文化祭準備
8,750文字
目の前で立ち上がるサマーセーターの裾を掴む。振り向いた男にニヤリと笑ってみせた。
「ガンバレよ」
「ほどほどに」
いつものように腑抜けた笑顔で答えた天野は、学級委員長──桐崎の待つ教壇へと登った。
桐崎は数歩下がって天野を迎え、ぱんと手を叩く。
「それじゃ、ここからは天野くんにお願いします。私は後ろで書記しますので」
チョークを握った彼女は黒板にデカデカと『ステージ発表 演目案』と書いた。
毎年7月中旬に行われる文化祭。テスト期間が明けた今、その本格的な準備が始まろうとしていた。
うちの文化祭はクラス毎にステージ発表と展示の二つを行う。初日は全生徒が体育館にすし詰めになってステージ発表を鑑賞し、続く一般公開日に屋台や模擬店の展示を公開するという形だ。
どちらにウェイトを置くかはクラスそれぞれで、例えば演劇をやるクラスは比較的準備の楽な屋台を希望することが多い。まあ希望したからといって問題なく枠が取れるとも限らないのだが。全てはクジ運がものを言う。
「じゃあさっそく、劇の演目決めてきたいと思います」
そのクジで大当たりを引いた文化祭実行委員様がそこに立つ天野である。
少し前、桐崎の進行のもと実行委員に立候補した天野は、ステージ発表に意欲的な生徒が数名いるのを認め演劇を第一希望にすることを提案した。
展示の方はメイド喫茶という案が強かったが女子はあまり乗り気でなく、ならば女装喫茶はどうかと男子に矛先が向く。男子諸君は天野の一声に藁にもすがる思いでしがみついたのだった。
俺は女装喫茶でもよかったけれど、松風とかはわかりやすく嫌がっていた。葛原は嫌そう、というか困惑してた。天野はやる内容ってよりかは、多分うまい落とし所に頭を悩ませていたんだろう。
何はともあれ天野の策は功を奏し、まんまと演劇とたこ焼きの屋台枠をせしめてきたというわけだ。
「実は候補持ってきてます。演劇部に借りてきた」
「準備良いですね」
どん、と教卓で紙束を整える天野に桐崎が横入りする。手元の資料を数秒じっと見つめて、黒板に向き直った。題目を書いている。
「候補は、『白雪姫』と『清掃マシン』。それぞれラブストーリーとコメディになります。発表時間は20分くらいになるので、どっちもサクサクですね」
それぞれの台本を捲りながら、天野はあらすじを説明する。
「白雪姫はわかりやすいかな。お妃様から逃げて七人の小人と暮らすやつ。先に断っておくとキスシーンがありますんで、なんかそれっぽく誤魔化してください」
教室がニヤついたざわめき声に支配される。それに乗せるようにひゅう、と口笛を吹いた。
恋愛モノは絶賛お年頃の高校生にとてもウケる。会場の黄色い悲鳴が今に聞こえてくるようだ。終幕後にヤジを入れるのも欠かせない。
「清掃マシンは、とあるビルを清掃するロボットたちが色んな物を吸い込んだり吸い込まされたりしながら労働をボヤく話です。最終的に人間が吸い込まれます」
「ホラーじゃねぇか」
松風がすかさずツッコミを入れる。天野は含みのある笑顔で応えて、クラス内を見渡した。
「……で、どっちがいいかなあ」
待ってましたとばかりに手を上げる男子生徒が一人。前々から演劇に乗り気だった奴だ。
「はいはい! 恋愛要素あると会場が沸くと思います!」
「それはそうだねー。学祭自体そういうムードでもあるし」
何人かが同意の声を上げる。それと同時に互いが互いを伺う空気が漂い始めた。我こそはと名乗りを上げるか、もしくは白羽の矢を立てる気だ。
おそらくコメディの方は無難な選択肢として用意されているのだろう。そちらも面白そうだが、恋愛モノをやり切れるなら推していきたい。
「もし白雪姫にするとしたら、姫か王子やりたい人います?」
天野がジャブを繰り出した。
どこのクラスにも美男美女の一人や二人はいるものだ。あまり主張しないタイプであろうと、大抵彼らはクラスのみんなに認識されている。
