文化祭1日目

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遠足の前日はいつも寝れないタイプだった。

何度も寝返りを打って足を擦り合わせて、それでも目が冴えて眠れないので布団の上で膝を抱えて。目に悪いと思いつつ暗闇の中スマホを開く。SNSを覗けば深夜まで起きているやつもチラホラいて、脈絡のない呟きを見ていると安心した。

少しだけのつもりがかなり長いこと見ていたらしく、風呂から上がってきた妹に気持ち悪がられる。王子早く寝なよと言われ、明日が文化祭であることを再確認させられた。せっかく落ち着いてきていたのに期待と緊張がぶり返してくる。

結局外が薄ぼんやりしてくるまで寝付けなくて、半ば気絶するように意識を失った。





「うげぇ! ゾンビ!!」

声をかけるなり松風に指を差される。整列したパイプ椅子がギシギシと音を立てた。

文化祭当日、寝不足の俺は朝から修羅場を繰り広げていた。
母親は起こしてくれたし、朝食もエナドリで流し込んだし、髪の毛だっていつも通りセットした。そこまでは良かったのだ。
駅に着いて地下鉄に乗り、壁際にもたれかかって、安心したのがいけなかった。
混んでいる電車では目を閉じていることが多い。それは単に視線のやり場に困るからで、立ち寝するためではない。ないはずだった。

高校最寄り駅の3駅くらい前から記憶がない。

そう、俺は電車を乗り過ごしていた。
耳馴染みのない駅のアナウンスが聞こえた時のあの絶望といったらない。文化祭遅刻、不在の王子、目覚めない姫──ざっと血の気が引いて、慌てて閉まりかける扉から飛び降りた。
なんとか戻りの路線に乗れたものの、向こう10年くらい寿命が縮んだ気がする。

滑り込んだ体育館は既にカーテンを締め切っていて、あとは照明を落とせば開幕といった様子だった。どうやら開会式には間に合ったらしい。

「生きてるよ。首の皮一枚でな」
「それはほぼゾンビなんだよな……」

隣の天野が引き気味の呆れ声を出す。俺は余程酷い顔をしているらしい。

敷き詰められたパイプ椅子はクラス毎にざっくり陣地が決められている。列の内側から天野、松風、葛原が固まって座っていた。
端の席に置いてあった荷物を葛原が持ち上げて手で差し示す。俺の分の席を確保していてくれたようだ。

「……クマすごいけど大丈夫?」
「あー大丈夫大丈夫。一周まわって冴え渡ってる」
「そう……」

心配そうな顔の葛原の隣に失礼してひらりと手を振る。腰を下ろした瞬間どっと疲れが出た気がしたが、劇までは時間があるので大丈夫だろう。

松風が身を乗り出して顔を覗き込んでくる。間の葛原が若干身を引いた。

「王子ってツラじゃねーぞ」
「そんな? まあ後でメイクで消してもらうわ」
「消えんのかよ」
「俺の腕を舐めてもらっちゃ困るね」

顎に指をかけるのは天野。
演劇に参加する男子のメイクは彼が担当することになっていた。というのも彼が一番力を入れる必要があるので、自分で色々勉強したそうな。なんたって恐ろしく美しいお妃様を女装するのだから。

「お前のは付け焼き刃だろ」
「姉貴のしごきは付け焼き刃じゃ済まないんだよ」
「リハで見たけどマジプロだったぞ。松風なら絶対『誰?』って言う」
「よし、絶対言ってやんねえ」
「じゃあ亨がなんて言うか予想大会しよう」
「『アクジョ!』」
「今すぐやめろ」

俺の口を塞ごうとする松風の背後で天野が手を挙げる。

「うーん、『画風ちがう』」
「ははは言いそう」

松風はすぐさま標的を変えて天野の頬を鷲掴みする。その隙に葛原を小突く。含み笑いをすれば意図は通じたらしく少し考える素振りをする。

「……『お似合いだな』?」

彼は天野と松風を見て一言落とした。

蚊の鳴くような声がする。

「…………ねえ待って……葛原に言われるとダメージデカい……」
「いや、ほんとに思ってるわけじゃなくて」
「そこそこちゃんと悪口だな。高評価」
「なんで急に審査し出した?」
「おーい安西生きてっか」
「ハハハハハ、ヒィ……ヒ……」

