水死体の夢 3

12,089文字

少し傷んだニスの黒光りするカウンター。木目の割れ目を爪で引っ掻けば、こりこりと微かに音がする。片手で頬杖をつきながら微睡んでいると、正面から調子の良い声が降ってきた。
「やあやあ旦那さま、お待ちどうでございまする」
顔を上げると砂色の毛並みの小動物がそこにはいた。松籟は足の長い椅子に座り直し、湯気の上る椀を引き寄せる。
「ドーモ。いただきます」
ぱちんと手を合わせて箸を割る。黄金色のスープをかき混ぜるとまろやかないい匂いが漂ってきた。
「よく昼からそれを食えるな」
「はぁ?いつとか関係ねえし」
「そうか。よかったな」
隣に座る膝丸は、松籟が啜る味噌カレー牛乳ラーメンを細い目で見つめた。完全にゲテモノを見る目だが、これが中々に美味い。それぞれ主張する味噌とカレーを、牛乳が抑えて絶妙に繋いでいるのだ。
「膝丸はそれ好きな」
「ここの煮干ラーメンは格別だ」
先に食べ始めていた膝丸は玄人顔で頷いている。どれ、と鼻を寄せればふわりと香ばしい香りが鼻をくすぐった。
「そう言っていただけると、作り甲斐があるというもの。でしょう鳴狐」
小さい狐は大きなしっぽを振りながら、椀を運んできた黒いマスクの店主を見上げた。
「…………」
店主、鳴狐はほんの少しだけ目の端を緩めて息を零す。相変わらず感情表現は控えめだった。

政府でちょっとした諍いがあった後のこと。松籟は膝丸と遅めの昼食を取りに万屋街へ出向いていた。
陸奥国第一万屋街の表通りに構えられた、狐の声が高らかに響く店。一風変わった麺類はがっつり胃に物を入れたい時に最適で、仕事上がりにはよく世話になる。
今はちょうど昼の客が捌けた時間帯のようで、店内には鳴狐と供の狐、膝丸と松籟しかいない。いつもの賑わいも好きだが、ほぼ貸し切り状態の今も気兼ねがなくてよかった。
「それで松籟、例の件だが」
煮干スープをレンゲで掬いながら言う膝丸に、松籟は眉間に皺を刻んだ。
「あとじゃだめか」
「悪いな、あと三十分後に報告会がある」
「えぇ……。メシが不味くならない程度に頼む」
「残念ながら保証はできん」
松籟は器を持ち上げて、スープを三口ほど飲む。器を下ろすと、カウンター裏を拭いている鳴狐と目が合った。
「……」
彼は、す、と指を揃えた手のひらを差し出した。もう片手でお供の顎をついと撫でると、くるりと踵を返して店の奥に引っ込んでいく。
「ああっ鳴狐、鳴狐〜?わたくしを置いていかないで〜」
お供はすとんと細い板──おそらく彼専用の通路──、に下り、主の背中を追いかける。そして暖簾の向こうに消える直前、はたとミーアキャットのように二本足で立ち上がった。
「ではでは、ごゆるりと」
無口な主人を代弁して頭を下げ、気を取り直して四足で去っていく。
やがて奥から陶器のぶつかり合う音が聞こえてくる。どうやら気を利かせてくれたらしい。松籟は瞑目した。膝丸もまた小さく呟く。
「……いつも頭が上がらないな」
間違いない、と頷きつつ、先を促す。
「おうよ。で?なんか進捗あったんか」
「ああ。まずはお前にひとつ、話しておこうと思って」
「ふーん……ま、いいけど」
どん、と肘をついて体を膝丸の方へ向ける。顎の先をラーメンの湯気が撫でた。
「全体的に損傷の激しい死体だがな、何度も修復されたような痕がある」
膝丸は一息に言って、ずず、とちぢれ麺を啜った。その横顔は何かを睨みつけているように険しい。
「いわゆる古傷のようなものだが、ただの傷にしては数が多く、範囲も広い。散った腕や裂けた胴に、内臓と皮膚を補修したような、不自然な継ぎ目があるんだ」
松籟はたまらず水を飲んだ。構えていたとはいえ、ど真ん中で食欲をなくす話だとは思わなかった。
