水死体の夢 2
13,599文字
黄色い三角の切り口に親指を当て、そっと割り開く。袋状になったそれを鍋に放って、また次の三角に手を付ける。開く、投げる、開く、投げる。
無心で作業をしている背後に人の気配を感じた。
「あ、松籟さんがご飯作ってる」
背後の声に松籟は生返事をして、また一つ油揚げを鍋に投げた。
二十代後半ほどの背の高い男は、松籟がまな板の上で繰り返す作業をしばし見つめ、ぱちんと指を鳴らした。
「いなり寿司」
「……正解」
男は満足そうに呻って、炊事場から軽い足取りで遠ざかっていく。
特殊呪術捜査部隊、通称呪捜の隊室はデスクのある執務室に仮眠室と炊事場が付属した造りになっている。シャワー室がないことを除けばそれなりに生活ができる場所になっており、息抜きにこうして軽い食事を拵えることも多かった。そしてそれを隊員に覗かれるのも。
今顔を見せたのは、完全な部外者なのだが。
「松籟さんのとこにも来ました?例の水死体調査」
男はカウンターの向こう、仮眠室のベッドの上から話しかけてくる。松籟は鍋に電気ポットで沸かしておいた湯を注ぎながら答えた。
「初っ端から呼び出された」
「え、あの早朝の死体集めですか?うわぁ〜お疲れ様です」
相模国万屋街に謎の死体が上がってから三日。捜査は動き出しを見せてきている。
異物処理班は、まず遺体の身元特定から始めた。判断材料となるのは頭部だ。もちろん顔は水を吸って原型を留めていないが、そういう死体でも骨は朽ちずに残っている。その頭蓋骨をスキャンし、形状から生前の顔面を復元していく。政府のデータベースと照合した結果、三十七人中二十八人の身元が判明した。
二十八人は政府に登録された審神者や政府職員で、数年前から五月雨式に失踪届が出されていた。政府の素行調査庁によって捜索はされていたようだが、彼らもお手上げであったようで、時代の狭間に消えたのだろうという曖昧な結論で調査が打ち切られていた。身内はたまったものではないだろうが、見込みのない捜索を続けられるほど昨今の失踪者は少なくない。
急遽立てられた捜査本部は現在、審神者の失踪によって閉鎖や引き継ぎになった本丸の調査に当たる班、データベースから失踪者の情報をまとめる班など、各方面に分かれて捜査を進めている。なお、松籟は後者を担当していた。
「で、どうです調子は。何か掴めましたか」
「正直わからん。被害者は所属国もバラバラ、互いに演練経験くらいはあるが、接点らしい接点もない。共通点がねえ」
「政府外での集まりかもしれませんよ。新興宗教とか」
「っていうのを本丸調査班が追ってるが、今のところスカらしい」
ぐつぐつと泡立ち始めた鍋を見て、松籟は火を止めた。揚げを菜箸でつまんで冷水のボウルに移す。
「はぁ、じゃあ、無差別なんですか?参りましたねー」
男はやる気のない声を空に投げた。
「異物処理班の死体、軽く見させてもらいましたけどやっぱ呪殺じゃないですよ。怨恨でも選民思想でもなく、誰でもよかったっていうなら、そんなのはただの災害じゃないですか」
被害者たちの死因は『内臓破裂』だった。詳細は不明だが、胴体には内側から強い圧力を受けた痕跡があり、何らかのエネルギーが体内に発生したのだろうとのことだ。少なくとも溺死ではないらしい。臓器に溜まっていた水も、万屋街の海水ではないという。
誰かの恨みつらみに呪われたのではなく、純粋な力による破壊。おそらく犯人は、彼らの”中身”には興味がない。
「あのなあ」
松籟は水道の流水と共に熱湯をシンクに垂らす。熱でシンクを傷めないように、ゆっくりと鍋を傾けていく。
「そういうのを収めんのが仕事だろ。音上げてんじゃねえや」
「ええー?そうは言っても、モチベ上がんないですよ。自分の手に負えないものは」
細く落とす湯が水と渦を巻いて流れていく。松籟はぐるぐると回る水流を見つめた。
そんなもの、やらないと出ない。手に負えなくたってやるしかない。出すしかないのだやる気を。
「無理だと思っても、案外やればなんとかなる」
「なってるんすかそれ。多大なる代償を捧げてたりしません?何か人として大事なものをなくしてませんか?」
「ねえよアホ。いちいち大袈裟だな」