お似合い。似合ってるじゃなくてお似合いである。

松風は元々歯に布着せぬ物言いをするが、天野に対してはそれが特に顕著になる。皮肉じみた褒め言葉は松風にあまりにもマッチしていた。

そして当の葛原は絶対に言わなそうなこともあってその破壊力は凄まじかった。というか葛原の松風に対する解像度が高くて笑ってしまう。天野に当たりが強くて、天野のことをオカンやシュウトメだと思っていて、本心では良いと思っても素直に褒めない。理解しているだけでなくそっくりそのまま出力するとは。彼も中々に遠慮がなくなってきている。

「ねえいつまで笑ってんの。ツボ入ってんじゃん」
「ゼェ……いやこんなん笑うって……」

力の入らない腹筋を押さえて体を起こす。こっちを見下ろす葛原と目が合ったと思ったら、すう、と視線が横に逃げていく。いたたまれなさはあるらしい。

「フ……ンフフ……」
「もうそれ葛原の存在にツボってるよね」
「お前やっぱ寝てねえだろ」

たまらず再び背中を折り曲げると辺りが暗くなり始める。そろそろ開演しそうだ。

震えたまま起き上がれない背中を、隣から伸びる手が撫でていた。





目元を撫でる筆の感触がくすぐったい。笑ってしまいそうな表情筋に必死に力を入れていると、眉間をぐ、と押された。

「力抜いて」

その言葉に目を開くと、眼前数センチに天野の顔面があった。

「ちっっっかい!」
「しょうがないでしょ。はいリラックスー」

抗議は適当にあしらわれて続行される。

更衣室には劇に出演する男子たちが集まっている。天野は彼らに軽く化粧を施してから俺の顔に取り掛かった。大仕事は最後に、ということらしい。

葛原と松風は演劇には出ないため、そのまま体育館で他クラスの発表を見ている。二人が何を話すのか少し気になったが、ずっと見ているわけにもいかないので天野と二人抜けてきた。

化粧については、妹からの浅い知識はある。肌が明るくなって目がぱっちりする妹を見ると面白そうだとは思う。少し貸してもらったこともある。

とはいえぶっつけ本番で細かいところを弄る器量はない。渡された下地を顔に塗りたくりパフで顔を叩き、そこから先は天野に任せることにする。彼は何より先に目の下のクマに挑んだ。

「なんか……ツッパる……」
「あーちょっと乾燥してるね。まあ耐えて」

大人しく目を閉じる。はらりと落ちてきた髪の毛をピンで止め直された。

「寝坊しても髪はちゃんとやってくるんだね」
「これが寝坊じゃないんだな。電車乗り過ごした」
「うっそ、ご愁傷さま。さてはそこで寝たな?」
「まあ、うん」
「今日の睡眠時間は?」
「……3時間くらい」
「そりゃこうもなるわ」

こう、と目の下を筆でつつかれる。

最後に時間を確認したのが3時、起床が6時半だったのでおそらくそのくらいだ。電車で寝たからもう少しあるかもしれない。

「いやーヒヤヒヤしたよ。いつもなら安西俺たちより早く教室いるからさ」
「あー、葛原はともかく、お前らマジでギリギリだよな。朝弱いの?」
「……俺はね。亨は多分夜更かししすぎ」

朝起きるのはほとんど意地だ。目覚ましが鳴ったらとりあえず体を起こして水を飲んで、母が用意してくれている朝食にありつく。そうしたら大体目が覚めてくるので、顔を洗って身支度を整える。そのとき髪を弄るのはもう習慣化した。

一方天野は朝が弱いらしく、いつもホームルームギリギリにやってくる。松風に至っては一限をサボることもあって、そろそろ色々な授業の出席がまずいのではないかと心配している。
二人の所業は高校が徒歩5分圏内だからでもあるのだろう。全く羨ましい限り。

ちなみに葛原は弓道部の朝練のため余裕を持って教室に入ってくる。聞けば朝起きるのは苦でないそうで、通りでいつもすっきりした顔をしているわけだと納得した。たまに寝ぼけているのかと思うような天然を発揮することはあるけれど。

