、と踵に力を入れて踏ん張った。
「……そっか」
「うん」
なんとかそれだけ返して顔を背ける。
俺に意図が伝わっていないと思い、言葉を選んでくれたのだろう。葛原なりに得られたものがあったなら良かった。
気まずさを紛らわすように横の男を小突く。
「どうですか先生、うちの子たちは」
葛原はきょとんとした後、上を向く。
「一教科しか教えてないけど……うん、松風は飲み込みが早い」
「やっぱり? なんだよ素質ありかー」
「天野は視点が面白いなって思う。疑問に思ってすらなかったところを突いてくるから」
「あ、ちょっとわかる。俺は?」
「俺の言ったことを噛み砕いて確認してくれるし、わからなかったらちゃんと言ってくれるからありがたい」
「おおう。言ってくれるじゃん」
この男に羞恥心というものはないのか。
少しからかったら10倍になって返される。それも純粋な好意だから手に負えない。
確認するのは自分に言い聞かせるためでもあるし、わからないことを聞けるのは葛原の纏う空気に安心感があるからだ。それを言うにはまだ照れが残りすぎていたが。
先ほどから刺さる視線がくすぐったくて、とりあえず用の済んだ水道から離れる。来た道を戻ろうと体を反転させると、肩を引く手があった。
「ついてる」
す、とひやりとした感触が頬を滑る。
離れていくそれを目で追う。人差し指の関節にクリームが付いていた。すぐに水で流して横に並んでくる。
そのまま歩みを進める彼の背を慌てて追った。
……本当に、なんというかこいつは。
人たらしとかいう以前に、距離感が近い。それもさりげなく踏み込んではすぐに引いていく。まるで波のようだ。油断すると持っていかれそうで非常に困る。
それが嫌じゃない自分に一番困った。