水死体の夢 4
11,113文字
「わははははは!!!!」
男はバシバシと机を叩きながら笑い転げていた。
「松籟さん、ダメですよ、大事なものひとつ所にまとめちゃあ」
「まとめるだろ」
「こういうことになりますよぉ〜ヒハハハハ!!」
好き勝手に笑い転げている男の名は多々楽。その名の通り、この世の全ての気楽さを集めてラッピングしたような男である。
定時も過ぎ、日が落ちきった頃。政府に戻った松籟は、着替えを調達しようと呪捜の隊室を訪れていた。
政府入口近くにあるクリーンゲートで衣服の水分は粗方飛ばせたものの、あれは体を洗浄するわけではない。一刻も早くシャワーを浴びたくて、隊室まで足を急がせていた。
そうして隊室のカードリーダーに社員証をかざしたところ、間の悪いことに一振と一人に出迎えられる羽目になる。
──万屋街の橋の上から川に落ちた。会議用机に座る水心子と多々楽に端的に伝えると、水心子は冷や汗をかき、多々楽は笑い転げた。羽織っていた見慣れない上着の訳を水心子に聞かれたので、自分の上着その他を失くしたため膝丸に被せられたことを白状すれば、多々楽が椅子から転げ落ちた。
一度火がつくと中々収まらないようで、松籟が仮眠室から着替えを引っ張り出す間も笑い声は響き続けていた。着いてきた水心子が差し出すタオルを受け取って、隊室に戻り今に至る。
生乾きの頭をかきながら松籟はぼそぼそと呟いた。
「んだよ。一々取り出すのメンドイし、ぜってぇまとめといた方がいいし……」
「ま、一長一短っすね。ドンマイ隊長」
「お前に呼ばれる筋合いはねえ」
声にドスを利かせて睨め付ければ、多々楽はエェ〜!と大袈裟に抗議の声を上げる。
「しかし隊長……本当に大丈夫なのかそれは」
正規隊員である水心子が頬に汗を浮かべて尋ねてきた。耐えきれず小さく溜め息をついてから、松籟が答える。
「大丈夫、ではない」
「やはりそうだよな!?その名を証明するものがひとつもなくなってしまったというわけで」
「いや、一応社員証だけはあるんだけど」
「あ、そうなのか」
「まあ社員証で身分は証明できないよねぇ〜」
ひとまず、といった風に水心子は胸を撫で下ろす。多々楽がまともなことを言って、好き勝手に広げたであろう個別包装菓子の封を口で切った。今すぐこの男をドラム式洗濯機にぶち込んでやりたい。
状況の弁明──というより情報の共有が必要かとも思ったが、なんだかどっと疲れてしまったので、まあ後でいいか、と全てを諦めて廊下へ出てしまうことにする。
「やっぱり疲れが溜まってるんじゃないですか?川に落ちるなんて」
なぜ、着いてくるのか。
「おい多々楽、隊長に付き纏うな」
「水心子くんも気になるでしょ?隊長のポカ」
「ぽ……いや、私はただ隊長の身を案じてだな」
背後で電子扉が閉まる。さくさくと歩く松籟の後ろを、多々楽と水心子が並んで追ってきていた。
どうやら、詳細を話さないと解放してくれないらしい。
「……橋に術がかかってたんだよ。疲れとかの問題じゃねえわ」
「なに?どんな術だ」
「幻術だと思う。橋の手すりがうどんみたいにうねりやがった」
「うどん」
「それでうどんに捕まって川に落とされたと?」
「ちぎれたんだよ」
「へー」
松籟は前を向いたまま、棒を左右に引っ張る動きをして見せる。
「万屋街に幻術がかけられていたということか?にわかには信じがたいが……」
「そう、並の術師じゃまず無理だし、実際大問題。オマケに川の中に転移ゲートまであった。多分不正のヤツ」
「えっ」
「あー、さっき捜査本部荒れてたのそれですか」
さっき、というのは膝丸が通報した時のことだろうが、他人事のような言い草に違和感を覚える。
「お前参加してなかったの?」
呪術対策課、と付け加えれば多々楽はやれやれと肩を竦めた。
「やだなあ。俺みたいなヒラまで呼んだら椅子取りゲーム始まっちゃいますよ。現場に向かったのも、蛯原さんと他数名ですし。本部無線がなんか言ってんなーって」