「楽しみすぎて寝れなかった?」
「それもあるけど……緊張がな……ずっとスマホ見てたわ」
「余計に寝れないやつだよそれ」
「なんかで紛らわさないとやってらんねぇんだよ」
「へえ。意外と緊張しい?」

ぴくりと閉じた瞼が痙攣する。

「意外ってなんだよ。普通にするし」

中学では吹奏楽、高校では合唱部をやってきている。壇上に立つことは初めてじゃない。それでもいつだって本番は緊張するし、なんなら始まるまでが一番緊張するのだ。

別に目立つのが嫌いなわけではないし、むしろ持て囃されるのは嬉しい。けれど過度に注目されると居心地が悪いというか、恐ろしくなる。

自分が世界の中心かのように思えて、周りが見えなくなる瞬間。呑まれれば最後、空っぽの劇場で一人取り残されることになる。

天野はふーん、と相槌を打つ。何か含みがありそうなその先を聞きたくなくて、逆に問い詰めてやることにする。

「そういう天野は緊張しないのかよ」
「ちょっとはするよ」
「いつも通りじゃん」
「んー……」

かたん、と筆が置かれる。ポーチを探る音がして、また別の柔らかいのが肌に乗せられる。

「俺女王様でしょ? 出オチじゃん」
「自覚あんのな」
「会場が湧くとこ想像すると、愉悦できる」

思わず目を開けると、ニヤリと笑う顔があった。

「少なくとも一人は絶対笑ってくれるしね」

そう言って伏せる瞼の裏に浮かぶ人物は簡単に予想できる。豪快に大口を開けて爆笑する松風が脳内を駆け抜けていった。

なんだか羨ましいと思う。幼少期からずっと近くにいて、お互いのことを知り尽くしている。バカをやってもしょうがないなと笑って受け入れて、時に小突きあって、当然のようにわかってます感を出しても許される間柄。身内、といえばいいのか、二人の間には独特の空気感があった。

「……なんかいいな」
「まあ、ドン引きとの両極だけどね」
「変に気使われるよりいいじゃん。『好みはそれぞれだよな』とか」
「はは、それ一周回ってイジってる寄りかも」

俺にはそういう幼なじみといえる友人はいない。天野や松風と親しくなったのも高校からだ。いつもなんとなくクラスメイトと仲良くはなれるけど、やっぱり恥は見せたくないしどこか見栄を張ってしまうところがある。

ありのままで接し合える存在に憧れるのだ。
といってもありのままの自分とはなんなのか、自分でもよくわからないのだが。

「次目開けてて。瞬き禁止」
「鬼畜」

天野の額の当たりを必死に見つめる。黒い猫っ毛がほどよく流されていた。葛原も髪にうねりがあるが、天野はもう少し髪質が細くて癖が弱そうに見える。今度頭をかき混ぜ比べしてみるか。

目の縁どりに取り掛かっているのだろう。瞼やこめかみの皮を引っ張られたりした。そうこうされているとやはり目が乾いてくる。一旦瞬きの宣言をしようとした瞬間、



ばあん!と乱暴な音が響いた。

掴まれた顎に指がめり込む。

「どわ〜〜間に合った!!」

目の前で天野の視線が入口の方へ逸れる。眼球の前に突き立てられているペンシルが、顎を万力のように押さえつける手が、感情の読めない空虚な目が怖い。

背後の声の主はおそらく日高だった。

「お、王子準備できた?」
「あと少しだよ……びっくりするからドア優しく開けて」
「あ? わりーわりー」

緩んだ天野の手から抜け出して振り向けば、日高は額に汗を滲ませていた。

「……来んの遅くね? 『おこりんぼ』さん」
「いやなに、友だちに照明係の穴埋め頼まれてさ」
「だから汗かいてんだ」
「そー、あっついのなんの」

七人の小人のうち『おこりんぼ』を担当する日高は、優しくも他クラスのトラブルに対処していたらしい。

彼は俺たちの隣にバッグを置くとぽんぽん制服を脱いでいく。

「やー面白かったよ『清掃マシン』。てか台本4組に回してたんだな」
「ああ、そうそう。実行委員会のとき相談されてね。おすすめしといた」
「あれやっぱホラーだって。世にも奇妙すぎるだろ」
「言われてみればそれ系統かも」