傷がいくつもあるということは、傷が何度も付いたということだ。その理由を直ちに弾き出す頭に、追い打ちをかけるように低い声が滑り込んできた。
「何度も開いては閉じて、何かを待っていた。あるいは試していた」
膝丸はそこで、言葉を切った。
「──と、芥が言っていたのでな。お前にも味わってもらおうと」
「おすそ分けじゃねーんだよ!てかアイツか!」
急に怪談を始めるんじゃない。
があ、と歯茎を剥き出しにすれば、膝丸は肩を竦めて答えた。
「ああ。先ほど解剖室にいたんだが。腹の開いた死体をやけに観察していたかと思えば、突然そんなことを言い出した」
「ええ〜……」
本当に突然である。死因のみならず、あれほどボロボロになった体から、生前の情報まで出てくるとは。ただでさえ惨い死に方をしているのに、生きている間も同様の苦しみを味わっていたというのか。そうだとしたら、あまりにも。
「……拷問じゃねーか」
「そうだな。それも実験的な側面が強いように思う」
あっさりと返ってきた声に、松籟は天を仰いだ。
「……ハァ〜、何のための人権だよ」
「奴らにとっては些末なことなのだろう」
今時、人体実験だなんて馬鹿げている。科学の発展だとか、防衛兵器の開発だとか、最もらしい理由を並べたところで、倫理が覆るわけじゃない。人はその一線を越えてはいけないのだ。
ヒトを対象とする医学研究の倫理的原則は、とっくの昔に宣言されている。被験者の健康と安全を保証する、最低限の保証。かつて一線を越えた者たちが起こした混沌と破滅を、二度と繰り返さないためのもの。
「あーヤダヤダ。お国のためにとか、そんなん誰も求めてねえっつうのによ」
「案外個人的興味かもしれないぞ。ほら、センターにも熱心な奴らがいるだろう」
「そういう?まあ、変態はどこにでもいるか……」
数名の政府職員の顔を思い浮かべて、松籟は遠くを見つめた。
例えば、時空を繋ぐ転移ゲートや、本丸や万屋街などの仮想空間システム。次元を超えた科学技術は、のちの政府組織の設立者となる研究者らによって開発された。そして今も、政府研究開発センターという研究施設で、特殊兵器から結界術式まで、日々何かしらの研究開発が行われている。
松籟の脳裏に浮かぶのは、銃器に並々ならぬ拘りのある男だった。厳密には彼は研究者ではなく、製造を担当する技術者なのだが。ひとたび製造にかかると、こちらの話を全く聞かないその男に、何度生存確認のチャットを投げては未読無視されたことか。
彼らに共通するのは、自身の興味のあることに対して一直線すぎるということだ。
昨今どのような研究がなされているのか松籟の知るところではないが、自分が踏みしめているあれやそれが、血に塗れた地盤ではないと思いたい。
つぅ、と松籟はラーメンの器の縁を人差し指でなぞった。
「のびるぞ」
「……」
言われて啜った麺は、ちょうどいい熱さだった。味は変わるはずもなく美味い。啜れば啜るほど甘辛い匂いが食欲を刺激する。
「しかし良かった。お前を見ていると安心する」
不意に、軽い調子の声が聞こえた。松籟はゆっくりと首を持ち上げてそちらを見る。
「なんで」
「人間の手本のような反応をするからな」
「なあ、バカにしてるよな」
「してないさ。実際手本にさせてもらっている」
「そんなんしなくても、もう十分人に寄ってるよ」
冗談混じりのからかいを受けながら、松籟はメンマを奥歯で噛み潰した。
「芥はそのあたり鈍いんだ。長く共にいると忘れてしまいそうになる」
膝丸はうわ言のように呟いていた。
鈍い、という感想を麺と一緒に飲み込む。膝丸の言う通りだと思う。芥は人の情緒にとんと興味がないように見える。それに加えて、色々と適当だ。
「あの人、なんか言ってた?感想とか」
「事実と予想をいくつか。おそらく『同化性の高い人間を被検体とした霊術的実験』が行われているだろう、と」
