水死体の夢 1
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潮の香りを嗅ぐのはいつぶりだろうかと、松籟は思いを馳せる。鼻をつんと突く刺激臭は、無邪気に海へ飛び込んだ夏の記憶を連れてきた。真っ白に照らされた砂浜、空の色を取り込んだ水、寄せては引いていく波の音──。
ぼとり、と。
目の前に落ちてきた物体に、松籟の意識は現実に引き戻された。
今にも降り出しそうな曇天の下、青白くぶよぶよした何かが転がっている。水を吸って膨れたそれは恐らく原型を留めておらず、それが“どこの部位”なのか理解するのに三拍かかった。
腕だ。肘から下、手首から上の部位。膨れていて脚のようにも見えるが、朽ちた皮膚から覗く骨の細さからして前腕だろう。
松籟は引き下げていたマスクを鼻まで上げ、白いゴムを装着している両手を揉み合わせた。腕らしき物体をこれ以上分裂させないように持ち上げる。ぐにょりと危うい感触に顔をしかめた。
砂浜は裸足で歩くものと相場が決まっているのに、何が楽しくて暑苦しい長靴で砂をかいているのか。歩くたび若干後退するじれったさに力みそうになるが、壊れ物を抱えていることを思い出してため息をつくに留めた。
さほど離れていない距離に、ブルーシートが並んでいるエリアがある。松籟はその一枚に近づきしゃがみ込んだ。手に持つ物とよく似た棒状の肉が一列に並んでいる。それらを数度見比べて、列に加えた。
立ち上がって防護服越しに両手を腰にあてる。くっと背を反らして空を掠め、直って鈍い青緑色の海を見据えた。波は高く、白い筋の動きがくっきりと見える。天気予報では午後に雨が降ると言っていたから、これからもっと荒れるだろう。
それまでにはとっととケリをつけて帰りたい──。いかに早く仕事を終わらせるか、松籟の頭の中にはそれしかなかった。
思い思いに散っている他の政府職員も大方同じ心境だろう。揃ってこの空のように浮かない顔をして、黙々と漂流物を運んでいる。
先ほど松籟の目の前に腕を投げて寄越した男も、もはや呼びかけの一つもない。急に人体の一部が降ってきたら普通の人間は飛び上がるぞ、などと軽口を叩く気も起きなかった。
ここにいる職員に普通の人間など存在しない。それは政府職員であることや、所属部署によるものではない。皆この数時間の間に普通でなくなったのだ。
──朝八時に招集されてからちょうど二時間、大量のバラバラ死体と向き合っていれば、そうもなる。
『万屋街に死体が上がった』
「はい?」
カーテンを締め切った仮眠室。端末のコールで目が覚めた松籟は、通話が繋がるなり告げられた言葉に素っ頓狂な声を上げた。
『大量にだ。松籟、お前も手伝え』
通話の声の主には心当たりがあった。異物処理班に所属している政府管理の刀剣、膝丸。きりりと意志の強そうな瞳を持つ練度の高い個体で、過去から現在、あらゆる時代に取り残された死体や刀剣、文字通り”異物”の回収に日夜奔走している。
「今何時だと思ってんだ」
『七時半』
「集合は」
『八時でいい』
「譲歩のつもりかよ」
言いながら、松籟の足は床に下りていた。
こういうことは珍しくない。松籟が隊長を務める特殊呪術捜査部隊は、被害影響度が高いと判定される呪いや呪物を直ちに沈静化する役目を担っている。いかに素早く対応するかがその後の影響を左右するため、急な呼び出しや休日出勤は慣れっこだった。
しかし、死体回収とはまた変わり種である。異物処理班が先に動いているということは、付近の呪力反応は薄いということだ。つまり、松籟の呪術的知見を求めているわけではないのだろう。
「一応聞くけど、死体に呪術的痕跡は?」
『穢れが溜まっている程度だな。欲しいのは人手だ』
「へいへい。相変わらず人使いが荒いこって」
『隊室に篭もりきって青白い光を浴びているよりは、体を動かす方が気分も変わると思うが』
「人を引きこもりみたいに言うな。てかやること死体拾いだろぉ?」
仮眠室に備え付けの水道で水を組み、チューブを捻って歯ブラシを咥える。しゃこしゃこと歯を磨きながら膝丸の返事を待った。
『まあ、呪いが関係していないとも言い切れん。レーダーでは探知できない残滓が残っているかもしれない。その確認も兼ねてお前を呼んでる』
「買い被りすぎ」
『そうでもない』