「心配してるんすよ。松籟さんどうせ仕事漬けでしょ。そのうち香ばしい呪物になっちゃうんじゃないかって」
鍋の持ち手が滑って、残りわずかだった煮え湯がシンクにぶちまけられる。べこ、とステンレスが悲鳴を上げた。
「ああっ!多々楽きさま、またサボりにきたな!」
よく通る声が響いたのはその時だった。
振り向けば黒衣の青年が肩をいからせてこちらを指差している。
「おーおつかれ水心子くん。今日もマジメだねぇ」
「おつかれ!そちらは相変わらずたるんでいるようだな!」
「そりゃあ休憩中ですから」
「休憩の度にうちの隊長にちょっかいを出さないでもらおうか」
青年──水心子正秀はぴしゃりと言い放つ。多々楽と呼ばれた男は、へらへらと後ろ頭を掻いた。
松籟はため息をひとつ吐いて、空になった鍋をコンロに置きシンクに寄りかかった。
「よう。どうだ調子は」
「ああ隊長、それがだな」
水心子はどこか浮足立った様子で背後へ目線をやった。彼が一歩横に出ると、そこからもう一人青年が顔を出す。
「春鳴が答えを見つけた」
「いや、あの、まだそうと決まったわけじゃ……」
フレームのない眼鏡をかけた青年の名は春鳴という。緊張しているのか、生真面目そうな顔を少し強張らせていた。
前任の隊長が席を空けてからというもの、呪捜は人の入れ替わりが激しい。不規則な勤務に取れない休み、その割には低い賃金。何より危険な呪物を扱わなければならない。異動していった職員たちはある意味まともな感性の持ち主と言えた。
元々前任の隊長が請け負っていた部分が大きすぎたというのもある。色々いい加減なところもあったが、能力は確かな人だったから。松籟は、後を継いで改めてその超人さを目の当たりにした。現状把握している仕事もきっと氷山の一角なのだろうと思う。
刀剣の水心子に政府アルバイトの春鳴、二人はほぼ時期を同じくして配属された。どちらも初々しく擦れていない新人で、日々真摯に仕事に取り組んでいる。
「何を言う。先ほどの話を聞いて私は納得したぞ。もっと胸を張って」
「あ、はい……ええと、松籟さん。少し見てほしいものが」
春鳴がタブレットを抱えて松籟の側に寄る。松籟が横から画面を覗くと、審神者名といくつかの数値の並んだ表が映っていた。
「頼まれていた被害者の定期健診データです」
「おーご苦労。どうだった」
「健康状態はまちまちです。健康体から高血圧、脂質異常、肝疾患まで……、そもそも年代が幅広いので、これはこんなものかと思います。ただ、霊力特性に少し気になることが」
そう言いながらタブレットをなぞる。春鳴が成形したらしい表には霊力量、血中霊子濃度、霊力属性、と欄が続いている。
「同化の値が高いです」
同化。術者自身の霊力と、外部から受けた霊力が混ざり合う現象。その馴染みやすさは十段階で評価されていて、審神者の平均値は確か三だった気がする。
松籟は液晶をいくらかスクロールして呟く。
「なるほどな。五はあるか」
「はい、ちょうど五から八です。高め、という程度ではありますが」
ちゃっかり松籟の横に並んでいた多々楽が声をかけてくる。
「それ高いとどうなるんですか」
「知らんのか」
水心子が腕を組んで鼻を鳴らす。多々楽は少し考える素振りをすると、人差し指を立てた。
「呪いにかかりやすくなる」
「知ってるじゃん!!」
「お、当たり?」
目を剥いた水心子に多々楽は満足げに笑う。水心子ははっと我に返り、高い襟元に拳を当て咳払いした。
「んん、まあそうだ。補足すると、呪いへの耐性は呪力侵食率といって、霊力同化の値と四大属性の割合によって算出される」
「あーそれそれ。なんか先輩に教わった気がしたんだよね」
「そういえばきみ呪術対策課じゃないか。ならこの程度朝飯前だな」
「いやいや、最近転向したもんで。そう言わずに教えてくださいよぉ」
小突き合う二人を他所に、松籟は表を見分する。
春鳴と水心子に生前の健康状態を調べさせたのは、”肉体”が目当てである線をみてのことだった。大量殺人犯による危害対象の選定は、完全な無差別か、でなければ記号的な法則に則ることが多い。年齢、性別、所属など、目に見える情報を元に選別していくのだ。
