水死体の夢 5

12,996文字

政府の中には、転移ゲートの立ち並ぶ場所がある。
通称ゲートルーム。真っ白な部屋は七枚の壁に囲まれて、ちょうど七角柱の形をしている。その壁の一枚一枚には長方形の黒膜、すなわちゲートが張っていて、それぞれに座標指定用のパネルが備え付けられている。パネルに社員証をかざせば、登録されている座標レコードが読み込まれ、転移権限のある場所へ移動できるという寸法だ。
菊は自身の社員証をかざして、液晶に表示されている行先から『政府研究開発センター』を選択する。そしてふと思い出したように振り返った。
「松籟さん、センターの入場権限はありますか?」
松籟は無言で頷いた。息が切れていた。
「じゃあ、ゲスト設定はいらないですね」
お先に、と菊はゲートを潜る。黒膜が揺らいで、菊の姿は闇に消えた。
同じように入力を済ませて松籟もゲートに踏み出す。ぴり、と頬を撫でる膜の感触が通り過ぎた瞬間、開けた場所に出た。
武蔵国の政府第七支部から飛んで一秒。備前国の政府第四支部に近接している政府研究開発センターに到着する。
センターは奥に向かってL字型に折れ曲がる形をしており、長辺側の中央に入口がある。正面に広がるアスファルトには、大型のトラックがぼつぼつと止まっていた。階層は十階層ほどで、各階に飾り気のない窓が見える。対照的に周りを鮮やかに色づいたイチョウ並木が囲んでおり、並木を隔てた隣には政府支部の高層ビルが見えた。
人通りはなく、薄い水色の空が静かに辺りを照らしている。清々しいほどの秋晴れだった。
死ぬほど平穏だな。
見上げていた視線を戻すと、菊はクロックスですたすたと自動ドアへ入っていった。気を取り直して追いかける。
エントランスのセキュリティゲートを通過し、エレベーターに乗る。滑らかに上昇し、ほどなくして止まった。
エレベーターを降りて案内されたのは、ロボティクス科、と札の貼り付いている研究室だった。
「おや、こんな早くから客人とは、珍しいね」
ノーカラーシャツに袴。書生のような格好をしている男──南海太郎朝尊が顔を出す。
緩く細められる切れ長の目に、松籟はぱちりと瞬きして、左腕の端末を確認する。
「そういや今何時──、」
腕の端末は午前八時五十分を告げていた。
呪捜などシフト勤務の部署もあるとはいえ、政府の大部分は九時始業である。さすがに邪魔だったかもしれない。
「元はと言えば私が早くお邪魔したからなので……」
ならいいか。
「起きてなかったらどうする気だったんすか」
「え?置き配しようかと」
「二回鳴らしてたじゃねえか」
「電気がついていたので、いそうだなと」
菊はさらりと告げると、右手で机横の丸椅子を進めてくる。
「少し待っていてくださいね」
そのままどこかへ行ってしまった。
松籟は丸椅子に腰掛けて辺りを見渡す。研究室は灰色の床に白い棚と天板の黒い机が並び、そこに大小さまざまな機械が置かれている。パネルの付いた四角柱の機体や、四つ足のドローン、金属剥き出しのアームのようなものもあった。
ふと、香ばしい匂いがして振り向くと、腰に手を当ててビーカーを呷っている赤いパーカーの男──肥前忠弘と目が合う。
「コーヒー。いるか」
「……おう」
短く肯定すると、肥前はくるりと背を向けてコーヒーメーカーのボタンを押す。容器を変えてもう一度。そうして黒い液体の入ったビーカー二つを手に、こちらにつかつかと向かってきて、脇の机にドン、と置いた。
「肥前くん。僕もいただけるかな」
「先生も長話する気なのか」
「いいや?モーニングコーヒーというやつだよ」
肥前は回れ右で窓際の小さなキッチンへ戻っていく。
「もうない。牛乳でも飲んでてくれ」
「あ、俺もくれ」
しゃがんで小さな冷蔵庫を開ける肥前に声をかけると、彼は訝しげな顔でこちらを見た。
「あんた入れる派だったか?」
その質問に松籟は少し面食らった。
ここに来るのは初めてではない。今身に付けている補助霊器──受け取って早々箱から引っこ抜いてきた──の調整で何度か訪れたことがある。朝尊や肥前とも知らない間柄ではなく、何なら最近は彼らの方が呪捜に霊器を届けにくる。肥前に関しては、タイミングが良ければ有り合いの物をその場で食わせていたりする。