口をゆすいでシンクにぺっと吐き出す。水で流してブラシをコップに落とした。
最近この刀は輪をかけて人使いが荒い。以前はもう少し遠慮があった気もするが、何度か仕事を共にするうちに地が出てきたようである。もしくは激務に駆られて擦れてしまったか。鉄も叩きすぎは良くないのかもしれない。
最も、松籟は彼に雑に呼び出されることが嫌ではなかった。
冷蔵庫からタッパーを取り出してシンクに置く。三日前に作ったきゅうりのたたきだった。
「数は」
『わからない、腕だけで二十はある。三十、で済めばいいが』
ボリ、ときゅうりを奥歯で嚙み潰す。味がよくわからなかった。
「おい、まさかバラバラ死体か」
『古い水死体だ。遺体の損傷が激しい』
「おいおいおい、なんだってそんなもんが万屋街に湧いてきてんだ」
そう問い詰めると、通話の向こう側は沈黙した。
万屋街は、政府が生成した仮想空間である。審神者が生活する国ごとに設置されており、中には景観として海岸が形成されている街もある。しかしそのどれもが偽物だ。海水はどこにも繋がらず、四角い結界の中に押し込められているに過ぎない。
一体全体、どこから死体が湧いたというのか。
『長らく沈んでいた肉体に腐敗ガスが溜まって浮上することはある。損傷も魚やプランクトンに食われて進んだと考えれば説明はつく』
膝丸の考えは安牌といったところだ。しかしやはり直接的な死因がわからない。宗教じみた集団自殺の類か、そうでなければ何者かによって沈められたか。
何はともあれ、現場を見てみないことには。
「大体わかった。とりあえず来いっつうことな」
『そうだ。話が早くて助かる』
返事と共にきゅうりを三つ口の中に放り込んだ。覚めてきた味覚で浅漬けのさっぱりとした塩気を味わう。咀嚼しながら、数個残っているそれを冷蔵庫に戻した。
ロッカーを開き、適当な肌着とジャージを掴む。防護服一式の入っているビニール袋も引っ張り出した。
『ところで』
共用シャワールームへ向かおうと、仮眠室の扉を解錠した時だった。
『何を食べているんだ』
「なんだと思う」
数秒の間があり、松籟は膝丸の回答を待つ。
『……沢庵』
「おしい」
そんなこんなで今に至る。
転移ゲートを潜る前はそれなりにひと仕事への気概を持っていたはずなのだが、終わりの見えない作業と五感を侵食する死体の空気に調子が鈍ってくる。
松籟を呼び付けた張本刃は何やら海上を取り仕切っているようだし、いよいよ来るのは自分じゃなくても良かったのではと思い始めている。いや、元々猫の手として呼ばれているのは知っていたが。
せめて一言くらいは小突いて帰らないと割に合わない。
眉間に皺を寄せながら、松籟はまた一つ肢体を分別する。例のごとく同じ群に並べて腰を上げようとしたところで、ふと、視界の端に光る物が映った。
金色に輝くそれは、ある手の指に嵌っていた。比較的崩れていない手の薬指にくい込んでいる指輪。おそらく、結婚指輪。
金か何かでできているのか、海水に晒されていただろうに全く錆びていない。結婚指輪で金色というのも珍しいが、色以外には目立った装飾もなく、そのシンプルなデザインはいかにもといった感じだった。
その指輪は、妙に浮き上がって見えた。薄暗い灰色の世界でその金色だけが異質で、眩しい反射光は周りの色を食らっていくような気さえする。
きっとこの手の主を探している人間がいる。配偶者、友人、名前のつかない関係。彼らは突如ぽっかりと空いた穴に戸惑い、打ちひしがれ、そして穴を埋めるものを探す。思い出や面影の残るものはその最たる例だ。この小さな金属のように。
死んだものは生き返らない。形見を見るたび思い知るのに、それを追い求めずにはいられない。憐れだ、と思う。
松籟は腕を伸ばし、白い指に触れた。
死体は身元を確認され、遺品は親族の元へ送られるだろう。彼らはそれを受け取ることで、淡い希望を砕かれて絶望するだろうか。それとも、魂の一端が帰ってきたと安堵するだろうか。
穴の空いた体で、どう生きていくのだろうか。
「火事場泥棒とは感心しないな」
「だっ、」
唐突に背後から降ってきた声にびくりと肩が跳ねた。
振り向けば薄緑が視界を占める。
「──ちげえよ!ちょっと見てただけだっつうの!」
気を取り直して松籟が否定すると、数刻前の通話の主、膝丸は屈めていた腰をすっと伸ばした。