じ、と隣を見つめる。視線に気付いた葛原はわかりやすくたじろいだ。
「こんなところにイケメンが」
「う、いや、俺はいい」
「ありゃ。王子がダメ? それとも演技?」
「……王子はちょっと……」
気まずそうに目を逸らすものの意思は硬そうだった。まあキスシーンはハードル高いよなあ、と思いながらもつい口が滑る。
「じゃあ姫なら?」
「え?」
遠くで誰かが吹き出す音が聞こえた。多分松風だった。
同じく聞いていたらしい天野が頭上に宇宙を見る。
「180越えの姫かあ……」
「艶やかな黒髪という点では割と綺麗にいくとは思うけどね」
「桐崎さん?」
「冗談だよ」
葛原は安堵の息をついた。俺はまだ冗談とは言っていないんだが。
まあ確かに、長身スレンダーということを思えば姫よりも暗殺者が似合いそうな気はした。鋭く細めた瞳とピンヒールに射抜かれてみたい。
年上の美人のお姉さんに憧れるのは男の性。姉貴のいる天野はそんなにいいものでもないと言っていたけれど。
ぼんやり妄想に耽っていると、桐崎の声に引き戻される。
「そういう安西は? やらないの?」
「えっ俺? 何か役やりたいなーとは思うけど……王子ってガラでもねえっしょ」
「それもそうか」
「桐崎?」
冗談だよ、のフォローが聞こえないまま彼女はさっさと話を切り上げてしまう。なんでだよ。もうちょっといじってくれてもいいだろ。
「女子はどう?」
その一言で、俺の中に一人の女子の顔が浮かんだ。肩くらいまでの髪を滑らかにウェーブさせた、あどけない笑顔のかわいい子だ。
ちょうど同じ列の一番窓際に座っていたのを思い出し、少し身を乗り出す。葛原の横顔のさらに向こう側、三上莉奈が友人に小突かれているのが見えた。
「莉奈絶対似合うよ、やろうよ」
「ホント? ありがと、でも、うーん……」
取り付く島もなかった葛原とは違って、彼女は満更でもなさそうだった。お相手が未定の状態では踏ん切りがつかないのかもしれない。
それにしても、うちのクラスの連中は随分消極的らしい。一人くらい空気を読まずに「俺がやる」くらい言えないものか――、
「よし、安西やろう」
「なんで?????」
空気をぶった切ったのは桐崎だった。即座に疑問が口から出たのは許してほしい。
彼女はそのままいけしゃあしゃあと宣う。
「安西なら雑に指名してもいいかなって」
「どこが!? それなら天野でもいいだろ!」
「ははは。俺はねー……」
天野は言葉を切ってニコリと笑う。
「白雪姫だったら、継母やりたい」
妙に不気味な笑顔だった。
悪役の片鱗を感じさせるそれに思わず喉が詰まる。一瞬、弧描く唇に真っ赤な紅が重なったような気がした。
黙っている俺の代わりに豪快な笑い声が響く。
「ダハハハハ!! 似合うじゃねえか! ヨメイビリのシュウトメがよぉ!!」
「そうハッキリ褒められると腹立つな」
笑い飛ばした松風になんとか唾を飲み込む。
女装の白雪姫は興味なさそうだったくせに、継母は女装してでもやりたいらしい。確かに天野なら上手く演じてくれそうな気はしたが、それが逆に恐ろしかった。深入りしてはいけない気がした。
「いいんちょー、莉奈やるって」
「お、三上さんやってくれるの?」
「ええと……はい、立候補します」
腹を括った様子の三上さんの声が聞こえる。俺よりずっと落ち着いていた。俺の存在が拒否されてないことに安心しつつ、俺でいいのかという心配もあった。
「うん、なんとかなりそうだね」
「ちょ、ちょっと待てよ」
「何? 安西嫌なの? やりたくないの?」
「い、嫌っていうか〜……」
嫌ではない。嫌ではないが、もう少し手心があってもいいんじゃないかと思う。
だって主役だ。そんなあっさり誰かに押し付けるようなものじゃない。いや、主役は白雪姫で王子は最初と最後の方にしか出てこないけど、出てこないけど……、
……割と脇役では?