天野もけろりとした様子に戻って俺の眉にペンを乗せる。

「日高、あとで顔洗ってそれ塗ってね」
「えー何コレ化粧? お前らだけでよくね?」
「日高は化粧映えすると思うなあ。眉とか凛々しいし」
「元がいいんならいいだろ」
「肌綺麗になるよ」
「肌ぁ……?」

日高はおもむろにこちらを向く。自分が今どんな容姿になっているかわからないが、メンズメイクなので大した違いはないかもしれない。それこそ肌艶が良くなってるとか。

じぃ、と品定めするように見つめられる。

「これって書いてんの?」

頬の辺りに伸びてきた手を、

「お触り禁止!!!!!」

天野がばしん、と掴んだ。

「あいだだだ!! 触んねーよ! ちょっと下瞼伸ばそうとしただけ!」
「危ねえー!! それ触るでしょうが!」

頭上で声を荒らげる二人に面食らう。特に天野がキレるのは珍しい。なんだっけ、夜のお店の管理人──黒服と言うのだったか、それみたいだった。行ったことないけど。

天野は日高の腕を離すと、はあ、と大きくため息をついた。

「……完成だよ」
「そんな脱力した完成報告ある?」
「じゃあ俺自分の顔やるから……」
「お、おう、ありがと。おつかれ……」

天野はふらふらと離れていく。
入れ替わりで日高が肩を組んできた。やけに腹の立つ顔をしている。ろくでもないことを企んでいるな、と思ったら手を立てて耳打ちされた。

「なあなあ、三上とちゅーすんの?」

思考が数秒、停止した。

「………………はっ?」
「だーかーらー、キスシーン」

無駄にねっとりとした声で囁いてくる。ぞわりとうぶ毛が逆立った。

「し、しないし……」
「んだよ、つまんねー男だな」

ちぇー、と口を尖らせて日高は退いていった。

そうだった。俺は姫──三上さんとのキスシーンを完遂しなければならないのである。

一応予定では唇が見えないよう棺桶に手をついて、その陰で顔を近付けることになっている。くっつけないとはいえ身だしなみの一環として、衣装に入れておいたブレスケアを飲み込んだ。

ごくり、と思いの外大きい音が鳴る。

見えないようにするのはちょっと卑怯なんじゃないか。でも触れるか触れないかギリギリのところを攻める勇気はない。腕立て伏せの要領で顔を近づけるけれど、勢いよくいってしまったらどうしよう。そのまま触れてしまったらどうしよう。そういうアドリブが許されるのって恋人同士とかだろう。

ぐるぐると止まらない思考をぶった切るため、すくりと立ち上がった。

「手洗ってくるわ」
「はーい。先行ってていいよ」





廊下にはちらほら人がいた。文化祭用の団扇で顔を扇いでいるのを見て、中の熱気を思いやる。冷房が効いているはずだが、正直焼け石に水感はある。

体育館横のトイレに行き化粧でべたついた手を洗っていると、鏡越しに見知らぬ人物と目が合った。

「……誰?」

柔らかな雰囲気のアーモンド型の瞳、ふっくらと艶やかな涙袋、きめ細かな肌、けれど俺と同じ動きをする唇。

映っていたのは俺だった。

思わず触ろうと手を伸ばして、脳内に天野の怒声が響く。そうだ、触っちゃダメだった。
天野は随分綺麗に仕上げてくれたらしい。舞台役者ほど強めの化粧ではないが、ちょっとしたアイドル風味のメイクだ。我ながらイケメンである。ずっとこの顔にならないかな。

何人か入ってきたので用が済んだ俺はそそくさと退散する。ちらりと視線を感じたが、気にする余裕はない。

体育館入口の遮光カーテンをくぐると、七色のスポットライトの中でダンスが繰り広げられていた。女性陣がフォーメーションを組んでしなやかに肢体を操っている。ぴしりと揃う動きが気持ちいい。