「お前はそこまで卑しい奴じゃないと思ってたんだが」
「だから違う!つかそこまでってなんだ!」
「安心しろ、ちゃんとあるべき場所へ返してやる。お前が保管する必要はない」
「……そりゃどうも!勝手にしてくれ」
松籟は両膝に手を当て立ち上がる。改めて見た膝丸の顔は存外穏やかで、あまりものを考えずに喋っているな、と思った。顔色にはあまり出ないが、疲れているに違いない。
薄緑の髪に隠されていない片目を窺っていると、膝丸越しに一人の男が砂浜を歩いてくるのが見えた。作務衣にビーチサンダルという近所のコンビニに行くような軽装、天然パーマを伸び放題にさせた中年男性。不健康そうな生白い顔が辛うじて空気を読んでいるが、どう見ても死体回収にくる恰好ではなかった。
「膝丸ゥ、なに油売ってんだあ」
「班長」
彼は政府職員の芥という男だ。膝丸属する異物処理班の班長で、いつ見ても草臥れた風体の男であった。
芥は膝丸に油を売りつけられている松籟に目をやり、ふむ、とじょりじょりしていそうな無精髭を撫でた。
「気合い入ってんな」
開口一番落とされた言葉に、松籟はこめかみに血管を浮かせた。
「どこをどう見たらそうなるんですか」
「いや、格好が」
「これお宅の膝丸クンにもらったものですけどね!?」
「班長、あなたの基準を普通の人間に適用すると不味い」
「でも松籟くんは霊力あるだろ?」
芥は欠伸をしながらそう言う。
彼が言っているのは、『結界を張れば身を守れる』ということだ。実際芥はそうしているし、辺りにも軽装の人間は散見される。
松籟は肩を落としてため息をついた。できるできないの話ではないのだ。
「気分の問題ですよ。相応の格好じゃないと落ち着かないんです」
「気分ねえ、海といったらビーサンだろ。なあ膝丸」
「俺に振らないでくれ。遊びに来てるんじゃないんだぞ」
「こんなシケた仕事、どっか気ぃ抜かねぇとやってらんねえだろ」
「シケ……そういうこと言わない」
律儀に窘める膝丸は苦労人だと思う。どこぞの兄者然り、上に振り回される星の元に生まれてきたに違いない。
自由な上司を他所に、膝丸はくるりと松籟の方に向き直った。
「どうだ。何かわかったか」
松籟もまた腰に手を当て、頭を切り替える。
ここら一帯でおよそ八十の腕や脚を捌いた。四つで一人分と見積もって二十体、胴の数とも大体一致する。向こうの班と合わせれば死体は四十体弱といったところか。
事前に言われていた通り、死体に呪術の痕跡はない。呪力の源である穢れが湧いてきているがそれくらいで、死因は呪殺によるものではなさそうだった。
だからますますわからない。こんなに大量の死体が生まれた理由も、それが突然浮上してきた理由も。
「いや……どの部位も呪力に侵食されてなかったから、呪殺はないと思う。けど……」
「けど?」
「人の手はかかってるだろ。明らかに」
松籟の言葉を引き継いだのは芥だった。
「三十七だ。三十七人死んだ。もれなく五体がもげた状態でだぞ。こんな趣味が悪いことができるのは、人を魚か何かと勘違いしている奴だけだ」
魚、と松籟は復唱する。四肢がもげるような衝撃、大量に浮かび上がった死体。それらを繋ぎ合わせて、一つの答えに辿り着く。
「ダイナマイト漁?」
視界の端で膝丸が顔を顰めた。それもそのはず、人で例えるには悪趣味すぎる。
ダイナマイト等の爆発物を水中で爆発させ、その衝撃波で死んだ魚を回収する漁法。水中は空気中よりも波が早く伝わるため、人が受ければ致命傷の威力となるはずだった。
「ああ。つっても、水中爆発は内蔵の方に効くんだがな。それに外から衝撃を受けたというより、なんというかこいつ等は、内側から爆発した感じだ」
堪らず松籟も口を引き結んだ。二つの顰め面が並んでいるのを見て、芥はふむ、と口元を抑える。
「お前ら、なんか反応鈍いな」
重たげな瞼の隙間から空虚な瞳がこちらを見つめている。
「それ、本気で言ってるならぶっ叩きますよ」
「ほら、ツッコミにもキレがない」
「呆れてんの!!あまりのデリカシーのなさに!!」
「何を今更……デリカシーを剥いで干すのが仕事だろうが」
芥はくだらないと言わんばかりに踵を返す。返事も聞かないまま歩みを進め、砂浜に点々と足跡がついていった。