てんでバラバラに思えた二十八名の政府関係者に浮かび上がってきた一つの共通点。それは決定打にはまだ弱いが、見過ごせるほど些細なものでもない。
何より松籟には予感があった。この隊で十年──いや、この体と約三十年付き合って得た、人が言うところの野生の勘というやつが。
「よし!でかした春鳴!」
ばしん、と春鳴の肩を叩く。純朴な生き物は飛び上がってタブレットを軋ませた。
「芥に報告しよう。これそのまま使えるか?」
「は、はい。一応、隣のシートにグラフを作ってあります」
「気が利くな。じゃあ行くか捜査本部。水心子、演練記録仕上げといてくれ」
「備前と相模のものだな。承知した」
水心子に指示を出し、その隣の多々楽に視線を移す。彼は何を期待しているのか、口角を上げながら自身の顔を指差していた。
「じゃあ多々楽、続き頼んだ」
松籟の親指が差す方向を多々楽の目が追う。そこには水に浸った油揚げが鎮座している。
「…………、えぇ!?」
「多々楽きみ、料理できるのか」
「でき、できるけどね。知りませんよ好みの味じゃなくなっても」
「まあ大丈夫だろ。お前器用そうだし」
「たしかに。集中力に難はあるが、のみこみが早い質に見える」
「どゆこと?難ないって」
大袈裟に顔に皺を寄せてみせる多々楽の後ろで春鳴が声を潜めた。
「松籟さんは、いつもみりん多めに入れてると思います」
「え?ああ、なるほど……了解です」
その声に松籟はくるりと振り返る。目が合って固まる春鳴と納得に頷く多々楽とを交互に見比べて、片眉を上げた。
「そんなに入れてるか俺?」
「……味が、そんな感じです」
「そうなの水心子」
「えっ、う、うーん。隊長のしか食べたことないからわからないな……」
「味覚バブだったわ」
「バ……?」
水心子は頭の上に疑問符を浮かべて静止した。顕現してすぐの刀は、政府から配給を受けると聞く。エネルギー補給のためというよりは軽い情操教育の一貫のようで、一汁三菜の一般的な家庭料理が出されるらしい。そこにいなり寿司は含まれなかったようだ。
「でも良かったです。この虚無事件にもようやく光明が差してきたってことで」
水心子の肩に腕を回しながら多々楽は笑う。松籟は歯に物が挟まったような顔をしながらも首を縦に振った。
「……まあ、法則がわかれば犯人の狙いに近付くかもな」
「キタキタ!やっぱ捜査は犯人出し抜いてナンボでしょ!」
肩をバシバシと叩く多々楽に水心子が顔を顰める。
「多々楽、そういう発言は控えた方がいい。不謹慎だぞ」
「あはは。ここでしか言わないって」
「言ってるだろ。蛯原と一緒になって」
松籟が呟くと、多々楽はきょとんと目を瞬かせた。
「ああ、蛯原課長はあれ天職ですよね。犯人の嫌がる顔が好きでこの仕事してるまでありますよ」
「終わってんだよな」
「面白いじゃないですか」
自身の首に回された腕を外しながら水心子が言う。
「本末を違えるな。力を振るうのは、人を守るためだ。犯人の動きが予測できたのなら、次の被害を出さないことを考えないと」
わかっているのかいないのか、多々楽は間延びした声で返事をする。
やり取りを無言で見ていた春鳴は、自身のタブレットに視線を落とし呟いた。
「……これが傾向として正しければ、条件該当者に注意喚起くらいはできるかもしれませんね」
「さすがは春鳴。そういうことだ」
通じ合う二人を指差して松籟は笑った。
「あれを見ろ」
「うわぁ、綺麗な目だ」
◇
階段を一段飛ばしで駆け上るほどには、千崎芹那の気分は浮ついていた。ローファーの浅いヒールの音が階段室に反響する。五階、六階、七階……と階数を上げていき、八階の鉄扉を押し開けた。
廊下を大股で進み、最奥の扉に社員証をかざす。自動扉が開き、デスクが整然と並ぶオフィスから一人の視線がこちらを向いた。
「来ました!次回のぴゅあさんぽ!!」
「もっとあるだろ。その顔に相応しい情報」
鬼気迫った表情でタブレットを掲げる千崎に、長髪を後頭部でまとめた上司、川上環江は頭を抱えた。