「それは聞けよ」
「……その無線、こちらには来ていないぞ」
「えー?まあまだ不確定だしねぇ。回線絞ってるかも。万屋街に侵入経路があるなんて情報、万が一審神者に漏れたらパニックになるだろうし」
「既に大事になっている気はするが。月曜から万屋街は全閉鎖だろう」
「それはそれなんだよ。ただの予防策の定期健診と、具合が悪くて病院にかかるのじゃ心持全然違うでしょ」
「すまないが、私は病院にはかからないのでよくわからない」
「そうじゃーん!」
すげない返事の水心子に多々楽はこつん、と自分の頭を叩く。
「手入れ部屋という意味なら、何時も神聖な場所だと思っているけれど」
「そうなんだ。政府常駐の審神者もよくやってるんだねぇ」
うんうん頷く多々楽は一体どういう立場で腕を組んでいるのか。松籟にはわからない。
そうこうしている間に共用シャワールームに辿り着いた。
「あっ、隊長。怪我はないんだな?」
さすがに中まで着いてくる気はないのか、扉の前で水心子が確認してくる。松籟は顔を上げ、視線を合わせて答えた。
「ねェ」
「そうか、ならいい。くれぐれも湯冷めして風邪を引かないように」
激励というには憂いの混じる声色に、松籟はひとつ瞬きする。
「……おう。また明日な」
「ああ、また」
「お疲れ様ですー」
軽く口角を上げて別れを告げる。水心子は元の方向へ、多々楽は進行方向へ、二人とも言うだけ言って満足気に解散していく。
なんだか拍子抜けになりながら、松籟は緩く頭を振って、扉を引いた。
◇
誰かがくしゃみをする音が聞こえた。
ひやりとした冷気が首を撫でる。頭と瞼を持ち上げると、白い光が目を焼いた。
「ん……ぎ……」
目を閉じて伸びをする。体の節々が痛い。首を捻ればこきりと骨が鳴った。
松籟は半目をぱちぱちと瞬いて、記憶を呼び起こすべく周りを見渡す。たった今突っ伏していた紙の散らばる机、目の前の真っ黒な壁と同化しているディスプレイ、足元の白く硬いタイル。
ずず、とくしゃみで垂れてきた鼻水を啜る。
──思い出した。ここは呪捜の隊室だ。
座っている重厚な椅子の座面と背もたれの境目に、膝丸から借り受けた上着が挟まっている。背中にかけていたものがずり落ちたらしい。通りで体が寒さを訴えたわけだ。
政府に浴場なんて大層なものはないけれど、共用シャワーを惜しみなく頭から被ればだいぶ体は温まる。有難みを存分に享受してから隊室に戻り、癖でそのままデスクについた。やりたいことはいくらでもあるが、資料を広げたところで寝落ちしてしまったのだろう。潔くベッドに入れば良かったな、と凝り固まった肩を揉んだ。
湯冷めするなと水心子に言われたばかりだ。これで風邪まで引いたらいよいよ笑えない。今日は店じまいにしよう。
松籟は携帯端末と膝丸の上着だけ持って、隣の仮眠室へ向かった。
パネルに手のひらをかざして仮眠室へ通じる扉を開く。リモコンで隊室の電気を消して、暗い部屋を手探りでベッドまで移動する。簡素な二段ベッドの下の段は、松籟の定位置である。
布団に潜り込み、真っ暗な視界で上のベッドの底を見つめていると、目を開けているのか閉じているのかわからなくなる。せめて明日の段取りを考えてから。松籟は暗闇を見つめ続けることにした。
さて、なぜ自宅に帰らず隊室に戻ってきたかというと、帰ろうにも帰れないからである。
水心子には結局明かさなかったが、松籟にはある致命的な問題が発生している。
川に流れた紛失物のうち、財布の現金やポイントカード類は痛手ではない。せいぜい入っていたのは五千円程度だし、失くなったポイントはまた貯めればいい。端末の電子通貨で生活はできる。
問題なのは、免許・戸籍カードとゲート通行証……である。前者は身分を証明するために、後者は政府指定区域と一般区域を行き来するために使用する。
つまり、ゲート通行証がないので、一般区域にある自宅に帰れない。