たかが一月そこらの準備期間で、よくここまで仕上げてくるものだと思う。俺たちもよく頑張った。そう、頑張ってきたのだ。

待機列に直行する気になれず、扉の隣に背中を預ける。低音が床を揺らしている。心拍より少し早いテンポに首を振りながら、ぼんやりとステージを眺めていた。

「おかえり」
「ひょうわ!」

肩を2回叩かれて飛び上がる。幸い奇声はBGMにかき消された。
正面に首を回せば長身の男。

「くくく葛原、どうした便所か?」
「そう……だけど、大丈夫?」
「何が!? 全然大丈夫だけど!?」
「ぼーっとしてたから」

何回か呼んだんだけど、と言う葛原はいつも通り落ち着いている。

「いいね、かっこいい」
「あ、ありがと」
「クマも消えてる」
「ね、そう、すごいの」

彼はサテン生地の赤いマントをつるつると触りながら、俺の泳ぐ目を追いかけてくる。

「……緊張してる?」
「いや、いや、そんなことは、……あるけど」

確かに緊張している。今も待機列に並ぶのを渋っているのだから。
しかし始まってしまえばなんということはない。この緊張も震えも、始まってしまえばノリと勢いで押し切れるのだ。

そっと、手に温度が触れた。

「手、冷たい」

葛原は両手で俺の左手を包んでいた。
片方の手のひらが俺の指先から手の甲を辿り、手首を握ってまた指先に戻っていく。何度かさすって、袖に指が差し込まれる。

くすぐったさに身を竦めた瞬間、目の前が真っ暗になった。

「具合悪い?」

ぞわりと頭の中を撫でられたような痺れが走って、頭が真っ白になる。
耳元で囁かれたのだと気付いて、化粧で乾燥した頬が余計に干上がる気配がした。何を言われたのかわからなくて、背後の壁にただ背中を擦り付ける。

視界の半分がスポットライトをぼんやりと認識して、もう半分は暗闇だった。葛原の顔は逆光で見えない。

「──安西?」

呼ばれた瞬間、膝の力が抜けた。
前に突き出すように崩れた腰を引き寄せられる。砕けさせたのは葛原なのに、片腕でしっかりと腰を支える葛原に言いようのない悔しさが湧き上がった。

左手を握る手が、腰にしっかりと回った腕が熱い。辛うじて動く右腕を持ち上げて、目の前の肩に添える。

何を思ったのか、葛原は左手をやわやわと揉んでくる。冷たかった指先が熱に包まれて、じんわりと感覚を取り戻していく。

「……ぐ、あいは……悪くない……」

なんとかそれだけ告げるも、葛原は離してくれない。

「でも立ててない」
「そっ、れは、お前が」

どう言っていいのかわからない。葛原が耳元で喋るから、くっついてくるから、こんなことになっていると。バカ正直に言えと?

葛原には羞恥心というものがないのか。いや本当に、つくづく思う。己の言動がもたらす威力を自覚した方がいい。

「……俺?」
「あ、」

自分の心臓の音がうるさい。熱で頭がぼう、としてくる。体に力が入らなくて、このまま彼に凭れてどろどろに溶けてしまいそうだった。

離せと言えば彼はきっと解放してくれるだろう。そしたら俺は自分の2本足で立って、ステージに向かう。

だからなにか言わなければと思うのに、ちゃんと立たなきゃと思うのに。
もう少し、このままで、と思っている自分がいる。

「違くて……その……」

肩に置いた手をそっと腕に落とす。そのまま背中に回して、申し訳程度に握った。

「…………エネルギー吸ってんだよ」

我ながらおざなりな言い訳だった。言い訳にすらなってない。実際芝居の緊張が強制的にぶっ飛ばされたから、半分くらい本音だ。

葛原はしばらく黙っていた。なんか言えよ、と、なにも言うな、が俺の脳内で共存していた。

「……充電?」
「…………そうだよ」
「俺、バッテリー?」
「そうだよ!!」

念入りにトドメを刺してくるではないか。
羞恥心が限界突破して、ええいどうにでもなれ、と締め上げる勢いで飛びついた。左手は繋いだままだったので、腕を拗られた葛原の指がわたわたと蠢く。

あれもこれも、葛原にとってはなんでもないことなんだろう。だったら俺が変に気にする必要もないんだ。

ただ、彼の温度は安心するから、もう少しだけ温めてもらいたいと思った。それだけ。

「あ、待って腕、ねえ、ちょっと」

イソギンチャクのように健気な抵抗をする指に自分のものを絡めて押さえ込む。葛原が俺の手を振り払おうと力むと、腰に回る腕も連動して力が入った。ちょっと痛いくらいだったが、慌てる葛原が見れたのでチャラである。