ぴゅあさんぽ。それは千年ずっと愛される一刀星アイドル、ぴゅあくる刀剣男士が出演する配信番組の一つである。篭手切江、豊前江、桑名江、松井江、五月雨江、村雲江の六振りで編成されたぴゅあくるは、結成以降数多の人間を虜にしてきた。もちろんそれは政府職員の千崎も例外ではない。なんなら地元のコンビニに貼り出されていた色とりどりの美男のポスターに釣られて、千崎はこの職の面接に赴いたのである。
ぴゅあさんぽはその名の通り、各地を散歩しその土地を満喫する企画であり、彼らの素に近い姿が垣間見えるのが魅力だ。美形すぎるがゆえに、時々その存在に現実味のなさを感じてしまう彼らだが、気の向くままにロケ地を練り歩く様は、彼らが確かに同じ時代を生きていることを実感させてくれた。
「次は陸奥国!次は陸奥国ですよ~」
「電車かよ」
環さん──親しみを込めてこう呼んでいる──は、デスクに肘をついてお手上げのポーズを取ってみせた。今日もクールなツッコミ具合である。
「陸奥国っていっても広いだろ。どこ行くんだ」
「いい質問ですね。ヒントは、そうだなあ……『冬に見るべき景色があるでしょう』」
陸奥国は東北の宮城から青森にかけて鉄道沿いに設置された時の政府指定区域である。指定区域には本丸や万屋街など、審神者が生活するための区画が半仮想空間で構成されている。外の政府──日本政府からは防衛区域に指定されているが、審神者の健全な生活のため娯楽も整えられてきており、その発展は目覚ましい。
環さんは首を傾げた。
「そういやもう冬か。……イルミネーションとか?」
「えっ、環さんイルミとか見るんですか」
「いいだろ見ても!」
「うーん、どっちかというともう少し渋めかな」
「ええ〜……わからん」
「ふっふっふっ。答えはですねえ……、竜飛崎です!」
数秒の間があって、環さんはああ、と椅子の背にもたれて千崎を見上げた。
「津軽海峡か」
「そうです!本州最北端、陸奥国第一万屋街ですよ。あそこも開発進みましたよね〜。展望台絶対登ってほしい~!」
最近その万屋街にオープンした展望台には、昔の時代のとある演歌が爆音で流れるボタンが設置されているという。是が非でも押してほしい。さて、一体誰が押すのだろう。千崎の頭に一番手で桑名、次番で五月雨の顔が浮かんでくる。そういう時しれっと展開を進めてしまうところがあるのが桑名で、意外と茶目っ気があるのが五月雨だ。
脳内でいくつもの展開をシミュレートしていると、ふと涼やかな声が滑り込んできた。
「楽しそうだね」
「清麿くん」
振り向けば黒い官帽から淡い紫色の髪を揺らす美青年が微笑んでいた。千崎はぱっと顔を輝かせて彼に近づき、その肩を掴む。
「聞いてよ清麿くん!私の推しの話を!」
「うん」
「豊前が演歌歌手になっちゃった」
「うん、彼はこぶしの入れ方が上手いよね」
「おい乗るな、幻覚だそれは」
篭手切のれっすんにかかれば演歌だろうがラップだろうが極めてしまうに違いない。なぜなら我らが”りいだあ”だから。
清麿くんは千崎と同じ時期にこの部署にやってきた刀だ。配属から五年、彼はいつだってどんな無茶ぶりもセンターラインに打ち返してきた。これほど心強い同期がいるだろうか。
「楽しそうな君にこれを言うのは心苦しいのだけど……」
急に声のトーンを下げた清麿くんに、千崎は目をぱちぱちと瞬かせた。不穏な空気に思わず環さんの顔を見る。顔を逸らされる。おい、何か知っているな。
「来週から、万屋街は全閉鎖されることが決まった」
清麿くんは、真っ直ぐにこちらを見据えていた。その瞳が、色素の薄いまつ毛が、あまりにも美しくて、情報が脳に入って来ない。
「事件があった相模だけじゃない。武蔵、大和、山城、全国だ。もちろん、陸奥国も」
いや、脳が、情報を拒絶していた。
「ハァッ!!」
千崎の視線は天井に逃げた。両手を戦慄かせて天に叫ぶ。
「ハァアアア!?」
「うるせえ!」
「あいでっ!」
ばしん、と顔面に落とされた紙の束に、千崎はがくりと膝を崩した。
「いやあ……お前が来てくれて助かった」
「川上は優しいね」
「やめろ、これは優しさじゃないんだ。やめてくれ」
体の末端からサラサラと何かが零れていくような気がした。ああ、私って砂だったんだ。中まで砂がぎっしり詰まった、あるべき臓器が詰まっていない、無機物。
「閉鎖令が出されたのは昼前だ。だから……広報課とは連携が取れてないんだろうな。残念だが……、ひと月は覚悟した方がいい」