膝丸は腕を組みながら告げた。
肉体の共通点が発覚してから、犯人が同化性の高さに何を見出しているのか、その理由を考えていた。
例えば、『呪われやすい人間』という記号で見たなら、どこかの思想犯が『処分』あるいは『救い』と称して殺しを行うことはあるかもしれない。他にも、『術を馴染ませやすい試料』とラベルを貼ったならば、イカれた科学者が文字通り人間を使ったと考えることもできる。後者はさすがに突飛すぎるか、と頭の隅に追いやっていたのだが、本当にやる奴がいるとは。
「てかどこのマッドだよ。そんなマニアックな実験してんの」
「区域内部なのは間違いないだろうな。正直、政府も潔白とは言い切れない。情報漏洩だけならまだしも、裏で手を引いてる可能性もある」
「あーあ……言うなよそれを……」
昨今の科学者の筆頭がどこなのかというと、それはやはり時の政府だろう。二十三世紀に科学技術のブレイクスルーを起こしてから、外の研究とは一線を画している。
時の政府指定区域の外、すなわち一般区域では、霊エネルギーを扱えない。東京大学を始めとする各地の大学や、全国に研究施設を持つ理化学研究所、どこも科学や産業の発展に貢献する研究を行っているが、霊エネルギーに関する研究への立ち入りは時の政府から堅く禁じられていた。
同化性なんて指標、霊エネルギーを扱わなければ知ることもない。そこから導き出される答えは、犯人は政府指定区域の研究員、少なくとも関係者であるということ。
──もし。もしも、政府ぐるみの研究というならば、その全容は計り知れない。
割り箸をスープの中で泳がせていると、視線が頬を刺していることに気付く。
「だからこうしてお前に話している。対策課もあまり信用ならないからな」
「いちおー呪捜も対策課の下だけども……、蛯原の様子は?」
そう聞くと、ああ、と膝丸は何か思い出したように頷いた。金色の瞳が意味ありげに細められる。
「面白くなさそうだった」
「はい?」
予想外の返答に、松籟は目を瞬かせる。
「同化については、お前がくれた情報だったろう」
「あぁ……、調べたのは春鳴だけどな。ほら一緒にいただろ、メガネで、隊服かっちり着てる奴」
「ああ、彼か。優秀な部下がいるようで何よりだ」
「まあな」
松籟は片頬を上げて、ふん、と鼻を鳴らす。
「昼に対策課から、同化性の高い職員に勧告が出ただろう。あれは捜査本部の指令を受けて蛯原が発行したものでな。呪捜の手柄で動かされるのが癪、という顔をしていたぞ」
昼、といえば、現状の調査結果を元に、捜査本部から暫定対策情報が発信された時間帯である。相模国第二万屋街に続き、週明けから全万屋街を閉鎖すること。そして、同化性の高い職員への外出自粛令。松籟と春鳴が芥に情報を連携したのは昨日の夕方だったので、そこから今日にかけて精査が行われたのだろう。蛯原も駆り出されていたであろうことは、想像に難くない。
松籟は、口元を緩めた。
「膝丸ぅ、アイツのこと嫌い?」
「……何だその顔は」
「別にぃ」
大口を開けて麺を大量に吸い込む。口一杯の麺を咀嚼していると、小さく返答があった。
「……いけ好かないな」
「そ。俺も」
「お前もなんじゃないか」
「はは、拗ねんなって」
「拗ね……てはいないが」
若干困惑している様子の声色に、松籟は喉の奥でくつくつ笑う。
呪捜が呪術対策課に白い目で見られているのは、今に始まった話ではない。中でも蛯原は呪捜の存続に不満があるようで、ことある毎に嫌味を垂れてくる。腹立たしいことこの上ないが、それほど邪険にされる理由には心当たりがあった。
同じ呪術対策課とはいえ、呪捜は特殊な立ち位置を取っている。それは呪捜の成り立ちに関係していた。