奇妙な攻防は、天野と日高が息を切らして駆け込んでくるまで続いた。





真っ暗な舞台の上に背の高い影があった。

「鏡よ鏡、世界で一番美しいのは誰?」

明らかな男の声に会場はどよめく。無機質な女の声が答えた。

『それは白雪姫です』
「──なんですって?」

地を這うような声と共に、ステージが一気に照らし出される。長いマントを翻せば黒く縁どりされた目と血のように真っ赤な唇が現れた。舞台袖から見るだけでも迫力がある。あまりにも邪悪で、けれど確かな美しさだった。

わっと会場にあらゆる反応が沸き起こる。笑い声、悲鳴、ヤジ、黄色い声。それらに気を取られることなく天野は演技を続けた。

「あの娘を始末しなさい」
「しかし女王様、あんなにかわいい娘を」
「お黙り!!」

パシィン、とムチを床に叩き付けると、客席の方から馴染みのある笑い声がする。

「もし失敗すれば、どうなるかわかりますね」

女王様は狩人に白雪姫の暗殺を命じると、舞台袖にはけていく。立ち尽くす狩人を残して、舞台は暗転した。

「……いやコエー」
「……な」

彼が消えていったのとは逆側の舞台袖で、日高と俺はコソコソとつつき合う。日高は半笑いで自分の両腕をさすっている。

腹の底から響く声には自然と背筋が正される。伸び伸びと役になりきっている様には、こちらも尻を叩かれる思いだった。

それを心底ありがたく思いながら、次のシーンに備える。



──劇は続く。
白雪姫が歌いながら庭の掃除をしていると、美しい声と容姿に惹かれた王子がそこに加わる。驚いた姫は城に隠れてしまうも、王子は熱心に口説き続ける。姫は窓からその様子を伺い、二人は視線を交わした。

ダンボールをくり抜いた窓越しに、俺は三上さんの手を取って跪く。歯の浮くようなセリフもキザったらしい所作も、王子だから許される。少しオーバーなくらいがちょうどいい。惜しみなく全身で愛を表現した。

女王の命により姫を暗殺しに来た狩人は、彼女を森へ逃がした。姫は寝床を求めて小人の家に辿り着き、なんでもするからここに置いてほしいと頼み込む。掃除に洗濯、料理まで、持ち前の面倒みの良さで次第に彼らに受け入れられていった彼女は、質素ながらも平穏な日々を送っていた。

しかしそんな日々も長くは続かない。ある日訪ねてきた老婆から真っ赤な林檎を貰った姫は、それを食べて倒れてしまう。憤った小人たちは嵐の中老婆を追いかける。逃走劇の末、老婆は雷に打たれて崖から落ちてしまった。

眠りにつく白雪を見て悲しみにくれる小人たち。王女は成敗されたが、彼女が帰ってくるわけではない──。

この間、黒いローブで身を隠した天野がしゃがれ声を出したり、毒林檎を食べた三上さんが目を開けたままピクリとも動かなかったり、おこりんぼの日高が容赦ない語彙で王女を罵倒したり、その度に観客が笑ったりザワついたりブーイングしたりしつつ。

舞台はいよいよ大詰めを迎えていた。



『王子は白雪姫を探し続けていました。美しい乙女が棺の中で眠っている──その噂を耳にした王子は、森へ向かいます』

桐崎のナレーションが入り、効果音や照明により季節が移り代わっていく。
スポットライトに照らされた白雪姫の棺を囲んで、小人たちがすすり泣いている。近付けば場所を譲ってくれた。

「やっと見つけた」

姫の眠る棺の横に片膝をつく。少し屈んで棺の中のシーツに手を滑らせた。姫の頬に細く光る髪を見つけて、軽く払う。ライトが眩しくて視界が少しぼやける。

始めの方は動きが多いためよく見えなかったが、彼女はいつもよりも更に美人になっていた。陶器のように白い肌、りんごのように真っ赤な唇。本当におとぎ話に出てきそうなほど精巧だった。