ぴゅあさんぽの告知を見たのは昼休みだった。環さんの言う通り、二つの情報が出たのはほぼ同時刻だろう。そして生配信であるぴゅあさんぽの予定日は、再来週末の三日間。万屋街の閉鎖は来週から。その間、一週間と少し。
「……っな、なんのために?」
「は?」
声が変に裏返ってしまい、千崎は咳払いをする。
「いえ、はい、相模の事件のせい、なんですね?」
つい五日前、相模国第二万屋街の海に死体が上がったのは記憶に新しい。千崎が所属するこの政府指定区域整備局──通称区整にも、当該万屋街の閉鎖依頼が来て、それこそ千崎が閉鎖作業を行ったのだ。
閉鎖などして何をするのか。そんなのは事件の調査に決まっている。事件が解決するまでの安全確保を目的とした、万屋街の閉鎖。清麿くんの話の通りなら、それを全万屋街に適用するということ。
「じゃあ、犯人を吊るし上げれば、閉鎖令は解除されますね?」
「待て待て。そうとは限らん」
ふらふらと廊下の方へ向かう千崎の首根っこが掴まれる。
「万屋街の仮想空間システムはウチで一元管理してるだろ」
そうだ。仮想空間も、防御結界も、区整が構築して管理している。
環さんは手を緩めないまま続けた。
「不正ゲートが作られたってことは、結界に侵入されたってことだ。ウチとしても、セキュリティを見直さなきゃならん。仮に事件がひと月以内に解決したとしても、システムの修正はそうもいかないだろ」
千崎の眉間の皺がどんどんと深く、険しくなっていく。
千崎はシステムの運用を担当しているため、実際の修正作業がどんなものかはわからない。だが、作業報告を受けている感覚では、スケジュール通りに作業が進行していることの方が珍しい気がする。
「……ま、全閉鎖は過剰な気もするがな。万一に備えた縮退稼働くらいが妥当だと思うが、呪術対策課ってホラ……そういう運用面は度外視しがちだから……」
環さんの声は尻すぼみになっていく。
千崎はふと、顰め面を解いた。
「呪術対策課が指令出してるんですか?」
「ん?ああ、通達に蛯原の名前があったからな。呪術対策課も捜査本部に組まれてるはずだよ」
えびはら、と口の中に湧いてきた音を、奥歯ですりつぶした。
呪術対策課課長の蛯原。いかつい顔をした三十代半ばの中堅職員。その横暴な振る舞いに、人を小馬鹿にした態度に、千崎は幾度となく辛酸を舐めさせられてきた。
またもや目の前に立ちはだかるというのか。
「千崎?」
急に黙り込んだ千崎を見て、環さんは首根っこを掴む手を緩めた。
「環さん。私、言ってきますよ」
「な、何を」
「縮退稼働の提案です。エビ原さんも仕事ですからね、話くらいは聞いてくれるでしょう」
環さんは徐々に顔色を青くさせていった。
「おいやめとけ、もう決まったことだから──」
「じゃあ千崎、僕も蛯原を探すの手伝うよ」
「清麿?」
同期刀は今日も頼りになる味方だった。
「呪術対策課か捜査本部か、休憩所か喫煙所だと思うんで」
「じゃあ、僕は対策課を見てこようかな」
「ありがとう」
指折り数えて、千崎は三番目の指を立てた。
「私はこれにする」
清麿くんはそっと、私の指を折り畳んだ。
中指が指した先、休憩所へ向かった千崎は、運の良いことにちょうど目当ての人物その人を見つけた。しかし会話中のようだったので、さすがに一歩引いて様子を窺うことにする。
オールバックの頭と、丸みを帯びた頭が並んでいる。蛯原──もとい、エビは松籟さんと話しているようだった。
松籟さんは呪術対策課配下、特殊呪術捜査部隊の隊長である。まだ若いのに堂々としている先輩で、千崎も呪術に関しては一番に頼るようにしていた。少々口調が荒いのが玉に瑕だが、基本的には常識的で話のわかる人である。
そんな松籟さんが、エビに絡まれている。
「聞いたぜ松籟サン。最近隊室に篭もりっぱなしだってな。ヌシにでもなるつもりか?」
「別に、たまたま忙しかっただけだ。一段落ついたら元に戻る」
「それそろそろ耳タコだぜ。明らかに人員不足だろ」
「じゃあ人回してくれないすかね」
「回してるはずなんだがなあ。なんでかみんな辞めちまう」
エビは白々しく笑っている。