「――ヨッシャア!!! やってやるぜ!!!」
気付けば俺は啖呵を切っていた。腹から声が出た。半分ヤケだった。
おおー、と壇上の二人が揃って手を叩く。流れでクラスからもぱらぱらと拍手が起こった。ああもう、覚えとけよマジで。
こうして俺たち2年2組のステージ発表内容は決定された。
ジャンルは恋愛モノ、演目は『白雪姫』である。
桐崎らは次に、七人の小人など他の配役含めステージ発表希望の生徒を募り始めた。しばらく俺に用はないだろうと思い、変な緊張を解いて机に突っ伏す。
首を回してクラスの奴らをぼんやり眺めていたら、葛原がこっちを向いた。
彼は少しだけ考えるように視線を上にずらし、再び合わせてくる。
「頑張って」
そう細められた目は心底楽しそうで、どこか悪戯っぽく見えた。
……からかったの、根に持ってるかもしれない。
*
夏の日は長い。午後5時すぎ、まだ明るい廊下を早足で歩いていく。
首からタオルを下げている男子や制服の上にジャージを羽織っている女子が慌ただしく行き交っていた。それらを躱して自分のクラスへ向かう。
「おぃーす、やってる?」
「王子じゃん」
「王子ですよー」
開けっ放しの教室に入るなりヤジを飛ばされる。ここ最近のお決まりなのでさすがに慣れた。ひらひらと手を振りながら周りを見る。
床に敷かれたブルーシートに大きな箱が鎮座していた。白雪姫のための棺桶だ。クラスメイトらが四つん這いでそれを黒色に塗り潰している。隅の方で展示用の看板やポスターを作っている生徒もいた。
今日は大道具作りだそうで、部活を途中で切り上げてきた。合唱部は文化部にしてはスケジュール調整が難しく、準主役ながら参加率は低いし道具作りもあまり来れていない。今日くらいはと顔を出してみたが、まだ手伝えることがありそうで良かった。
俺を王子呼びする演劇班の一人、日高に聞いてみる。
「今どういう状況?」
「今? なんで白雪姫が王子のキスで目覚めるのかって話よ」
作業の進捗を聞いたつもりだったのだが。桐崎がスペースを空けてくれたのでそこに収まることにする。
姫役の三上さんがニコニコしながら答える。
「やっぱり、真実の愛だよ」
「真実、真実ねえ。真実の愛ってなんなわけ?」
「それは……その人を大切にしたり、幸せになってほしいって思ったり……」
「いや王子は顔しか見てねーって。だって一目惚れだろ?」
何やら白雪姫の物語について話していたようだ。
オチにケチをつけている日高と、愛を推している三上さん。棺桶を挟んで向こう側で二人は顔を突き合わせている。
隣の桐崎が口を開いた。
「きっかけはどうあれ、ベタ惚れだったんじゃない?」
「そうだよ。強い気持ちは本物なの」
「えー、女子同盟組んじゃった。よしいけ! 安西!」
「ヤー! ――って言われても」
そう唐突に繰り出されても困ってしまう。
一目惚れから始まる恋も、長い付き合いの中で芽生える恋もあるだろう。俺はどちらかというと惚れっぽくて、かといって告白する勇気もなく二の足を踏むことが多い。
ありがたいことにかつて告白してくれた女の子はいたが、ちょっとまあ……しつこくしすぎたというか。フラれてしまった。
そういうことだから、愛だの恋だのについて俺から言えるようなことは少ない。
「えーと……深い話してんね?」
「いやいや難しく考えんなよ。王子のあれは未練がましいマーキング。イケメンならなんでも許されるからさ」
「マーキングて」
「あ、こら、お前は俺の味方しろって」
そりゃあ王子も男なのだから、ちょっとは邪な気持ちがあってもおかしくはない。でもそれをマーキングというのはあけすけすぎやしないか。桐崎はともかく三上さんとか大丈夫か?