そもそも呪捜は、亘顕吾という男のために作られた小隊だった。

かつて呪捜の隊長であり、松籟の上司であった男、亘。彼には特異な体質があった。
霊力というのは通常、血液を介して宿主の全身を巡っている。その霊力を使って、審神者などの術師は霊術を外界に出力している。
しかし亘の場合、霊力は体を巡らずにある場所に留まっていた。その場所は『眼球』。なんでも眼球に多量の霊力があり、それを結界のような膜が覆っていたのだとか。
特殊な霊力を持った瞳は、霊的エネルギーの流れを『色』で感知することができた。また、一箇所に集約されている反動なのか、身体は全く霊力と馴染まず、それゆえ穢れの侵食の影響を受けることもなかった。
要は、呪いに侵されない体だったのだ。その上、その目は呪力の残滓を見逃さない。呪物の調査にこれほど適した体質もなかった。
全ては亘の能力を生かすため──、呪捜はそういうコンセプトの下、亘を隊長に据えて構成された。

そんなわけで、亘は政府にとって貴重な財産だったので、随分甘やかされていたらしい。大抵のことは亘の思うがままだったという。
今思うと、呪捜は目の上のたんこぶ扱いされていたのだと思う。ただ、表立った嫌がらせをするには、亘は強すぎた。彼は横暴ではあるが、指揮官として揺るがない物があったのだ。亘は出た杭であり、道標でもあった。迷いのない足取りは、その背を追いたくさせた。
それが今、亘という抑止力を失って、呪捜の扱いは──、まあ、なんというか、地に落ちている。
業務内容にさほど変わりはない。せいぜい回ってくる書類仕事が増えたくらいだ。
そう、変わっていない。大部分を取り仕切っていた隊長が何の引継ぎもなく消えたというのに、残された隊員で成果の維持を求められている。おかしな話だ。他所から人を寄越されたところで、仕事の仕方も内容も違うのだから、即戦力になるわけはない。
対策課は、呪捜が根を上げるのを待っている。はやる心を抑えて、獲物が弱るのをじっと待っている。
そうしてこちらが白旗を上げれば最後、哀れな小隊を解体してやろうと喜び勇んで手を差し伸べてくるのだ。
「中々いねえよ。俺らの肩持つ奴」
松籟が隣の二の腕を小突くと、膝丸は呆けた顔を晒した。
「そんなことはないだろう」
「あるんだなこれが」
喉に絡むスープの油分を飲み下してから、続ける。
「”かなめ”がいなくなったから」
「……亘か」
松籟は頷いた。
「もう用済みってカンジの奴が多い。ほらあれだよ、チャーシューのないラーメン」
スープに浮いているチャーシューをつまんで、目の高さまで持ち上げてみせる。膝丸が目で追ったのを確認して、自分の口に取り込んだ。
「……主役という意味なら麺ではないか?」
「じゃあ大根のないおでん」
「お前が大根を好きだということはわかった」
おでんは大根だろう。大根の入ってないおでんなんて、ただの野菜煮込み汁だ。
「他には何が入っているんだ」
「えぇ」
亘が大根だとして、他メンバーは何の具なのか、という話か。
松籟の頭に、二人の青年の顔が浮かび上がる。
一人目。全身真っ黒な衣に身を包んだ刀、水心子。重厚な黒一色の中で、翡翠色の瞳が爛々と輝いている。新々刀の祖として毅然と振舞っていて、取っ付きにくくも見えるが、話してみると所々抜けていたり、古刀を前にすると興奮したりと、中身は案外少年のようなところがある。例えるなら──、
「…………卵」
「ほお」
二人目。隊服のジッパーを全て上げている男、春鳴。真面目で優秀。なのだが、少し力みすぎなようにも見える。本分は大学生というから、遊び盛り──もとい、学業優先だと思うのだが、プライベートの話は一切聞けていない。仕事はソツなく、時々ツレない。エッジの効いたシャープな男。
「……しらたき?」
膝丸は、ふむ、と顎に手を当てて想像している。