彼らが話しているのを見るのは初めてではない。彼らは決まってコーヒースタンドの前に並んで、辺りに近寄りがたい雰囲気を醸し出しているのだ。喧嘩なら河川敷でやれ──、というのは千崎の個人論ではあるけれど、共用スペースでフィールドを展開するのはやめてほしい。
「ま、元々亘サンが一人で回してたようなもんだし、それも仕方ねえか」
久しぶりに耳にした名前に、千崎は目を見張った。
三年前まで呪捜の隊長を務めていた『亘さん』には、いくつかの異名があった。鬼の隊長とか、絶対に呪われない男とか、サトリとか、まあ色々だ。とにかく凄い人だった。だからこそ、後を継いだ松籟さんに降ってきた重圧は相当のものだっただろう。
亘さんがいなくなったことでできたひずみは大きい。それは疑いようのない事実だった。
「誰もあの人の代わりなんざなれねえよ。自分の領分はちゃんと弁えねえと──」
エビは口を細く引き伸ばしていた。
「体壊すぜ」
言葉は相手を慮るもののはずなのに、笑いを堪えるような、おかしくてたまらないといった声色のちぐはぐさが、千崎の何かを急き立てる。エビが適当なことを抜かすのを、松籟さんが素っ気なく否定するのがいつもの流れなのだが、今日に限って松籟さんは何も言わない。様子を窺おうにもこちらからはエビの方を向く後頭部しか見えない。
一人や二人で亘さんほどの力になるわけはないのだと、出し惜しみをしないでもっと人寄越せと、そう言ってやればいいのに、どうして何も言い返さない。早くあの口を閉じさせないと、早く、早く、早く──。
「あーっエビ原さんいたー!」
気付いた時には、千崎は一歩踏み出していた。
さほど広くもない休憩室中に響き渡った声にゆっくりと、心底面倒そうに視線が寄越される。
「あぁ千崎か。どうしたでかい声出して」
「どうもこうも!どういうことですか、万屋街全閉鎖って!」
カツカツと踵を鳴らして距離を詰めればエビは肩を竦めた。
「その話か。万屋街の海に死体が上がって、その死体から海水でない液体が出た。不正ゲートが設置されたんじゃなきゃあ、奴さんどうやって死体を運んだってんだ?」
「そりゃあ、ゲートは作られてたかもしれませんが、だからって全国の万屋街を閉鎖しなくてもいいじゃないですか」
エビは鼻で笑った。
「有数のお偉い術師の張った自慢の結界が破られてんだ。本当はココだって封鎖したいくらいだぜ」
「犯人がどうやって内部に侵入したかは、まだ調査中です。結界の不備とは限りません」
「だから閉鎖するんだろ。原因がわからない以上、他の国の結界も信用はできねえ」
千崎はぐ、と唾を飲み込む。そう吐き捨てる彼の目は千崎を見てはいない。
「でも対策として現実的じゃないでしょう。全国閉鎖は、審神者の人だって困りますし、何ヶ国か残した方がいいです」
乾く唇を湿らせて、言葉を滑らせる。エビはほんの少しその口を閉じて、しかしすぐに返答した。
「物資の話か?直接支給してやりゃいいだろ」
「そんな簡単に言わないでくださいよ。全国に審神者がどれだけいると思ってるんですか」
「どうせゲートで転送するんだ。まあ、インフラ整備は多少骨が折れるだろうが、そのあたりはお宅らの頑張りどころだな」
「ひ、他人事ですか?」
「俺らの出張るとこでもねぇだろ?」
千崎は唖然とした。
取り付く島もなかった。エビは全閉鎖を取り下げる気は一ミリもなく、別案の検討すらしてくれないらしい。日頃から危険な呪術を扱っている課だから、被害が広がらないよう最短かつ最速の判断が染み付いているのだろうが、それにしたって聞く耳を持たなすぎる。言葉の節々も釈然としないし、外部の人間は全員コマだとでも思っているんじゃないか。
しかしどんなに腹立たしくても、エビの言うことにはエビなりの理屈がある。全閉鎖も、大変ではあるができない話ではないのだ。閉鎖予定の来週まで休日を含めあと四日、四日で閉鎖と配給の準備を終えるのは、おそらく不可能ではない。
それでも、全閉鎖だけは阻止したい。閉鎖のための休日出勤も、エビの思い通りも癪だ。ハリボテの城をどうにか落とせないか、どこかに綻びはないか。
「ま、ネズミが見つかりゃそれが一番丸いな。不備は結界じゃなく人事にあったって話になる」