「まあ死体はマーキング拒否らないしね」
「桐崎どっちの味方?」
「どっちかの敵のつもりはないよ」
動じないどころか乗っかる桐崎はさすがである。委員長の名は伊達じゃない。
前を見たら三上さんと目が合った。きょろきょろと目を回した後顔を背けられる。恥じらうくらいの知識はあるらしい。ほっこりした。
ついでに味方したくなったので思い付いたことを言ってみる。
「でもさ、反応ないってわかっててキスすんのはさ、なんかいいじゃん」
「え、好き勝手できるから?」
「発想ヤバ……ちがくて、絶対報われない恋でも、好きって気持ちを大事にしてるのがいいなーってこと」
誰かを好きになったとき、自分と同じくらいの好意を返してほしいと思うのは自然なことだ。だからこそ、無償の愛を注げる人を凄いと思う。愛されたいと願うより先に誰かを愛すのは、思ったよりもずっと難しい。
日高は首を捻るが、三上さんがこくこくと頷いてくれる。
「わかる。そう、そうなの。いい」
「まあ、弔いともとれるか」
「なに? 墓参りってこと?」
「ええ、うん……?」
墓参りと言われると違う気もするが、まあ似たようなものかもしれない。どんなに愛しても声が返ってこないという点では。
一旦沈黙が訪れて、それぞれ手元の黒色を塗り広げる。水の多い所と少ない所でムラになっているのをなんとか塗り固めようとする。乾くまで待った方がいいだろうか。
「ていうか、その王子らへんの設定はバージョンによって違うんだよ」
ふいに、桐崎が人差し指のように筆を立てた。
「私らがやるのはりんごの毒が愛で浄化されるタイプだけど、そもそもそんなに毒を取り込んでなかったとか、王子のキスで喉に詰まってたりんごが取れるって話もある」
「あ、結局愛で浄化してるんだ」
「明記されてないけど、多分」
20分程度の短い劇なので、その辺は雰囲気なのかもしれない。理由はどうあれお姫様が目覚めればハッピーエンドなのだし。
きょとんと目を瞬かせた三上さんが言う。
「そうなんだ。絵本とか、アニメしか見たことなかった」
「ほら、グリム童話って聞いたことない?」
「あーあるわ。怖いっていう原作だろ」
「まあ、うん、原作に近いかな」
グリム童話なら少し知っている。例えばシンデレラでは義姉たちがガラスの靴を履くために踵を切り落としたとかなんとか。エグいしグロいし、そういう剥き出しの欲望には肝が冷える。
「そのグリムの初版だと、王子の召使いが姫の背中を殴ってりんご吐き出させてるし」
「待って、え、なんで殴った??」
「王子が重たい棺担がせるから、労働の八つ当たり」
「か、かわいそう……」
「担がせる王子もやべぇな」
桐崎の話を聞いて二人はそれぞれの方向に同情する。
王子が王子なら召使いも召使いということらしい。白雪姫は完全にとばっちりだが、それで生き返ったというから皮肉な話だ。
「てか棺桶担いでどーすんの。お持ち帰り?」
「うん。たまたま小人たちと棺に入った白雪姫を見つけて、小人を説得して譲ってもらうの」
「……死体で初対面なの?」
「王子はネクロ……死体愛好家説があるね。ついでに幼女趣味も」
何やら王子と白雪姫が好き同士だったという描写すらないらしい。ああ、王子の像がどんどん崩れていく。さっきのマーキングの流れの方がマシじゃなかろうか。
「王子やべーやつじゃん」
「俺を見て言うな」
「安西ロリコンなの?」
「俺のストライクゾーンは正常だっつの」