通行証を失くしてしまった以上、再発行を申請しなければならないのだが、その発行には身分の証明が必要となる。手続きには当然戸籍カードが必要で、そちらの発行場所は他でもない一般区域の区役所だった。そして松籟は本籍も現住所も一般区域に持っているので、ゲートの通行は文字通り避けて通れない。
とんだデッドロックを仕組まれたものだ、と松籟は息を吸いながら舌を打った。それから大きく溜め息をつく。
体が泥のように重い。横たわっているベッドに今にも溶け出してしまいそうなほどに、四肢の感覚が遠い。少し眠っていたのだから体力が回復してもいいだろうに、さっきよりも疲れた気がする。悪い環境で寝ていたのが原因であることはわかりきっているのだが。
やりたいことがたくさんある。水心子にまとめてもらった演練記録に目を通して、春鳴が集めた被害者の霊力構成を精査して、それから定常業務も疎かにしてはいけない。今日見つけた水底のゲートの調査は終わったのだろうか。膝丸はちゃんと寝ているだろうか。まさかまだ働いているなんてことは。上着があるから顕現はしたままと考えていいのか。というか今は何時だ。そういえば戸籍カードの通信止めて貰った方がいいんじゃないか。いや川に落ちたんだから誰も拾わな……、
思考が取り留めもなく溢れては消えてを繰り返していた時。
ぴ、と聞き覚えのある音がした。
思わず息を詰めると、続いて隣の隊室の入口が開く音がする。
誰か入ってきたらしい。
こういう時、松籟の頭には二つの選択肢が浮かぶ。素知らぬ振りをするか、果敢に突撃するかだ。
八割方そうではあるが、正体が人であれば何の問題もない。知り合いでも友人でも、嫌いな人間だってこの際構わない。不味いのは、幻聴、いわゆる“良からぬもの”だった場合だ。こちらが気付いていることに勘づかれると、大抵ロクなことにならない。
一方で、得体の知れないものを、得体の知れないままにしておくことが我慢ならなくて、突撃してしまうこともままある。
後先考えずに突っ走るな──、
頭に響いた覚えのある苦言に、松籟は詰めていた息を細く吐き出す。
仮眠室の閉じた扉の向こう、執務室から足音がする。仮眠室や呪物保管庫の扉は隊員の生体認証で開閉するが、執務室は政府職員の社員証があれば誰でも入れる。形式上、インターホンが備え付けられていたりはするのだが。
社員証をかざす音がしたから、おそらく人間だろうとは思う。第一ここは政府だ。廊下には監視カメラがあるし、”余所者”が徘徊できるようなセキュリティじゃない。
松籟は重い左手首を持ち上げて、小型端末を見た。時刻は二十二時八分。随分遅い時間だ。一体誰が何をしに来た。
ベッドの上で息を潜め、ひたすら耳に神経を集中させる。音は何やら紙類を漁っているようで、出ていく気配はない。
──ええいうるさい、見ればわかる。
腹筋で勢いよく起き上がって床に降り立つ。間髪入れずに壁に手のひらを押し付けて、隣と隔てる扉を開放した。
「えっ」
「あ?」
飛び込んできた光景に、松籟は目を瞬かせた。
執務室の角、先ほどまで松籟が着いていた机の前に、見覚えのある人物が立っていた。
とおる。
音もなく口を動かした男に、松籟は顔を歪めた。
松籟は男と距離を詰めて、その顎先をキッと見上げる。
「ドロボー」
「えっあっ、違う!」
彼は手にしていた紙の書類を慌てて机に戻した。
そして誤魔化すようにこほんと咳払いをして、松籟を見つめる。
「まだ残ってたんだな。お疲れ様」
松籟は男をじとりと見つめ返した。
男の名は、伯労という。かなり位の高い家の審神者で、本丸の運営に加えて政府の政策にも関わっている。そして松籟にとって個人的に付き合いが長い相手でもある。何せ幼馴染というやつなのだから。
腑抜けた顔になんだか拍子抜けしてしまって、松籟はため息をつく。
「いや、普通に寝てたけど」
「ここでか?」
「そうだよ」