片頬を吊り上げながら言うエビに、絶句した。
ネズミ。内通者、すなわち、裏切り者。内部の人間が、何人もの人を殺すような悪党に手を貸しているということだ。区整の職員は三十数名、全員の素性を知っているかと言われれば、答えはノー。そういう人間がいないとは言いきれないけれど。
エビの意地の悪い笑みは、まるで裏切り者がいることを望んでいるような、薄暗く陰鬱なものに見えた。
「エビ……原さんはどうなんですか。疑ってるんですか私のこと」
「いいや?君はそんなことするタマじゃないだろ」
「わかりませんよ。遠征金欲しさに闇バイト始めるかも」
「ああ、金で雇われたってんなら同情するぜ。その安月給じゃあな」
「……じゃあエビ原さん、私の昇給推薦してくださいよ」
「いいぜ、ネタは何がいい。グラスの露拭きが上手いとかか」
芹那嬢、と続けた口に、一瞬理解が遅れる。
直後、ざっと全身の毛が一斉に逆立った。
「──ああ、千崎さん気が利きますよねえ。よく部署跨ぎの飲み会開いてくれますし」
のんびりとした声が響いたのはその時だった。
千崎の裂けかけた口はそのままぽかんと落ち、すらりと背の高い男性に視線を奪われる。
その整った顔立ちには見覚えがある。そう、飲み会でエビの横に座っていた美男だ。
部署異動があった九月、顔合わせも兼ねて千崎は部署跨ぎの飲み会を企画していた。呪術対策課に転向したという赤毛の彼も、そこに参加していた一人だった。名前はたしか──多々楽。
席が離れていたためあまり会話はなかったが、ひょうきんで楽しそうな名前をした男だと思った記憶がある。
「次いつ開催なんです?」
多々楽は自然な動きで千崎の横に近付き、高い背を屈めてみせた。少し長い髪が顔の横に垂れる。
「えと……次はあれほど大人数じゃないんですけど……」
不意をつかれた頭は、要領を得ない言語を出力している。多々楽はぱちぱちと瞬きして、すくりと身を起こした。
「えっ、これ俺呼ばれてないやつですか?お呼びじゃないですか俺」
「いやっ、そういうわけじゃ」
慌てて訂正しようとすると、横から大きなため息が聞こえた。
「お前みたいなサボり魔はお呼びじゃねえってこった」
「ひでーや!蛯原さんだって呼ばれてないくせに!」
「サボりを否定しろ、馬鹿が」
興ざめだと言わんばかりに吐き捨てると、エビは一人休憩所出口へ向かう。その背を長い足が追った。
「あー待ってくださいよ。俺がサボり中にせしめてきた情報聞いてほしいんですよ」
「一本吸ったらな」
「一本じゃ済まないでしょ〜」
二人の声は段々と遠ざかっていった。
皆聞き耳を立てていたのか、静まり返っていた休憩室にぽつぽつ声が戻ってくる。落ち着いてくると、自分の心臓が速い鼓動を刻んでいたことに気付いた。ただでさえ定期健診で高血圧を指摘されているのだ。まったく、病弱な乙女をもっと労わってほしい。
一呼吸ついて、同じく無言だった同僚を見る。松籟さんは微かに眉を寄せて、なんというかバツの悪そうな顔をしていた。
「悪い」
「え」
悪そう、ではなくかなり悪いらしい。普段はしゃっきりとしている先輩職員のしおらしい姿に、千崎の脳裏に宇宙が広がる。一体何を謝っているのだろう。松籟さんがあの男に言い返さなかったことだろうか。まあ、多少やきもきしたのは事実だが、謝られるほどのことではない。
千崎は一瞬目を伏せてから、両腰に手を当てた。
「──そうですよ。私より松籟さんの方が口悪いでしょ。あんなやつ一発でのしてくださいよ」
「口悪いってなんだテメェ」
落ちていた眉尻が一瞬で跳ね上がったのが面白くて、口角が上がりかけるのを頬を吸って押さえ付ける。
と、ぴくりと松籟さんが顔を上げる。視線の先を追って振り返れば、先ほど局で別れた清麿くんと、もう一人顔見知りが休憩所に入ってきていた。
「あ、清麿くん……と膝丸さん?」
「うん。呪術対策課の前で会ってね」
すらりと黒い脚に凛々しい顔付きの刀剣男士、膝丸さん。清麿くんが隣で手を振っていて、やはり刀剣男士は並ぶと花があるなあ、と千崎は思った。
「少し話したくてな、探していたんだが」
膝丸さんはそう答えながら松籟さんの横に寄った。
「ここにいたのか」
「いちゃ悪ぃかよ」
