旅館にて

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よく喋るな、と思った。

ばりばりとホッケの骨を噛み砕く亨を見ながら、和真はずず、と味噌汁を啜る。アサリの出汁の効いたそれは、冷えきった胃を温めてくれた。
「つーかカノジョって。どんなひでえプレイしてたらそういう発想になんだよ」
「わかんないだろ。人の性癖はそれぞれだからな」
「食いちぎる勢いで噛む女とかいるかあ?」
「お前が頼んだかもしれない」
口に出しておいてなんだが、その様子はまるで思い浮かばなかった。代わりに豪快に口を開けて笑う顔が頭の中でいくつか転がっていく。亨は元気な様子が似合う。
「俺の性癖にどんな偏見持ってんだ」
「え、……血なまぐさいの?」
「グエー交尾かよ」
「好きじゃないのか」
「逆になんで好きだと思った」
ガサガサに嗄れた声ではいつものような覇気は出ない。それでも亨は息継ぎをして口を回す。頭に浮かんだ言葉をそのまま喉から送っているようだ。
つられて饒舌になっていく自分の口に、先程までのことは全て夢だったのではないかとさえ思えてくる。

日が暮れる頃になって唐突に鳴る通知は、友人の異常事態を知らせていた。『来い』というごく短いメッセージに嫌な予感がして『どうした』と問うも、既読が付くだけで返信はない。
サプライズか何かの誘いならば良かった。けれど和真が多忙であることを知っている二人の友人は、そういう誘い方はしない。それは互いに苦い経験を積んで行き着いた暗黙の了解だった。今まで何度『行けたら行く』を繰り返したことか。
近侍である陸奥守に出かける旨を伝えると、今夜は泊まりなのかと聞いてくる。数秒迷って分からないと答えれば、『なんかあったら呼びい』と残して去っていった。自分はそれほど様子がおかしかっただろうか。彼のこちらを透かしてしまう目に苦笑して、体が強ばっていたことに気付いた。
偽造通行証を二つ携帯し、バイクのスターターを蹴って区域外に走り出す。はやる気持ちを宥めつつそれなりに飛ばして駆けつけたそこは、端的に言って酷い有様だった。
覚えのある生臭い匂い、白い液体のこびり付いたシーツ、鬱血痕だらけの体、酷く泣き腫らしたであろう目。見慣れていたはずの部屋は、情事の跡で上書きされていた。
何を喋ったかあまりよく覚えていない。鳩尾の辺りに杭を打たれたような息苦しさがあって、自分とは別の誰かが自分の口を動かしてる気がした。
レイプ、という単語が頭に浮かんだ頃には亨は和真の腹に頭突きを噛ましていて、ぐう、と胸につっかえたものがそのまま出てしまいそうになる。
病院を嫌がる亨をひとまず旅館に連れてきた今も、その杭は胸に残り続けている。

六十里家長男として、和真は幼少期より行動範囲に制限をかけられてきた。歴史修正主義者との戦況の確認と対策、時の政府指定区域内外の通信、政務の基盤に携わる六十里は情報管理に関して殊更に敏感だった。
だから区域外に出る時は申請が必要だったし、位置情報も事ある毎に確認された。重要な情報は与えられていないからか、さすがに電子上のやり取りまで監視はされなかったが、とはいえそれで満足できるはずもなく。姉が家を出て少し経った頃、通行証は偽造したし端末は三台持ちになった。
正式に審神者に就いてから、監視の目は更に厳しくなっており、月一で勤務時間外の行動記録を提出する必要がある。偽造通行証を使っても、区域外に出るのは月に二度が限界だった。空白の時間をでっち上げるための用事のレパートリーも枯渇してきている。
もちろん一般人が区域に立ち入ることもできないので、亨や佑星と会えるのは本当にそのくらいだ。彼らを審神者生活区域に入れたことはなかった。寂しくないと言えば嘘になるが、二人に危険な橋を渡らせたくはない。通行証を三つ偽造したことに、意味などないはずだった。

それが、こんな形で使われる日が来るとは。
「おい、聞いてんのかコラ」
びくりと肩が跳ねる。まずい、聞いていなかった。
「えと……なんて?」