徐々に顔を近付けていく。

鼻先でぴたりと止め、瞳を閉じる。
祈るように、願うように、ただ寄り添う。

数秒数えてからそろりと目を開ける。綺麗に生え揃ったまつ毛の下で、茶色い虹彩が輝いていた。

あれ、



目開いてる。

ごちん、と額に鈍い痛み。

「っ……!」

やっべえ、デコぶつけた、観客にバレて、

いや、とか言ってる場合ではない。

反射的に発しかけた呻き声を飲み込んで、次の行動とセリフを反芻した。二の腕と腹筋に力を入れて、ゆっくり上半身を起こし膝立ちになる。

すると目の前でのそりと起き上がる白雪姫。まるで昼寝から起きたかのような身軽さで伸びをして、欠伸を零す。
辺りを見回して一言。

「みんな、おはよう……あら?」

たちまち七人の小人が歓喜の叫びを上げる。誰かが口笛を吹いた。
姫がこちらを振り返った。

「お待ちしておりました」

花の咲くような笑顔で言い、両手を広げてくる。

「……ああ。お待たせ」

彼女を太腿に乗せ、背中と膝裏を抱えて立ち上がる。くるりと一回転すれば歓声が沸き起こった。

綺麗だなと思う。

美人って、立っているだけでも美しいけれど、笑うとさらに魅力的になる。美しさの中に可愛さとか、親しみやすさとか、そういうのが滲んでくるから。その笑顔が自分に向けられたときなんか特に破壊的だ。

自惚れているかもしれない。俺のために雲の上から下りてきてくれているだなんて。でもそれくらい許されてもいいだろう。自分の中で嬉しくなることくらい。

エンディングが流れ始める。姫が歌って、それに王子や小人が声を重ねていく。腹から空気を送れば心身が洗い流されるような心地がする。

たった今起こった不可思議なことなんてどうでも良くなるくらい、満ち足りた思いだった。





閉幕後は概ね予想していた通りだった。
着替えるために体育館から出ると、あっという間に人だかりができる。まず女子の層が出迎えて、外側から男子が口笛で囃し立てる。

「王子と姫だ」
「先輩〜写真撮って〜!」
「お〜いいぜ。そこで撮ろう」

中には合唱部の後輩たちもいた。唇に人差し指を当ててウインクすれば、ノリがいい彼女らは黄色い声で喜んでくれた。

少しハプニングはあったが、ひと仕事終えた俺に恐れるものはない。女子に囲まれてもこの通り。もう何を言われても動揺しない自信があった。

三上さんも同じように声をかけられている。女子と一緒にピースしていた。その様子を一部男子らがチラチラと盗み見ている。うん、見たくなる気持ちはわかる。

女子集団や悪ふざけの男子共の相手をしていると、列の切れ目を付いて背後から肩を叩かれた。

「すみません、姫と王子のツーショットください」
「はーい……って桐崎かよ」

どさくさに紛れて委員長までいるとは。桐崎がスマホを横向きに構えて申し立ててきていた。
なるほどツーショット。こういうのはやはりセットで撮るのがファンサービスというものなのだろうか。

「あ、玲香ちゃん。お疲れ様」
「おつかれ。二人とも良かったよ、最後とか」
「ありがとう。ね、安西くんいつもよりぐるぐるしてくれたよね」

三上さんは朗らかな笑顔で言う。
そういえばお姫様抱っこでステージ上を好きに歩き回っていた気がする。歌うのが気持ち良すぎて無意識に踊っていたかもしれない。

「あーちょっとハイになってたかも。わり」
「楽しくなっちゃったか」
「私も楽しかったよ」

そうだ、謝らなければいけないことといえば、他にもある。

「三上さん、あの……おでこ、ごめん」

口元で両手を合わせれば、三上さんはきょとんと目を瞬かせた。

「安西、三上さんにおでこぶつけてたよね」
「うわ〜やっぱバレてた!?」
「まあ、私は近くで見てたから」

さらりと告げる桐崎に腹からため息が出る。

キスの振りでデコをぶつけるとか間抜けすぎる。なぜそんな失態を晒したって、三上さんが目を開けていたのに動揺したからだ。
というかなぜ三上さんは開眼していたんだ。あれか、普通に俺が長く待機しすぎたからか。もしかして早く退けよって思ってた?