「……家には帰った方がいい」
「めんどくせえんだよ。どうせ帰っても明日出てくるし」
「そうは言うが……通勤が面倒なのか?」
「……」
改めて問いかけられると、そうではない、と思う。自宅は区域外ではあるが政府管轄の物件なので、せいぜい三分で直通の転移ゲートに辿り着く。
自宅が嫌いなわけでもない。むしろ好きなだけ自分好みに染め上げているので、居心地が良すぎるくらいだ。
リビングに陣取る革張りのソファ、ディスプレイとスピーカーを備えたホームシアター、壁に所狭しと並ぶ好きなジャズアーティストのリリースジャケット。モノトーンでまとめられた部屋は、掃き出し窓の夜景がよく映える。あの部屋に越してから夜が少し好きになったくらいだ。
仕事だって、量はあるが別に夜通しやっているわけじゃない。昼休みは好きに出かけるし、日中も息抜きに飯を拵えたりする。週末をそのまま仮眠室で過ごすのも、結果的に呼び出しに対応することはあれど、深い意図はない。ただなんとなく、生活の拠点をここに移している時期がたまにある、というだけなのだ。
「……ここなら、ギリギリまで寝てられるし」
その理由を明確に説明できる気がしなくて、苦し紛れに言い訳する。彼の目は見れなかった。
「いつから?」
「つっても一週間くらいだよ」
今回は、まだ一週間だった。
「……家に何か出た、とかではないよな?」
「ない。俺んち頑丈だし」
「そうだったな。政府様々だ」
伯労は特に訝しむ様子もなく流されていく。
一度政府の結界の下に入ったら、もうあれなしでは生きていけないと思う。それくらい、自宅の”セキュリティ”は完璧だった。
昔から人ならざる者の気配には敏感だった。たとえ目に見えなかったとしても、空気の揺れや流れでなんとなくそこにいるのがわかるそれ。見て見ぬふりが安牌と学ぶまで数々の痛い目に遭ってきて、この男には何度も助けられた。
とぼけた顔をしているが、政府の不動産を松籟に仲介したのは他でもない伯労だし、さらに言えば呪捜を紹介したのも伯労だ。色々な面で頭が上がらないのは事実だった。
「帰りたくないなら、久しぶりに俺の本丸に来るか?」
それはそれとして、困らされることもある。
松籟が妙な顔をしていることに気付いたらしい。伯労は首を傾げた。
「申請のことなら心配いらない。社員証……ん?いや通行証か。認証通ったからもう入れるぞ」
頬が引き攣るのを感じた。
何度か伯労の本丸には行ったことがある。始めは仕事のためだったが、そのうち何かと理由をつけて邪魔するようになっている場所。あの本丸の刀剣は気のいい奴が多くて良い。
全ての本丸に訪問申請が必要なわけではない。伯労本丸が特別厳重に管理されているのだ。申請は認可されるまで二、三日ほどかかるのが常だった。
見かねた伯労本丸の博多が、年間パスのような物はないのかと聞いてきて、よくよく調べてみればなんと近い制度があったので。あれよあれよと話が進んだ。伯労も伯労で、無闇に本丸に人を入れてはいけない認識だったので失念していたらしい。
とにかく、審査は無事に通ったということだ。通行証を紛失する事態でなければそれなりに喜んだのだが。
「いや……今日は、遠慮しとく。もうねみぃし」
松籟が移動するつもりはない、と示せば伯労はぱちりと瞬きをした。
俯いた脳天に、じり、と炙るような強い視線が突き刺さっている。頭の中を覗かれているような据わりの悪さを感じた。
視線に耐えていると頭上で、ふ、と微かに笑う気配がする。
「そこ座って」
言うや否や、手首を引かれ休憩用のソファに座らされる。隣に伯労が腰を下ろして、肩を掴んで背中を向けさせられた。
「肩を揉んでやろう」
「え」
ぐ、と首と肩の間に指が沈む。反射的にいかり肩になるのを手のひらで押し戻された。
ぐ、ぐ、と肉に圧がかかり、頭が揺れる。感覚は鈍く遠かったが、おかげで擽ったさもない。普段マッサージや整体には行かないので、新鮮なような、懐かしいような感覚だった。