掘りごたつの下で亨の土踏まずが和真の膝の皿を割ろうとしていた。
「痛い」
「ケッ」
亨が拳を机の上に突き出す。最初はグー、と揺らし始めたので慌てて腕を持ち上げる。
チョキ、と言って出されたハサミをグーで粉砕する。亨はだあ〜と気の抜けた声と共に机の向こうに消えた。
「……なんのジャンケンだ?」
「中トロ。二個食え」
「いいのか」
「イーヨ」
先程追加で頼んだ寿司の盛り合わせ。三つの中トロの配分決めらしかった。
止まっていた箸を伸ばして中トロを掴む。醤油に浸けて口に運ぶ。鼻がツンとして、わさびを溶かしすぎていたのを思い出した。
咀嚼しながら亨の方を見る。畳に伸びているので顔は見えない。魚は骨まで食べたのか、綺麗に空になっていた。
「食べてすぐ寝るの良くないぞ」
「寝なきゃいんだよ寝なきゃ」
亨は踵をぐりぐりと腿の上に押し付けてくる。少々不安定だったのでそれらを腿の間に落とす。不満そうにぱたぱたと揺れる足の首をむんずと掴んだ。
がこん! と、派手な音が鳴る。
驚いて顔を上げるも、やはり机の向こうに伏しているらしい姿は見えない。寝返りでも打ったのか、机が浮いた衝撃で皿が何枚かこちらの方に寄っていた。
「痛い音したぞ」
「あ゙ー……」
亨は掠れた声で返事をよこす。足を引っ込めたがるのを感じたので手を離した。
彼はのろのろと腕をついて起き上がると、そのまま元の座位になった。
「寝る」
「……おう……え?」
今しがた食べてすぐ寝るのはよくないという話をしたばかりなのだが。つらりとした顔で窪みから脱出して、先ほど仲居が敷いていった布団に四つん這っていく。
ぼて、と白い羽毛布団に沈む。さすがに腹が苦しいのか横向きに寝返りを打っていた。
「風呂は……さっき家で入ってたか」
上の階には大浴場が備わっている。旅館に泊まる際の楽しみの一つではあるが、彼を連れていく気は起きなかった。
傷だらけの身体は目をさぞ引くだろう。そうでなくても酷く体力を消耗している。入るにしても部屋に備え付けられたバスルームで済ませた方がいい。
亨の返事はない。こちらが自己完結しているからそれもそうなのだが。本当にそのまま寝てしまいそうだ。
「じゃあ、俺あとで部屋の風呂使うから。トイレ使うなら今のうちだぞ」
それだけ言って茶を啜っていると、亨はのそりと起き上がった。
訝しげに眉を寄せている。半開きの口が何か言いたげに開閉した。
「ん? なんだ」
一瞬目が泳いだ後、呆れたようにため息をつかれる。
「パンツあんのかよ」
はて、と湯呑みを回す。本丸を出た時、持ち物は端末とカードケース、通行証くらい。ほぼ手ぶらでバイクを飛ばして来たのだ。宿泊グッズなど持ち合わせているはずもなく。
「……ない」
「だろーな。まあ、浴衣くらいはあんだろ」
亨はちょうど布団の頭側にあった引き出しを引く。見事浴衣を発掘して隣の布団の上に置いた。
「お、ありがとな。じゃあそれでいいか」
「……パンツは?」
「え、……履いた方がいいか」
「いや履くだろ。履け」
寝る時くらい一枚なくても問題ないと思っての言葉だったが、明日もそれで過ごさなくてはならないことを考えると素直に頷いた方が良さそうだった。さすがに心もとない。



やっとふくらはぎまで上がってきた水位を見て、浴槽に腰を下ろした。すっかり湯冷めしてしまった肩を擦りながら思う。自分はそうまでして湯に浸かりたかったのかと。ならば大浴場に行っておけばよかったんじゃないかと。今気付いても後の祭りである。
三点式ユニットバスだというのに何も考えずいつものように身体を洗ってしまったので、裸で湯が溜まるのを待つはめになっている。コンビニに行っている間に湯を張っておけばよかった。
同行人を放って一人で満喫するのもつまらないので部屋の風呂を選んだのだが、身体が冷えたせいか余計に心は萎えていた。
「ああ……」
低い水面を無心で見つめていると、ふとある光景が思い出された。
亨の泳いだ目と呆れたため息。窶れているのはそうとしても。たかがパンツで何を言い淀んでいたのだろう。もしかしてパンツを買わせることに負い目があるのだろうか。