「ふふ、かわいい」

いや三上さんに限ってそんなことは思わないだろうけど──、

……今この人、かわいいって言ったか?

理解が追いつかないでいると、唐突に笑い声が耳をつんざいた。

「ぎゃははははは! マジでどっから出てんだその声!!」
「アッハッハッハッハ、やべー」
「アイタタタ、ちょっと、老体を労わってくれんかね」

声のする方へ振り向けば、天野が松風と日高に絡まれていた。松風は天野の背をバシバシ叩き、日高は壁をバシバシ叩いている。その壁に葛原が寄りかかって騒がしい彼らを眺めていた。

天野は派手な化粧に反して情けない顔で虐められていた。どうやら老婆モードのリクエストを受けているようだ。見事なしゃがれ声に笑ってしまう。演技派だなほんとに。

と、視線に気付いたらしい葛原と目が合う。ちょいちょいと指を折ればこっちにやって来た。

「お疲れ様。緊張してるのかと思ったけど、声も出てたし、歌凄かった」
「はっはっは、ありがと。充電の甲斐はあったよ」

褒めてくれる葛原にひらりと手を振る。するとぱしん、とその手を捕まえられた。
両手で上下に挟んで、胸の前に掲げている。

「ほんとだ。もうあったかいね」
「そう、解凍済み」

手のひらサンドを作られ揉みほぐされる。そんなに俺の手は触り心地がいいだろうか。まあ確かに葛原の手よりは柔らかい気がする。

くい、と反対の腕が引っ張られる。

「王子、浮気ですか?」

体を捻って確認すれば、柔らかい感触が二の腕を包んでいた。

にぱ、と彼女は無邪気に笑う。

浮気って、まさか、そんなつもりはないけど、窘められるということはイチャついてると思われたわけで。しかも今は王子で姫と恋人で、ある種ヤキモチを焼かれているというわけで。

顔が赤くなっていく自覚があった。はくはくと口を動かしても言葉は何も出てこない。

逃げ場を求めた俺は首を90度回転させた。

「〜〜ってか写真!! 撮るんだろ!?」
「もう撮ってる」

ピピ、という独特の音声は、録画終了の合図だった。

「…………桐崎ィ!!!!」
「ハイハイドードー? 桐崎、それ俺にもちょうだーい」
「クラスチャット投げとくわ」
「バカァ!!!!」
「ふふ、ふふふ」

どこからともなく日高に脇から腕を入れて押さえ付けられる。三上さんはくすくす笑っているし、葛原は口元を隠して目を逸らすし、なんなんだみんなして。

「はい、送信」

ヴー、とポケットの中でスマホが揺れて、呆気ない敗北を悟った。




その後、火照る頬を団扇で扇がれながら一通りファン列の対応をして、桐崎にロックオンされた天野を見捨てて日高と一緒にその場を離れたのは覚えている。すぐさまスラックスと半袖のワイシャツに着替えて、身軽な体で全てから開放された気分になって。

気付いたら体育館にいた。

右に松風、左に葛原。桐崎の餌食になった天野は今頃きっと更衣室だ。その天野の席は俺の二つ右のはずだが、松風によって詰められている。はて、これでは彼が座れない。
そこまで考えて、さっきまで自分が座っていた端の席が代わりに空いていることに気付く。ああそうか、俺も詰めたのか。
俺、ちゃんと自分の足で歩いてきたよな?

チカチカ光るステージが眩しくて目を細める。化粧のせいか、いつもより目が乾く気がした。確かコンタクトの葛原は目薬を持っていた気がする。貸してもらおうかな。いや返せないから貰おう、か。ていうか目薬の使い回しってセーフなんだろうか。市販の目薬ならまだしも、個人処方だったらダメかもしれない。

「危ねえな」

ぐい、と押し退けられて体が傾ぐ。

「明日押しかけにいくんだから寝とけ」
「どこに……」
「な。葛原」
「うん」

な、の意味がわからなかったが、別に今聞かなくてもいいかと思った。

ふわふわとした浮遊感。
耳に心地よい圧迫感がある。片耳からトクトクと水中のような音がする。

そう思っていたら片手が温もりに包まれる。言い知れぬデジャブを感じながらも、静かに身を委ねていく。

沈んでいくそこを、温かいと思った。

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