「硬くないか……?」
伯労が引き気味に呟くのが聞こえて、微かに意識が浮上する。
「……まぁ……元々身体硬いし」
そういうものか、と薄い反応の伯労に、そうだよ、と適当に返事をする。
伯労は唸りながら力を強くしてみたり、首周りを鎖骨に沿って揉んでみたりする。どこもかしこも押された感触が鈍くて我ながら笑ってしまった。
自分が笑われたと思ったのか、親指が肉に食い込む。
「いだだだだ」
「うーん。これはかなり蓄えてるな」
「イテェ……何を」
「老廃物を。風呂入ってるか?」
「もっと言い方あったろ。湯船なら最近は浸かってねえけど」
「なぜ」
「めんどいから」
「まあ……わからなくはないが」
血の巡りが良くなったのか、少し肩が温かくなってきた気がする。ぐるりと首を回せば骨がばきばきと鳴った。後ろから慄く声がする。
無言で待っていれば肩揉みが再開される。無理にほぐすのは諦めたようで、単調に指圧される時間がしばらく続いた。
「今は何の仕事をしてるんだ?」
「お前机見てたろ」
「うっ……いや、色んな資料が散乱していたから、どれが仕掛かり中なのかはわからなかった」
「……。対策課から依頼が来るんだよ。呪い案件と思われる問合せを仕分けしろっていう」
「紙で来るのか」
「色んな年代の奴がいるだろ」
なるほど、と伯労は呟く。呪術対策課から回ってくる問合せの依頼書は、たまに達筆すぎてさっぱり読めない物もある。時の政府はあらゆる時代から審神者を招集しているので、そういうことは往々にしてある。読めない時はその年代の刀剣を探しに行って書き起こしをしてもらうのだが、それを横から眺めているのはなんだかんだ面白かったりする。
そういえば前隊長も紙派だったな、とぼんやり考える。あの人は目が良かったから、液晶越しよりも紙の方が受け取れる情報が多かったのかもしれない。いや、単に紙が好きだっただけかもしれないが。
「右の方が硬いな」
「えー、利き手だからじゃね。マウスとか使うし」
「どこからどこまで右なんだ」
「知らね……ぎゃっ!」
肩甲骨の辺りを押された瞬間、素っ頓狂な声が出た。
弾かれるように距離を取って振り向くと、伯労が五指を突き出したままきょとんとしている。一拍間を置いて眉間がきゅっと狭まった。
「凝りの根源か」
「何真面目な顔しくさってんだコラァ!そこは凝ってねぇからその手を仕舞えェ!」
「いいや、凝りすぎて神経が過敏になっているんだろう。そうに違いない。さあ後ろを向いて」
「絶対イヤだ!!」
こういう時のコイツは本当にタチが悪い。ソファから立ち上がって宙に浮く両手をずびしと指差す。顎をしゃくると、伯労は渋々といった体で手を下ろした。
「そんなに嫌がらなくてもいいのに」
「見え見えなんだよ悪巧みが」
「何も企んでいないが」
不服そうに口を引き結ぶ伯労。騙されてはいけない。コレは何も考えていないように見えて、それとなく自分のペースに巻き込んでくる男である。
「てかお前も何こんな時間まで残ってんだよ。早く帰れ家に」
伯労も立場上多忙であることは知っている。こんなところで油を売っている暇があったら、仕事なり休むなりすべきことがあるはずだ。
しかしそう伯労を突き放すと、彼は俯き黙り込んでしまった。
「……帰ろうと思ったんだ」
ぽつりと零した言葉の意味を測りかねていると、伯労は突然膝を叩いて腰を上げる。
「亨」
不意に耳に飛び込んできた単語にびくりと肩が震える。その名を聞くのはいつぶりだろう。
「俺の家は来たことなかったよな?」
「……え?あ、あぁうん……」
伯労の実家、すなわち六十里家の屋敷に足を踏み入れたことはない。幼馴染というのも、出会ったのが幼い頃だっただけで、家族ぐるみでの付き合いがあったわけではないのだから。
彼の父親──現当主の顔は辛うじて知っているし、向こうもある程度こちらの素性を把握しているはずだが、直接会話をしたことはないのだ。