まあ節約家な亨のことだ。支出に対しては人一倍敏感なのかもしれない。
ただ、少しいつもと様子が違うのはそうだ。いつにも増してよく喋るし、かと思えば急に歯切れが悪くなる。突然寝出すのは……割とよくあることだけれど。
傷付いていないはずがないのだ。目を逸らしてしまいそうになるが、今日この目で見たことは紛れもない現実だ。亨のことをちゃんと見ていなければならない。
膝が丸く浮いてきた。ある程度温まった下腿を湯から出し、身体を倒して肩まで浸かる。ようやく生きた心地がした。
明日の朝には医者が来る。とある筋の闇医者だ。正式な開業資格を持っておらず、その存在すら公にはできない怪しい人物。当の本人は気さくな性格で腕も確かだから、何か後ろめたい怪我を負った時はいつも世話になっていた。
明日来ることを亨に伝えれば、「どうってことねえ」と盛大に顔を顰めていた。何もないならないでいい。医者に診てもらったという事実が大事なのだ。



ラックからバスタオルを引き抜き、頭から被って身体に貼り付ける。マットで足を拭いて、湿気溢れるバスルームから出た。
ガヤガヤとした笑い声が聞こえる。テレビが付いているようだ。
「……あれ」
しかし亨がいない。
自販機にでも行っているのかと思ったが、先ほどコンビニに行った時に飲み物や菓子は買い込んでおいた。なんなら全然減っていないし、違うだろう。
首を捻りながらも、とりあえずバスルーム前に脱ぎ捨てた服の山の頂点から新品のパンツを摘む。
片足を通したところで、扉が開いた。
「あ、おかえり」
「…………」
亨は扉を全開にした状態で固まっていた。思わずこちらも固まってしまう。
数秒後、何事もなかったかのように部屋に入ってきた。手を離された扉が閉まっていくのを見て、こちらも腰の布を引き上げた。
「中で履いてこいや」
すれ違いざまにタオルに包まれた肩を叩き、自分の寝床に吸い込まれていく。
その一瞬、違和感を覚える。体重をかけないようにしているような、ぎこちなく強ばった動き。
亨はさっさと布団に辿り着き、うつ伏せになって沈黙している。
素足で畳を擦って、隣の布団から浴衣を拾う。灰色の鎖柄のそれを身につけている間、彼はぴくりともしなかった。
「亨、どこ行ってたんだ」
帯を締めながら見下ろせば、亨は億劫そうに返事する。
「……便所。てめーが長風呂するから」
「あ、ああ……そうか、悪かった」
なるほど、下の階の共用トイレに向かったのだろう。
布団に胡座をかいて亨を見つめる。しばらくそうしていたが、髪から水滴が落ちる音がしたので、濡れ布団にする前に腰を上げた。
サイドテーブルに座り、ドライヤーをコンセントに刺す。温風を浴びながらこっそり背後を伺えば、丸い背中が布団をまくって中に潜り込むのを見た。本格的に寝るらしい。
もしかしすると腹を下したのかもしれない。というか、男に無体を強いられたわけだが、それはすなわち、尻に異物を挿れられたということだ。もし内蔵が裂けでもしていたら──、
ぞっとした。嫌な汗が首筋に浮かぶ。
気付いてしまうといてもたってもいられず、ドライヤーの電源を落とす。自分の布団を踏み越え亨の布団の前でしゃがむ。べりと布団を剥ぐと、横向きに収まっていた塊が揺れた。
「──なん、なな、な」
「裂けてないか」
「……」
「血とか出てなかったか」
「……はあ?」
亨はぱちぱちと瞬きした。
思い当たる節のなさそうな反応にほっと胸を撫で下ろす。どうやら大事には至っていないらしい。
ところが直後、大きなため息が聞こえた。顔を上げれば、亨は体をこちらに回してきている。
何か嫌な予感がした。
「吐いたんだよ」
「……は?」
「吐いた。下じゃなくて上」
「…………」
目を細め、静かに告げる。
胃の内容物を下したのではなく、戻したらしい。
あれほどの食欲を見せていたというのに、さっきの今で全て吐き出してしまったというのは、にわかには信じられない話だった。けれど現に亨は青い顔をしていて、今にも瞼を閉じてしまいそうで。