割といい線いっているのではないだろうか。松籟は一人頷いた。
「お前は?」
「俺ぇ……?」
上げた具材が松籟ではないことはバレているらしい。膝丸はそう問いかけてきた。
数秒考えて、ぽつりと落とす。
「さつま揚げが欲しい」
「いや、欲しいという話ではなく、……まあいいか。似合っているぞ」
「俺揚げなの?」
「ああ」
「あ、そ……」
投げやりな肯定に、松籟は頬をかいた。
その時、てろん、と耳馴染みのある音が響く。
音の元、膝丸の腕を覗けば、会議15分前のアラームが流れてきていた。
「む」
「そういや会議だったか。どうすんだ?全部言うのか?」
「いや。遺体に傷跡があることは伏せる。実験の話はなるべくしたくないからな」
「お?しっかり疑ってますと」
「一つの可能性としてな。気取られる前に、政府が行っている研究について少し調べたい」
言いながら、膝丸の目はこちらを向いていた。
「まかせい」
「頼もしいな」
膝丸が残りの麺を口に運ぶ。松籟もそれに倣って一気に吸い上げた。
「店長、お勘定を」
「はいはい、わたくしが参ります!」
お供の狐がとてとてと四本足で駆けてくる。その首に下げられた薄い電子板に、膝丸は手首の端末をかざし支払いを済ませる。その間に松籟は味噌カレー牛乳スープを五口飲んで、手を合わせた。
「ごっそさん!」
すくりと立ち上がって松籟も腕を上げる。狐は笑顔で首を振った。
「もういただきました」
「は!?ア、アイツ」
ぐるりと首を回して、さっさと先に行ってしまった男を追いかける。暖簾の向こうから狐の見送る声が背中を押した。
うっすら黄色の差してきた空の下、松籟は声を張り上げる。
「オイ!何だそのカッコつけは!」
『みそカレー牛乳』とポップ体の踊るのぼりの横で、膝丸は携帯端末を操作していた。
「何の話だ」
「すっとぼけんじゃねえ。俺の分まで払いやがって」
「ああ、代金か。こうでもしないと使い道がなくてな」
「…………」
松籟は膝丸を指さした状態で固まる。
なんだか、はいそうですかと流してはいけない文言が聞こえた気がした。
「最近気付いたのだが、金というのは使わなければ溜まっていく一方だな」
「……はい……?」
「とはいえだ。使わずじまいで政府に回収されるのも癪だろう。だからこうすることにした」
こう、と示されている先は松籟である。松籟は、呻きながら首を上下左右に捻った末、問いかけた。
「……お前、メシ食ってんのか?」
「ああ。たまに」
「前、食ったのは」
「……たしか蕎麦だが……例の死体たちを回収した後、芥に着いていって……」
松籟は叫んだ。
「──よし、わかった。すべてわかった」
「さっきから慌ただしいな」
「次の休日いつだ」
「休日?……まずこの事案が一段落しないことには」
「よし、とっとと解決しよう。そして俺に付き合え」
「別に構わないが、何をするんだ」
松籟は懐から、正方形のポーチ──、財布を取り出した。
「金の使い方を教えてやる」
膝丸はその切れ長の目を丸くして、財布を指さした。
「この時代の金貨か、それは」
「は?」
「現存していたんだな……」
「しとるわ!!まだ区域外じゃ現役だよ!!」
「ほう」
松籟は財布を縦に開き、ぶら下がった小銭入れ部分をばしばし叩いた。膝丸は腰をかがめて訝しげに覗いている。
「現金の方がな、使ってる感があるんだよ。電子はただの数字の羅列だろ。数字が減ってもいまいち実感が湧かない。だから……」
「から?」
「使いすぎる」
キャッシュレスは危険だ。
「見てもいいか」
「ほらよ」
物珍しげにしている膝丸に財布を差し出してみせる。ぱちん、と小銭入れの留め具を外すと、思いの外勢いよく開く。
「あ」
金色の大玉が地面を転がっていった。
「あれは何円だ」