「あーそっか年上の方が好きか」
「それはみんな好きだろ」
「好きなんじゃん」
交互にいじってくる日高と桐崎をじとりと睨めつける。悪びれた様子もなく日高が続けた。
「ある意味お前で良かったかもな。イケメンに特殊性癖持たせないで済んだ」
イケメン、と言われて思い浮かべたのは間違いなく葛原だった。
少し前に支給された王子衣装に身を包む葛原を想像する。紺のベストに赤いマント、似合わないわけがない。
「んー……まあ葛原が王子の格好してんの見てみたかったけどね」
そうしたら彼は開幕前や閉幕後に女子に囲まれていただろうか。それとも遠巻きに声援を送られて、控えめに手を振り返したりするのだろうか。
彼の場合、あまりヤジを飛ばされたりといった持て囃され方はしない気がした。三上さんと並んで美男美女カップル、くらいは言われるかもしれないが、絵になりすぎて気安く声をかけられない状況になりそうだ。
「お前ほんと葛原のこと好きなー」
ため息混じりに吐き出された言葉に手が止まる。ぽたりと音がして、ブルーシートに黒い点ができるのを見た。
「は?」
「俺『イケメン』としか言ってねえんだけど?」
呆れたように眉尻を下げて、けれど勝ち誇ったように口角を上げて日高は笑う。
何も間違ったことも、やましいことも言っていない。はずなのに、そのからかうような目線にじわりと頬が熱を持った気がした。
「だってそりゃ……イケメンじゃん」
「わかんねえならいいや」
「え、クラス公認じゃないのあれ? じゃあ誰がイケメンなんだよ」
「俺とか?」
「はあ〜……? 日高〜〜……?」
「おい、真面目に吟味すんな傷付くから」
したり顔の奴を褒めてやるのがなんとなく癪で返事を渋る。悔しいことに彼には健康的で精悍な印象があった。まあ、葛原とは違うタイプでイケてなくもない。特別イケメンというわけでもないが。
助け舟を出したのは桐崎だった。
「日高の顔はね、面白い」
「それだ。表情筋がすごい」
「ギリ悪口だろそれ」
「褒めてる褒めてる」
不満げな日高のことはさておき、葛原への認識を確かめてみることにする。
「……葛原ってイケメンだよね? ねえ三上さん」
「え? うん、そうだね、カッコイイよね、スラッとしてて、お顔もシュッとしてて」
「だろ? フォルムがね、全体的に綺麗」
三上さんは身振り手振りで説明する。ほら見ろ、みんなそう思うんじゃないか。
「葛原はイケメンだけど、イケてるメンズというより、彫像って感じするな」
「あーそれな。お触り禁止ってやつ?」
解釈を述べる桐崎と日高にほう、と思う。
なるほど、葛原は文句なしの美人だが、取っ付きにくいと思われているらしい。
「禁止ってことないけどなあ……」
むしろパーソナルスペースは狭い気がする。表情だって割とわかりやすい。
意思表示をしっかりするのも、笑ったときあの綺麗な眦が緩むのも、こいつらは知らないわけだ。
もったいないと思う。もっと彼の人らしい一面を知ってもらいたいけれど、多分別に葛原はそれを望んでいない。
眉間に力を入れて唸っていると、振ってくる声があった。
「優しそうだよね」
顔を上げれば、三上さんが俺を見て微笑んでいる。
そう、葛原は優しいのだ。素朴な優しさで以てこちらを受け入れてくれる。まるで低反発クッションのようで、どこまでも沈み込めそうな気がする。
なぜ葛原の優しさがそんなに特別に感じるのかって、それはきっと彼のまとう空気感だろう。