言葉を返せずにいるうちに、亨は剥いだ布団に引っ込んでしまった。
四隅に引っかかる白いカバーから、短い髪がぴょんと覗いている。そのまま寝たら大分息苦しいだろうと思った。
「……今は気持ち悪くないか?」
「……」
「気持ち悪くなったら起こせよ」
返事はなかったが、ひとまず自分の布団に戻ることにする。そういえば髪が生乾きのままなことを思い出して、ドライヤーのスイッチを上げた。
とりあえず正面から風を当てて、妙な汗で額に張り付いた前髪を吹き飛ばす。
「……」
吐いた。亨が。あの。
よく寝て、よく遊び、よく食べる、夜更かしも徹夜もできる、あの亨が。風邪を引いただなんて、片手で数えられるほどしか聞いたことがない。冬の流行病にかかるのも、春の花粉症に苦しめられるのも佑星の方で、亨はその度ケラケラと笑って報告してきたものだ。
たしかに先程の夕飯は少しがっつきすぎだった。胃が強い質とは聞いているが、気力と体力を消耗しているところには少し酷だったのだろう。
もしくは、件の行為中に、何か入れられたか──。
ぐるぐると良くない考えが頭を巡る。風が当たりっぱなしの額が焼けてきたので、膝の上に置いていた腕を持ち上げた。
隣の床を見れば、やはり暑かったらしい、顎まで布団は引き下げられていた。相変わらず後頭部しか見えなかったが。
まあ、明日医者が来るのだ。素人が考えるよりも迅速で正確な答えが返ってくるだろう。亨も呼吸が乱れていたり呻いたりはしていないので、一晩寝ればマシになるかもしれない。
俯いてがしがしと頭を掻き混ぜる。後頭部はまだ湿っていたが、なんだか面倒になって風を止めた。
サイドテーブルにドライヤーを置いて、代わりに薄っぺらいリモコンを取る。中央の目立つボタンを押せば照明が消えた。
なるべく静かに布団に潜り込んで仰向けになる。
橙色の灯りが鈍く光っていた。



日だまりのような匂いがする。
そよそよと鼻の当たりを掠める風が、爽やかな香りを運んでくる。それはとても柔らかくて、暖かくて、
熱い。
「ふがっ」
「あ、起きた」
視界に飴色が広がる。それが何かを認識する前に、ぶわりと熱風が顔面を襲った。
反射的に目を瞑って体を転がす。馴染みのないふかふかとした感触に、急速に意識が覚醒した。
「羽毛布団」
「はっ、寝ぼけてんな」
かちりという音と共に、風が止んだ。クリアになった耳に、少し高めの笑い声が入る。
「あれ、亨」
オーバーサイズのTシャツにジャージ姿の亨がドライヤーを片手に胡座をかいていた。
「あれって……お前昨日の記憶飛ばしてんじゃないだろうな」
呆れた顔に和真は一つ瞬きして、当たりを見渡す。二つの敷布団、目の揃った畳、見知らぬ間取り。
そうだ。昨日は亨と一緒に旅館に泊まったのだ。怪我の治療のため、あるいは酷い有様の部屋から逃げるため、しっかりと休息をとれる場所に来た。連れてきた。
「覚えてる」
「思い出したか」
コンセントからプラグを引き抜きながら亨は言う。その背中は存外しゃんとしていて、昨夜の危うげな雰囲気は綺麗さっぱり消えていた。
いくらか冴えた頭を振って立ち上がる。洗面所に向かうと亨が後ろから着いてきた。
「医者、何時に来んだ」
「ええと、8時……今何時だ」
「8時」
「……あれ、俺目覚ましかけてなかったか」
「鳴ってたぞ。7時にな」
どうやら二度寝をかましてしまったらしい。ものの見事にアラーム音を聞いた記憶がない。
つまり亨は『そろそろ時間だろう』という勘で起こしてくれたのか。さすがすぎる。
「医者来るまでほっぽっても良かったけど」
蛇口を捻り手をかざす。既に亨が使った後なのか、水はすぐに温かくなった。屈んで顔に湯をかける。
放っておかれなくてよかった。いくら顔見知りの医者とはいえ、呼び出しておいて寝てましたは不味い。
今回は亨の気まぐれに助けられたわけだが、一体彼はいつから起きていたのだろう。
「何時に起きた?」
「あ?おめーの目覚ましで起きたよ」
「あっ」