「小銭の中で一番強い」
万屋街のアスファルトを走る五百円玉を、松籟は歩いて追いかける。五百円玉は緩くアーチを描く橋に差し掛かり、坂の勾配に負けてくるりと進路を変えた。
「あーっ」
ぽちゃん、と水跳ね音が聞こえた。
欄干の隙間から、下を流れる川に落ちてしまったらしい。松籟は慌てて橋から身を乗り出す。
景観で造られた川なので、川幅は小さく流れも穏やかだ。けれど底が見えるほど浅くはない。水面は陽の光を受けて、白い鱗模様を浮かび上がらせていた。
ありゃダメだな。
名残惜しいが仕方ない。よりによって五百円玉だったのが切ないが、水浸しになって拾いに行くほどではない。
戻ろう──と、もたれかかっていた欄干から、身を起こそうとした瞬間だった。
ぐにゃり。
「え」
視界が歪んだ。
違う、歪んだのは、手にしているもの。
欄干。その灰色の円柱が、まるで粘土のようにひん曲がっている。
ぶつりと、棒がちぎれる。
体は支えを失い、重力に従って倒れていく。
黒い鱗が視界一面に広がって、
消えた。

地鳴りのような音が聞こえる。
目を開くと、そこは真っ暗闇だった。
開いた口から、ごぽりと泡が零れる。鼻に水が流れ込んで、一気に意識が覚醒した。
腕をかく。抵抗があった。川に落ちたらしい。
定まらない視界で目をこらすと、底の方に黒々とした靄がある。それは何か大きな口のように、底なしの闇を湛えている。
腕をかいて浮上しようとするが、上手く動けない。黒い靄は渦を撒いていて、ゆっくりと、だが確実に、こちらを引き寄せている。
もがけばもがくほど沈んでいく。
時間がない。
やるべきこと。
何か。

誰か、

誰かが呼んでいる。
知っている声だ。
その名前は、人にもらった。



「──職員名?」
「ああ。あった方がいい」
よく通る低い声は、はっきりとそう言い切った。
「ンなこと急に言われましても……亘サンと、えーと、栂サン、本名じゃないんですか?」
「俺らは真名使ってるな。栂に関してはあいつ、本業エンジニアだし、こっちでも後方支援だから。俺は必要ないから使わない」
「必要ないって……」
「字名はな、真名を隠すために使う」
「それはわかりますけど」
「何のために隠すと思う」
白髪を短く刈り上げ、深緑の隊服に身を包んでいる男は、重厚な椅子を回してこちらを見た。
「……身を守る、ためすか」
「そうだ。お前を連れてきた審神者も、字名を使ってるだろ」
「……」
「審神者は大半が字名だ。真名を知られると、付喪神に隠される可能性があるからな」
「え?」
「神隠しって、聞いたことくらいはあるだろ」
「はぁ……、でも刀剣男士って、審神者が管理してんですよね?」
「管理する者が、管理されるものより力が強いとは限らない。所詮人は人の域を越えられないんだよ。従えることで、まるで自分の力のように錯覚することはあるかもしれないが」
「え?じゃあ、刀剣のストライキとか、下克上とか起こったらどうするんすか?」
「強制顕現解除はできる。が、よほど面の皮が厚くない限りは、その審神者は二度とそいつらを顕現できんだろうな。まあ、滅多にはない。どうも付喪神っていうのは、使ってもらう主に肩入れするものらしい」
「へぇ〜……難儀なこって」
分厚い椅子の背もたれが、ぎしりと音を立てた。
「で、どうするんだ」
「……名前とか、二つあったら混乱しそー」
「お前はあった方がいいぞ」
「なんでですか」
薄い唇が言葉を紡ぐ。
「お前はかなり、”喰いやすい”」
「わかる言葉で言ってください」
「呪いにかかりやすいってことだ。つか、だからあいつに連れて来られたんだろうが。忘れたのか」
「食うとか食わないじゃわかんねーよ!」
「そうか。じゃあ覚えろ。ここで働くなら必要な知識だ」