「いいや。休息を取れたなら何よりだ」
「今邪魔されてたけどなあ」
松籟さんはいーっと子供のように歯を剥き出していた。
膝丸さんは、異物処理班の班員である。万屋街の遺体を最初に回収したのも、彼らだった気がする。おそらく捜査本部の一員なのだろう。
なんだか急に間の抜けた空気に、千崎は肩の力を抜いた。
「ん?何かあったのか」
「まあ、ちょっと。てかお前刀は」
「つい先程まで解剖室にいたからな。兄者に預けている」
「あー持ち込み禁止だったっけか」
「そうだな。で、何があった」
「……蛯原と万屋の話でモメてたんだよ。コイツが」
二人の顔が同時にこちらを向く。反射でキメ顔をしたら松籟さんの瞼が少し落ちた。
清磨くんが心做しか期待した様子で聞いてくる。
「蛯原に万屋街閉鎖のこと聞けた?」
「うん。聞けたんだけど……全然ダメ。撤回する気ないみたい」
「おや、そうか。残念だったね」
清麿くんの眉を下げた笑顔にささくれ立った心が凪いでいく。
「そこで彼とすれ違ってね、なんだか考え込んでいるみたいだったから、千崎の一押しが効いたのかと思ったんだけど」
「それは多分……」
あの多々楽という男性のおかげである。蛯原の部下に当たるであろう彼は、空気を読まない横槍で千崎の一矢を掻っ攫っていったのだ。獲物を奪われて拍子抜けなところはあるが、おかげで千崎は手を汚さずにすんだ。
多々楽さんは千崎のことを気が利くと言った。そう直球に褒められると背中がむず痒い。かつて生きていた界隈では、そんなものはできて当たり前のことだったから。
「隣にもう一人いなかった?赤い髪の毛の人」
「ああいたね。蛯原に話しかけ続けてたな」
「そうそう、その人が仲裁……でもないけど、エビ原さんを回収してったんだよね。多々楽さん、であってたっけ」
どこへともなく投げかければ、松籟さんが後頭部をがしがしかきながら答えた。
「ああ。アイツ、ああいうとこあるんだよな」
松籟さんはどこか苦々しい表情をしていた。その顔を膝丸さんが覗き込む。
「蛯原に何か言われたのか」
「あーうるさいうるさい。いつもの嫌味だよ。よっぽどヒマなんだろうぜ」
膝丸さんの肩を押しのけて、松籟さんはその場から足を剥がす。ついでに千崎たちにも散れ散れ、と手を振った。
「おい、まだ要件が済んでいない」
膝丸さんの声に松籟さんは一瞬だけ振り向いて、ちょい、と人差し指を動かした。着いてこいと言っているらしい。膝丸さんは、はあ、とため息をついてから、千崎たちを見据えた。
「では失礼する」
「はい、お疲れ様です」
びしりと敬礼を決めると、膝丸さんは小さく首肯で返した。
さくさくと歩いてすぐに松籟さんの横に並び、何事かを話しながら遠ざかっていく。
「忙しそうだね」
「うん。大丈夫かなあ」
どことなく覇気のない背中に、千崎は目を細めた。
意外と、小柄だなと思った。
千崎より松籟さんの方が目線が上だから普段は気にも止めないが、刀剣男士と並ぶと彼の肩幅は狭く、体の厚みも薄い。比較対象が完成されすぎているとはいえ、なんだかやけにちんまりして見えた。
昔、似たような光景を目にした気がする。松籟さんを挟んで左右に、体躯のいい男と背筋の伸びた男性が並んでいる。三つの頭は真ん中が綺麗に凹んでいて、松籟さんの背が一番低いんだなあ、と呑気に後ろ姿を見送って。
千崎は自然と苦笑していた。あれはもう、見られない光景になってしまったらしい。
「人員が少ないからね。呪捜も、異物処理班も」
「あれ、処理班もそうなの?」
「昔はもっといたらしいんだけどね。班長の芥さんが優秀すぎて、班員を削られたんだって」
「ウソでしょ?バカなの?アホなの?」
「皮肉なことに、それでも彼らは折れないんだよ」
「それはそうなんだけどさあ……折れてからじゃ遅いじゃん」
千崎が口を尖らせれば、隣からそうだね、と返事があった。その声が少し沈んでいるように聞こえて、千崎は思わず横を見た。
「じゃあ、僕らがちゃんと見ていないとね」
清麿くんは千崎側に少し首を傾けて、片目をぱちりと瞬く。目尻から小さな星の砂が砕けて消えた。
「……、……清麿くん、それは……」
「ん?」
「かなり、あざとい」
清麿くんは、あははと笑っていた。