すぐ後ろから少し不満げな声が返ってくる。聞かなかったことにして、フェイス兼ハンドソープの頭を押す。
とはいえそれほど怒ってはいなさそうだった。あくまで悪態つく体を取っているだけで、なんだか上の空のようにも聞こえる。
何とはなしに鏡を見て、

──すぐさま視線を落とした。

手のひらの泡に顔を埋める。たった今、見てはいけないものを見てしまった気がする。
鏡越しの亨の顔からは、表情と呼べそうなもの一切が削げ落ちていた。虚ろな目が足元の方を凝視している。安いビー玉のようなその瞳が眼窩からごとりと落ちてしまいそうな気さえした。
何か考え事をしているのだろうか。それとも疲れているのか。朝早く起きたようだが、そもそも夜中はちゃんと寝れたのか。
「亨、昨日──」
ぽーん、と。続きの言葉は間抜けな音に遮られた。
亨は和真の泡だらけの顔を一瞥して、洗面所向かいの壁に寄りかかっていた体を起こす。そのまま玄関側に消えていくところまで見えて、視界が泡に侵食される。染みる前に慌てて湯で洗い流した。
ドアの押し開けられる音と共に、聞き覚えのある男の声がした。
「やあおはよう。和真くん、すっかり大きく……なったか?」
扉が閉まる音と開く音が立て続けに聞こえてきた。一体何をしているのか。
「おっと、悪い悪い。君は患者だったか」
「自分が部屋間違えたとは思わないんですか」
「今ので気を悪くできるのは、和真くんの連れでしかないだろう。いや、悪かったって、彼の第一印象発育いい少年だったもんだから」
「気ぃ悪いってわかってんならもうちょい歯に衣着せてくれませんかねぇ!」
タオルで顔を拭い洗面所を出ると、玄関口で亨と男が攻防を繰り広げていた。内側から扉を押す亨の背中と外側から覗く男の顔。男は見知った顔だったので、和真も声をかけた。
「おはようございます丹代さん」
「お、本物のお出ましか」
亨よりは高く、和真よりは低い背の男。といっても大の大人なだけあって、しっかりと厚みのある体付きをしている。
和真と丹代を見比べた亨は、鼻を鳴らしてお手上げのポーズを取る。つっかえのなくなった扉を押して丹代が中に入ってきた。
「いや、久しぶりにゲート通って来たけど、やっぱりあれ背中がぞわぞわするね」
「まあ確かに。でも慣れると面白いですよ。シャボン玉潜るみたいで」
「ははは、言われてみればちょっと油膜っぽいか?」
彼は笑いながら部屋を進み、敷かれたままの二組の布団や転がっている荷物を見渡す。少し片付けておけば良かったかとも思うが、彼の診療にはあまり関係ないだろう。
「和真くんは来るのかい?」
「ああ、ええと、亨。俺いない方がいいか?」
さすがに診察をじろじろ見られるのは気分が良くないかもしれないと思い、そう問いかける。
亨はぱちりと瞬きし、訝しげに丹代を見つめた。
「……どっか移動するんすか」
「ん?移動というほどじゃないさ」
丹代はよし、と呟き、大きな鞄を布団の間に置く。金属のがま口を開けると、無遠慮に左足を突っ込んだ。
膝を過ぎ、腿が鞄の丈以上に沈んでいく。やがてもう片方の足も収めると、頭まで完全に見えなくなった。
丹代は往診医である。常に携えている鞄は彼の診療所そのものだった。
「や。下りておいで」
中から伸びてきた手がひらりと揺れる。
手のひらの方向を見れば、亨が口をあんぐりと開けていた。
「…………すっげぇ……」
「ふふ、ここまで大容量の拡張鞄も珍しいからね」
「そもそも見たことねーよこんな四次元ポケット」
「おや、あまり霊器に興味はない?」
「興味ないっつーか、そもそも見る機会がない。俺サニワじゃねーし」
一度引っ込んだ頭をがま口から覗かせる丹代に亨は答える。
そう、丹代には亨が"部外者"であることを伝えていなかった。政府指定区域で生まれ育った和真と違い、亨は入域許可さえもらっていない一般人である。
伝えなくても問題ないだろうと思ってのことだった。
「……和真く〜ん。君って奴は、本当に素敵な交友関係をお持ちだね」
「なんですか」
「いやいや、大事にしなってことさ」