政府職員は、得体の知れない事象を先行して調査し本命となる審神者に任務をおろす、言わば斥候のような存在だ。事態の規模を正確に測るために、見たくもない暗部に首を突っ込まねばならないときもある。
だが、だからこそ。
「……デリカシー被せんのが仕事だろ」
こんなもの、見なくていいに越したことはないのだ。それこそ、仕事でもない限り。
風に輪郭を削られていく足跡を睨み付けていると、不意に薄緑が視界を遮ってきた。
「……なんだよ」
「いや、どういう心境で言っているのかと」
膝丸は少し身をかがめて松籟を覗き込んでいる。
「なんかバカにしてる?」
「そんなことはないさ」
「ほんとかよ」
くっと眉を寄せて見せれば、膝丸は視界から引っ込んでいった。
ブブ、と手首の小型端末が震えたのはその時だった。同時に拠点の方から覇気のない声が聞こえてくる。
『集合』
芥がメガホンで号令をかけている。端末にも招集を示す通知が上がっていた。
付近の職員たちが腰を上げ、拠点へ向かう。松籟は足取りの重い彼らを追い越しながら進む。膝丸の足音はすぐ後ろをついてきていた。
拠点へたどり着くと、芥が折り畳み椅子で脚を組んでいた。手元のタブレット端末を操作しながら、集まってきた職員を誘導している。
程なくして十数名の職員が集合し、互いに会話もそこそこに静まり返る。芥は軽く咳払いをしてメガホンを掲げた。
『えー皆さん、朝早くからお集まりいただいてありがとうございました。ひとまず海上に浮いた死体はすべて回収されましたので、本日の作業は終了します』
淡々と任務終了を告げる芥に、職員の一人が口を挟んだ。
「死体はもう残ってないんだな?」
『海底も調査済みです。これから浮いてきたものはこちらで回収します』
松籟は隣へ視線をやった。海上に小舟で出ていた膝丸が小声で言う。
「沈んでいたのは”頭”だ。残っていたとしても、浮いてくることはないだろう」
松籟は内心首を傾げた。つまり軽い胴や手足はすべて浮かび上がったということだが、それらが発見されたのは今朝方だ。昨日まで沈んでいた死肉が耳をそろえて浮上することなどあるのだろうか。いやそもそも、水を吸った古い死体というだけで、海底に沈んでいた保証はないのではないか。
──ひょっとすると、死体はどこかから移されたのではないか?
『回収した死体については政府に転送後、異物処理班で分析します。調査結果によっては呪術対策課の皆さんに助力をお願いしますので、そのつもりで』
周囲の職員たちがざわつく。
呪術対策課は、松籟属する特殊呪術捜査部隊の上位部署であり、分隊の取り纏めの他、呪術全般の分析や研究も行っている。よくよく周りを見てみれば、今回招集を受けた職員の半分ほどは呪術対策課の者のようだった。
「呪殺のセンはないだろ」
ぼやく声には、聞き覚えがあった。
呪術対策課の蛯原。正面からかき上げた髪の下に彫りの深い眉間、高い鷲鼻に青髭を備えた男。政府ではよく身内とコーヒースタンドで陣取っていて、そこで何度かやり取りをしたことがある。正直良い印象はない。
「水死体とも思えん。手に余った死体の不法投棄ってとこか」
特にこの下卑た笑い声がいけ好かなかった。
しかし奇しくも考えは松籟と同じようで、周りも反論せず場の様子を窺っている。
芥は聞こえているのかいないのか、素知らぬ顔で先を続けた。
『本国万屋街は当分閉鎖します。結界に侵入口が作られている可能性も十分有り得ますから』
芥もまた、現場が別にあることを視野に入れている。
もし死体が別の場所から来たのだとすると、転移術式の一つや二つ設置されていてもおかしくない。万屋街の結界は、政府指定区域整備局が何重もの防御式をかけているはずで、そう簡単に掻い潜れるものではないのだが。
芥は重たい動作で腰を上げる。隣の砂に刺さっている白い棒から、旗のように四角いゲートが展開された。
『何か言っておきたいことはないですか』
芥が立てた転移ゲートは通称『フラグ』。政府が先行調査を行う際に使用するもので、れっきとした商売道具であるのだが、波打つ赤と白のホログラムがどうもビーチフラッグのように見えて松籟は目頭を揉んだ。というか色に覚えがないので、改造されている気がする。
『ないですね。では、解散とします。お疲れさまでした』
早々に質疑を締め切って、芥はぱん、とまるで食後のように顔の前で両手を合わせた。