「今度遊びに来てくれ。歓迎する」
は、と息が漏れた。
伯労は満足したように微笑むと、じゃあ、と言ってさっさと出ていこうとする。
何かを返そうとした口は上手く開かず、足も動かないままその背中を見送る。
背中が扉を潜る。扉が閉まる。電子扉のロックがかかる音を最後に、室内はしんと静まり返った。
──アイツ、俺を親に見せる気があったのか。
松籟はしばらく呆然とその場に佇んでいた。
◇
目が覚めた時、松籟の胃はぐうぐうと盛大に文句を垂れていた。
夢の中で皮を剥いていたバナナを現実で咥えながら、松籟は端末に数件来ていた通知を開く。
『湯冷めしてないですか?笑』
『お疲れ様です。所感をまとめましたのでお手隙の際にご確認をお願いします』
『上着を取りに行く』
全てのチャットに既読だけ付けて、春鳴からの依頼はタスクに追加する。
『【捜査報告】相模国死体浮上事案(24XX年11月8日時点)』
そう第打たれた長いスレッドをタップして、滑りそうな目を凝らして内容を頭に入れていく。
一つ、昨日陸奥国第一万屋街で発見された霊力異常帯は、認識阻害領域であったこと。
認識阻害とは、ないものをあると認識させたり違和感を認識できなくさせる幻術の亜種である。今回は霊素で構築した偽の橋を被術者の想像力で補強して、辛うじて橋としての形を保っていたということらしい。
二つ、領域内の川底に、不正ゲートが発見されたこと。
認識阻害領域は、このゲートを隠すための物と見られている。ただ川に潜るだけでは視認できず触れもしないゲートは、川の水を消去し領域を希釈して初めて川底に姿を現したという。
なるほどな、と思う。領域の希釈は、領域に別の霊力を流し込むことで行われる。流し込みには領域へ穴を開ける必要があるが、同化性の高い霊力ならば、特別な術式を介さず霊力を浸透させることができる。できてしまう。
昨日松籟が橋から落ちたのは、まさにその現象が起こったからだ。あの領域はそうして『同化性の高い者』だけを引き寄せて来たのだろう。領域を解いてしまったが最後、落とし穴に落ちるしかない。
三つ、不正ゲートの転移先座標は調査中であること。
調査中、という文言に首を傾げる。これは松籟が肌で感じたところだが、ゲートはまだ動いていたように思う。人が直接飛べとは言わないが、発信機を飛ばして座標を探知するくらいはできるだろうに。
その疑問は画面をスクロールした先で解決する。
ゲートは追跡防止の妨害波を発していて、電波や霊波は途切れてしまうのだそうだ。その様子だと転移先にも厳重に結界が貼られているだろう。
まあ簡単には尻尾を掴ませてもらえないか、と独りごちて松籟は端末をベッドに放った。
これからゲートの転移先を探すことになりそうだ。探知が使えないとなると、人海戦術になるかもしれない。
ぴんぽん、と間の抜けた音が響いたのはその時だった。
「あ?」
松籟は手の中に三分の一ほど残っているバナナを見つめ、一口で口に詰めた。皮をゴミ箱にシュートしてベッドから足を下ろす。
そうしている間にもう一度鳴る呼び鈴に急かされつつ、仮眠室を出て隊室の扉を開けた。
「──おはようございます。あ……えっと、お食事中でした?」
廊下に立っていたのは顔見知りの女だった。
少しの気遣いを見せる、いつ見ても身なりに無頓着そうな女の名は菊という。あちこちに跳ねる意志の強そうな髪の毛は後頭部で無理矢理押さえ付けられ、サイズの合ってなさそうな紺色の作業着は体を実寸より一回り小さく見せているような気がする。
松籟はもごもごと口の中の物を喉に押し込んで飲み込んだ。
「朝メシを少々。来たってことは、整備終わったんすか、ソレ」
菊の両手に抱えられている箱には、心当たりがあった。菊は頷いて蓋を開けて見せる。
「はい、”いつもの”です。スペルキャンセリング機能のチューニングが終わりました。ご要望通り、低域側の遮断周波数を下げましたが、問題なかったですか?」