にやけた顔が再び下へ潜っていくのを認め、和真は軽く息をつく。
闇医者という裏稼業をする中で欠かせない処世術なのだろう、丹代はこういう話を深く追求しない。今のように含みのある言い方をすることはあるが、そもそも丹代を頼る時点で後ろめたいことがあることはバレているも同然なので、最早戯れのようなものだ。
戯れだとわかっていても、この人の細められる目に居心地の悪さを覚えるのも事実だった。見なくていいのなら見たくないし、話題に出ないならわざわざ掘り起こしたくもない。
亨のことで伝えたのは、診察で必要になるだろう情報のみだ。
「これどこに足つけんだ」
「梯子付いてるよ」
亨は片膝立ちの体勢で後ろ足をがま口に突っ込んでいる。文句のような物言いとは裏腹に、心做しか表情は先程より輝いて見えた。
丹代の助言に従い身を埋めていく亨を眺めていると、不意に視線がかち合う。
そういえばまだ返事をもらっていないことに気付いて、伺いを立てるためにしゃがみこむ。
しゅん、と亨の姿が消えた。
「……あれ?」
直後聞こえたぼすんという音で、彼が足を踏み外したことに思い至る。
「だ、大丈夫か!」
「ありゃま。踏み子広すぎた?俺足長いからなあ」
中を覗くと、小さな人影が二つ。亨は尻もちをついていて、それを丹代が覗き込んでいる。板張の床の木目がぐにゃりと歪んでいる様子に、既視感を覚える。
自分もかつて、同じように落下したことがあった。その時も鞄の底は柔らかく歪んで、おかげで尻を壊さずに済んだのだ。それならばとはなからめり込むつもりで飛び込もうとして、背後から摘みあげられた記憶がある。
「はい締!」
ぱん、と破裂音がしたかと思うと、がま口は磁石のようにぱちんとくっついた。
「…………」
締め出されてしまった。確かに入る素振りは見せなかったが、判断が早すぎやしないか。鼻を挟まれるかと思った。
鞄は大人しく鎮座している。
静まり返った部屋で、二人の戻りを待つことにした。



鞄が独りでに揺れたのは、それから二時間ほど経った頃だった。
付けていたテレビのレポーターが、ピザを引っ張ってチーズの伸び具合を見せつけている。落ちそうになったサラミを口で迎えに行き、伸びきったチーズを口の端に垂らしていた。
「奢ってあげようか」
揺れていた鞄の口金がぱかりと弾ける。さながら茹で上がったハマグリのようだった。
「と言いたいところだけど、この後予定があるんだよねぇ」
「はよ出ろ。後ろつっかえてんだよ」
「おっとと」
尻をど突かれたか、胴体がにゅるりと這い出る。マヨネーズのようだと思いながら、昨日買っておいた煎餅の袋に手を伸ばした。
「ったくどんだけ拘束すれば気が済……」
後から出てきた亨は、唐突に言葉を切ると、きょろきょろと辺りを見回し始めた。
「は?」
「なんだ。記憶飛んだか」
「お前じゃねぇんだよ。そうじゃなくて……」
亨の視線はテレビに向いている。シーザーサラダを混ぜる女性を何やら神妙な面持ちで見つめていた。
「食べたいのか」
「違う!」
「あ、そうそう、それね」
こちらの様子に気付いた丹代が、役目を終えた鞄を手元に寄せて言う。
「この中で凝縮されるのは、人や物だけじゃないよ」
数秒の沈黙ののち、和真ははて、と首を傾げる。一方亨は合点がいったようで、感嘆とも呆れともつかないため息を吐き出した。
「はぁ〜〜〜〜……何でもアリかよ」
「そう見えるかもしれないが、機能としては単純だよ」
「……?何の話だ?」
何か通じ合っている二人を見比べると、亨が片眉を上げて人差し指を立てる。
「いいか、この鞄はな」
「時間が早く流れるんだよ」
「オイ取るな!俺のセリフ!」
「だって俺の鞄だもん」
亨をいなす丹代の機嫌は良い。もん、などとお茶目ぶって、完全に遊んでいる。
があ、と牙を剥く亨を見つめること数秒。彼が驚いていた点に思い至る。
「……ああ、そういうことか」
「おわかりのようで」
黙って成り行きを見守っていた丹代がにへらと笑う。
「何倍でしたっけ」
「今回は四倍。検査用に薬入れたりしたからね、効果待ちでちょっと時間がかかった」