「へいへい、ギョーカイヨーゴね。えー名前か……。適当に一文字とって『松』じゃダメすか」
「……」
男の口が、『へ』の形に開いた。
「なんすかその顔」
「照れてんのか?」
「……ハァ!?」
「変に意地張ると、後で後悔するぞ」
「別に張ってねぇすから!」
「もうちょい贅沢にいけよ。単語にするにももうちょい差別化のできる……」
「んだぁあ!なんでもいいでしょ偽名なんて!文句言うならアンタが決めてくださいよ!」
「……」
四角い眼鏡の奥から、翡翠色の双眸がこちらを射抜く。
「言ったな?」
「は?」
「よし。今日からお前の名は──」



「──松籟!」
はっ、と目を見開く。
水面を揺らす、くぐもった声。
右手を腰の後ろに回し、ベルトに収められている拳銃を引き抜く。水流を払い除け、腕を天に伸ばした。
どん、と鈍い衝撃。
反動で体がわずかに沈む。重く纏わりつく上着は水底に脱ぎ捨てた。
不意に飛沫が上がって、水がかき混ぜられる。泡の向こうに黒い指先が現れたのを見て、左手を伸ばした。
ぐん、と強い力で引き寄せられる。
次の瞬間、ざぱんと、水面が弾けた。
激しく咳き込む。口から液体が溢れた。
代わりに舞い込んでくる空気を必死に取り込んで、目の前の白い腕にしがみつく。
「おい、まだ保て」
無情にも振りほどかれた片腕は、代わりに腰に回され、軽々と抱え上げられる。
凛とした声に少し平静さを取り戻す。体はまだゆらゆらと浮いていて、荒れた水面に背中を打たれている。周りを見渡せば岸は遠く、代わりに橋の支柱が迫ってきていた。
「落ちるなよ」
腰の腕に力が入り、反射的に男の首へ抱きついた。
かん、と高い音がしたかと思えば、視界が宙を舞う。青い天井が目を焼いた。
ぐるりと回転する感覚があって、直後、硬いものに叩き付けられる。
陸だ。
「げほっ!げほげほ、かはっ、うぇっ?」
ずるりと、地面が動く。
地面と思っていたものは、人の肉体だった。いくらか衝撃を和らげてくれたらしい。その上半身が持ち上がり、松籟は転げ落ちる。
「げほ、は、は……」
蹲って息を整えていると、背中に下りる手があった。
首を捻り上を窺うと、金色が見えた。
「何を、しているんだ」
「ごめん……」
口から水と共に謝罪を零すと、膝丸は気が抜けたようにため息をついた。
「驚いたぞ。少し目を離した隙に忽然と消えたのだからな」
咳き込む背中を叩かれ、水を数回に分けて吐き出す。作り物の水は、つんとしたカルキ臭がした。吐き出す際に鼻が痛んで、目頭に涙が滲む。
ぼやける視界で、数刻前の記憶を辿った。
「……、どこまで見てた?」
「だから、お前が硬貨を拾いに、河川の方へ向かって……、それを追いかけたんだ。姿が見えないから、何度か呼んでみたが反応はないし、そうしたら川から銃声が聞こえて……」
言いながら、歯に物が挟まったような顔をした膝丸は、松籟に問いただした。
「松籟お前、どこから落ちた」
松籟は顔を腕で拭って、ぽつぽつと答えた。
「橋から……手すりが壊れて……いや、”ねじ切れて”、そのまま」
聞くや否や、膝丸はすたすたと浅い堤防を登っていった。数秒後、そう遠くない場所で呟く声が聞こえる。
「……どこも壊れていないようだが」
「え?」
顔を上げれば、膝丸は橋の手前に立って目を細めていた。
そんなはずはない。あのパン生地みたいな棒の感触がまだ手に残っている。
立ち上がろうとする松籟の手を、膝丸が引いた。左手を肩に持っていかれ、支えられながら歩く形になる。
「……は……?」
五メートルほどの短い橋。緩いアーチを欄干が隙間なく縁取っている。どこも壊れている様子はない。
痕跡は、綺麗さっぱり消えていた。
「おかしい」
「行くか?」
「いや」
松籟は膝丸の肩から腕を下ろし、握り締めていた拳銃を再び構えた。