いつだって自然体で、純粋な好意を示してくれる。照れも見栄もなく。その無垢さが綺麗だと、可愛いとさえ思った。
やはりわかる人にはわかるようだ。
筆をバケツに置いて腕を組む。
「そうそう、かわいいとこあ──、ッひょわ!!」
ひや、と首筋に吸い付いた感触にびくりと体が跳ね上がる。びびび、とつま先から頭頂部まで震えが駆け抜けた。
思わず首を両手でガードして振り向けば、なぜか目を丸くしている葛原がいた。その手にスポーツ飲料のペットボトルが握られているのを見て、一つの答えに辿り着く。
「おまっ、お前なぁ!! びっくりするでしょうが!!」
「……ごめん、そんなに驚くと思わなかった」
そっちもそっちで驚いたのか、口元に拳を当てて謝罪を述べた。
俺はぐるりと首を戻し胸に手を当てる。一気に息を吐き出した。
本当に驚いた。噂をすればなんとやらである。いつからいたのだろう。思い切り我が物顔で葛原の話をしていた気がする。何者なんだ俺は。葛原のプロデューサーか。
いや、そんなに口には出してないし大丈夫なはず。でもなんで急にイタズラしてきた。色んな意味で心臓に悪い。
「まだ準備やってる?」
「ああいや、これだけ塗っちゃえばキリいいから、悪いけど片付け手伝ってもらっていい?」
「わかった」
桐崎が横で立ち上がった。所々ムラはあるが、全体は塗ったので確かに切り上げ時だろう。
「安西、これ持ってっていい?」
「うん……お願いします」
葛原は軽く腰を曲げて顔を覗いてくる。黒く濁ったバケツと筆を差し出せば、微かに安堵の表情をする。
「葛原ぁ、聞いてた?」
そのまま教室を出ようとする背中を、日高が引き止めた。
「……名前聞こえたから。聞いてた」
がん、と頭を殴られたような衝撃があった。
「あ、じゃあ私が彫像って言ったのも聞こえてた?」
「うん」
「ごめん」
「別にいいよ」
「言われ慣れてる?」
「……彫像は初めて」
会話がどこか遠くで聞こえる。
追撃はすぐにきた。
「じゃあコイツのベタ褒めも聞いてたわけだ」
コイツ、と同時につむじに重みが乗る。いつの間にか背後に立たれていた。この感触は親指だろうか。
「いいなー熱心なファンがいて。羨ましー」
「…………日高、それ下痢ツボだからよ、離してくんねえかな」
「葛原どう? 男からでも嬉しいもん?」
葛原はそれには返事をせず、無言でこちらに歩み寄ってくる。つむじの圧迫感が引いても顔を上げることができなかった。
ブルーシートの境界で立ち止まった上履きを見つめる。紐が解けかけていた。結んでやろうか、と思った矢先、影が落ちる。
くしゃりと頭を撫でる感覚。
つむじから耳の上までを往復したかと思えば、ドライヤーでもかけるときのように分け目をかき混ぜていく。
ふ、と唐突に手を離すと、彼は何も言うことなく教室を出ていってしまった。
「おー?」
「なるほどね」
鳥の巣になっているであろう頭上に二つの声。
葛原はイケメンだ。それは間違いない。そこにひとつまみの可愛さがある。それも間違いない。
ただ、なぜだかそう思うことが無性に恥ずかしくなってしまった。
それもこれも目の前で含み笑いを浮かべる日高と桐崎のせいだ。葛原も葛原だ。なんだアレは。あやすな俺を。三上さんだけだ、茶化さず見てくれるのは。
視線を振り払うように両膝に手を付いて立ち上がる。
ばちりと、ちょうど三上さんと目が合った。
「仲良しだね」
多分。そのはずだ。