「なるほど」
「……は?おい、知ってたんか」
「今思い出した」
正直に白状すると、亨はこれでもかと目を細めてこちらを睨めつけてきた。
「記憶飛び野郎」
「う、いや違うんだ、忘れてたわけではなく当たり前過ぎて思い至らなかったというか、」
「あぁー坊ちゃん、坊ちゃんだったなオメーはよぉ!」
「いやその、そもそもこの機構は」
「和真くん、喋れば喋るほど墓穴掘りそう」
弁明は丹代に遮られ、亨にはいーっと歯茎を剥き出して威嚇される。
しかし、亨も随分元気が出たようだ。ツッコミに覇気が戻ってきている。別に低燃費なツッコミが嫌いなわけではないが、今はそれが疲労の表れのように見えて、心中穏やかではなかったから。
亨がこんなに早く気を許すのも珍しいが、一体中で何があったのだろう。二時間──いや約半日もの間、ずっとこのようなやり取りを続けていたのだろうか。
「中で何してたんだ」
「診察しかしてねぇ」
「それはそうなんだけど、とはいえ待ちの時間の方が長かったかね」
「……もう結果出たんですか?」
「出たのと出てないのがある。まぁ、それも明日中にはわかるよ。仕込んできたから」
丹代は抱えた鞄をぽんぽんと叩く。その中に収められている採取物もまた、圧縮された空間の影響を受ける。おそらく反応が出るまでの時間も通常より短いのだろう。
「出たものは」
まあ焦らず、と彼は軽く両手を上げる。斜め後ろに待機する亨に顔を向けた。
「言っていい?」
「好きにしろ……」
「はいよ。まず第一に、アルコールと主要な麻薬の反応は出なかった。アルコールは抜けたのかもね。症状聞いてると、水際媚薬とか使ってんじゃないかな」
鈍色の瞳を細めながら顎を撫でていた丹代は、それでね、といくらか高いトーンで告げる。
「外傷については首元の傷がひどかったから、抗菌薬塗っておきました。肛門の方は小さな裂傷はあるけどこれは痔の要領で対処して。あと性病については結果待ちだね。再検査も必要」
「全部言うな!!」
「で、ここから大事」
憤る亨を意に介さず丹代は続ける。
「寝とけば治ると思って放置して、そのまま帰れなくなることはあるからね。なんか変だなって思ったらすぐ、病院行くこと」
「…………」
「俺でもいいけど、高くつくよ」
「ヤブがよ……」
「ヤブじゃない。闇」
「同じだろーが」
「全然違う。お箸とおはじきぐらい違う」
矢継ぎ早に流れていく情報に頭が置いていかれている。
診察に必要な情報は提供した。だからそのような検査がなされるのも当然のことだった。万一が起こり得ることも承知していた。はずなのだけど、どうやら自分は具体的な想像をしていなかったらしい。あるいは、想像を避けていたのか。
「和真くん」
「えっはい」
丹代はこちらを真顔で見つめていた。
その顔には覚えがあった。診断を告げる時の、真剣なのか脅かしなのか判別の付きにくい顔。
逸らしたくなる顔をほんの少し傾けて目だけを寄越せば、丹代は自身の胸の辺りをドン、と叩き、にやりと笑った。
「迷ったら、医者を頼りなさい。あいつら腐ってもその道のプロだから」
それじゃあ、と言うや否や、丹代は和真の横をすり抜けていく。
「胃に優しいもん食いな。お大事に〜」
「え、あ、ちょっと」
鞄を拾い上げてさっさと退散していく丹代。礼の一つも言えないまま、呆気なく扉が閉まった。
「あいつらって……自分は含めないのかよ」
「まぁ……彼も言ってた通り、ちょっと高いしな」
「…………、だろーな」
亨が言ってしばらくして、小さな違和感を覚えた。自分が仲介者なのだから当然といえば当然なのだが、あまりにも迷いなくこちらを見るから、まるで自分の方が病人であると勘違いしそうになる。
ふと視線を下げれば、ちょうど亨と目が合う。
「よろしくなぁ、保護者」
言葉とは裏腹のぶすくれた表情に、和真はぱちりと瞬きする。
幼い輪郭をつねってみれば、眉を吊り上げた亨に肩パンされた。

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