「はい、ダイジョブです。ダメそうだったらまたお願いするんで」
「わかりました。あと、ついでに耳当てのクッションを吸水性が高い物に変えておきましたので」
「おー、それたすかるわ」
蒸れるんだよなあ、と呟きながら箱のクッションからヘッドフォンを引き抜く。見慣れたワインレッドの光沢を撫でてバンドを後頭部に装着した。
箱にはもう一つ黒革のチョーカーが収められている。
「そしてこちらは、レザーの手入れと軽い動作確認を。中は弄ってません」
「どうも」
チョーカー内部には変声機が仕込まれている。喉の振動を増減させて特定の波形を作り、詠唱型の術の発動を補助する代物。
そしてヘッドフォンには、特定の周波数帯を遮断する機能がある。呪いや穢れには伝播する性質があり、その伝播形態の一つが音波であるのだが、松籟は生まれつき可聴範囲が広く影響を受けやすいため、防衛策として支給された物だった。
二つ合わせて、今や松籟にとって欠かせない仕事道具となっている。
「大丈夫ですか?」
「……。ハイ?」
顔を上げると、丸眼鏡の向こうから陰りのない瞳がこちらを見ている。抑揚がないわけではないが、どこか型に嵌めたような声からは感情が読みづらい。
「なにが」
問う松籟に、菊は自分の指を目元に当てて見せた。
「目が、開ききってないので」
松籟はゆっくりと二回瞬きした。
「……無理して開ける必要はないと思いますけど」
フォローのつもりなのか、菊は苦笑ながらに言う。
「お疲れですか?」
「……いや、起きたばっかだから」
「まあ、まだ早いですからね。泊まりだったんですか」
「ああ……」
「他の方は?」
「今日は……水心子は鍛錬。春鳴は午後シフト」
「大変ですね」
お一人で、と続く言葉に松籟は閉口する。
元々勤怠は不規則な隊だ。松籟に限らず彼らにも一人で隊室待機をしてもらうことはある。それに今日は寝ていただけだし、気遣われるようなことはない。
瞼が腫れているような気がするのは、久しぶりに深く眠ったからだと思う。昨日は完全に頭のスイッチが切れていたので、潔く寝に入ったのが良かったのかもしれない。
「呪捜は例の件に関わっていたんでしたっけ。あの、相模国の死体調査」
「まー……ですね。対策課ほどじゃないですけど、一通り情報は降りてきてます」
「そうでしたか。万屋街も閉鎖されるんですよね。これ以上大事にならないといいんですけど」
その万屋街で不正ゲートは見つかったし、もう大事にはなってるけどなと思いながら、部外者に話す内容ではないかと頭を掻くに留める。
「センターの方でも話上がってますか」
「ぼちぼち、ですかね。共有スペースで速報が流れていたりしますし、みんなそれで話題にする感じです。捜査本部は今頃てんやわんやだろうって」
「他人事っすね」
「すみません」
「まぁ、そんなモンでしょう」
少しだけバツが悪そうにしてみせる菊に、松籟は肩を竦めて答えた。
「それじゃあ、私はそろそろお暇します」
「ああ、はい、ありがとうございました」
菊が軽く礼をする。松籟は手を上げて答えた。
受け取った紙箱をしばし見つめる。軽い足音が遠ざかっていった。
何か忘れている気がする。
ぐう、と腹が鳴った。
松籟の脳裏に、前髪を耳にかけて麺を啜る膝丸の声が再生される。
──気取られる前に、政府が行っている研究について少し調べたい。
閉まりかけた電子扉に挟まれかねない勢いで、松籟は廊下に身を乗り出した。
「あの!」
廊下の奥で小さな点になっている菊に呼びかける。菊は一瞬振り向いて首を傾げて、しかしそのまま踵を返していく。よく見えていないし聞こえていないらしい。
「っだァ〜〜」
朝からどうにも回りの悪い頭を横に振る。再び開いた電子扉に腕を振り落とされて、たたらを踏みつつ廊下に出た。
キュ、と床に靴の底を擦り、長い廊下を走り出した。