引き金を引く。排出口から銀色の薬莢が落ちる。
弾は真っ直ぐに欄干へと向かい、灰色に吸い込まれて消えた。
「なっ、……消えたぞ」
「やっぱりか」
拳銃を腰の裏に収めながら、松籟は眉間に皺を刻んだ。
「あの一帯、”隠されてる”。何かの術……幻術、認識阻害の類いだろうが」
「なるほどな。だから記憶が曖昧だったのか……。しかし、一体何のために」
あんな機構、正規の設計ではありえない。仮想空間システムは、政府が安全規定に沿って構築している。つまり、誰かが何か不都合なことを隠すために、システムの上に術式を描いた可能性が高い。
ふと、川底で見た景色が脳裏を過ぎる。落ちた人間を引き寄せるように巻いていた黒い渦。
「川の底に、ゲートがあった」
そう、あれはゲートだった。離れた空間同士を繋ぐ、時空転移装置。
「不正ゲートか」
「ああ」
頷いて、松籟は手をぱちんと合わせた。離した手のひらから染み出した”膜”を、ふわりと宙に放る。
橋を中心に霊力による結界を張って、簡単な幻術を流し込む。黄色と黒のマーブル模様がドーム状の結界に浮かんだ。
「──異物処理班から捜査本部」
一歩後ろで膝丸が通話をしていた。
「陸奥国第一万屋街に霊力異常帯を検知。幻術、あるいは認識阻害の術の可能性あり。術式内に不正ゲートが隠されている模様。応援派遣願いたい。どうぞ」
『捜査本部了解。幻術課に協力を要請する。先行して捜査本部から呪術対策課を派遣。アー、相模国死体浮上事件との関連も見て、事案の解明にあたれ』
通話の向こう側から、芥の声と共にガタガタと椅子の触れ合う音がした。そういえば捜査本部で会議があるのではなかったか。膝丸をナチュラルにすっぽかせてしまったが、この場合お咎めはなしでいいのだろうか。
膝丸は端末を切った。やれやれと首を振る。
「青空会議になりそうだ」
「はは、もうすぐ赤だぜ」
「まったくだ。雨が降らないことだけが救いだな」
「もうずぶぬれだけどな」
「ああ。そうだな。早く湯を浴びて洗濯してこい」
ぽん、と肩を叩かれる。
一瞬の間ののち、松籟は牙を剥いた。
「……はあ!?俺ものこ──ヘブシッ!」
「ほら、自分の体をよく見ろ」
思い出したようにくしゃみが上がってきた。鼻をすすりながら、視線を落とす。
重たくなったメッシュ生地のスニーカー、ひんやりしている隊服のジャージ、体にべったりと貼り付いているTシャツ。
全身濡れ狸だった。
「ほら、後はやっておくから」
「おめーだってビショビショじゃんかよ」
「本体は濡れていないし、俺たちに低体温症は起こらない」
膝丸は諭すように言って、松籟のTシャツを絞った。挙句、地面に打ち捨てたであろう自身の黒いジャケットを拾い、土を払って松籟の肩に被せた。
「いらん」
「心配せずとも、霊力が尽きればそのうち消える」
松籟は渋面を作る。膝丸は引かないようだった。
「忘れ物は」
「えー……」
のろのろと、全身の確認をする。防水の携帯端末、腕の小型端末に、首から下げていた社員証は無事だった。ジャージの左のポケットに入っていたのど飴は死んでいそうだ。
水中で脱ぎ捨てた上着は隊服として特注したもので、ゆったりとしたシルエットと大きなポケットが機能的な良デザインだったのだが、川の藻屑になってしまった。そのポケットの中身も諸共行ってしまったということになる。まあ、せいぜいハンカチ、手袋、ボールペン……大したものは入れていなかったので──、
「あ?」
自分の頭を疑う。
そんなまさか。
いや、でも、いつもそこにしか入れない。
「どうした。傷でもあるのか」
急に、体温が数度下がった気がした。
「……財布、失くした……」

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