しかし、食とは違い人に興味のなさそうな肥前が、人の好みを覚えているとは。
「……なくてもいけるけど、あるなら欲しい」
「ふうん」
だがその興味もすぐに失ったようで、肥前は牛乳パックを朝尊に渡すと踵を返していった。
「ミルクにはカフェインがないのだけれどねえ」
「刀剣にカフェインって効くんすか」
「ふふ、プラセボ効果かもしれないね」
「効果あんのかよ……」
「思い込みは僕らの十八番だよ。松籟くん」
朝尊はどこからか取り出したマグカップに牛乳を半分ほど注ぎ、パックの残りを松籟の持つビーカーにひっくり返した。コーヒー牛乳みたいな色になった。溢れそうなそれを縁から啜る。
やがて菊が奥の部屋から戻ってきて、松籟の正面に腰を下ろした。慣れた手つきでビーカーの縁を掴み、コーヒーを一口飲む。
ことん、とガラスが音を立てる。菊はこちらに向き直った。
「それで松籟さん。私に聞きたいことってなんですか?」
松籟は視線を斜め上に彷徨わせ、咳払いをした。
「ぶっちゃけ、政府で人体実験ってやってるとこってあります?」
ぴしり、と菊の眼鏡にヒビが入った──気がした。
松籟は頬をかく。さすがに手助けが必要そうだ。
「……いやあの、ないとは思うんすけど」
「う、うーん、どこからどこまでを人体、実験というのか、というところではありますけど。そうだな……本人の同意なく試験を行ったり、死後に遺体の臓器を使用したり、とかですかね?」
菊の返事はぎこちない。無理もない。答えてくれるだけ良心的と言える。
まあ、答えてくれそうだから聞いた。菊は何を考えているかわからないところはあるが、おそらく嘘が得意なタイプではない。たとえ嘘をつかれたとしても、強気に押せばボロが出そうだ。
見たところ反応は一研究員としてのもので、やましいところはなさそうである。
「同意のあるなしよりも、その実験による損害が大きいもののイメージっすね。例えば、生きた身体の内臓がボロボロになるとか」
「損害ですか……。政府では、生きている人の身体でそういった実験を行うことはできません。ですが……、もし仮に行われているとしたら、危険ですね」
「危険」
「はい。あまり現実的じゃないですし。政府がそういう方法に頼っているというのは、少し……杜撰なのではないかと」
菊は徐々に落ち着きを取り戻していた。
「人間は、実験の試料にするには個体差が大きすぎる。マウスやラットだって、それ用の遺伝子組み換えが前提になっています。最終段階での臨床試験ならいざ知らず、その段階の実験なら人間で行うべきではありません」
人体実験の実現性についてそう語る菊は、あくまでも現実的な立ち位置のようである。
松籟はコーヒー牛乳を啜りつつ、並んでいる机に視線をやった。
この研究室──ロボティクス科は電力や霊力で動く機械を開発しているらしい。ロボットもドローンも、人体を切り開くことには無縁そうである。
「ここじゃ、生物実験はやらなさそうですね」
「いえ、そうでもないですよ。機械系でもモデリングなんかは、生物に電極を取り付けて行いますから」
「あー、そうなんすか」
「それこそ政府の職員の方にモデルをお願いしたり、鳥類や昆虫類を参考にすることもあります」
「こ、昆虫……」
「あら、お嫌いですか?昆虫型ドローンは式神にも負けない性能になってきてるんですよ」
菊は口元に手を当てて、少し楽しそうに笑った。
松籟は密かに息をつく。
センターの研究者にとっても、やはり人体実験はイレギュラーな研究手法なのだ。実は界隈では常識、なんて話はなさそうでよかった。
「……他の科はどうです?」
「人体実験をしている研究には心当たりがありませんね……少なくとも表では」
「他所の研究内容も把握してるんですか」
「そうですね。論文には目を通してますし、最近はどの部門も共同で研究を行う傾向にあるので、他所の研究もある程度は把握しているつもりです。──例えば」
菊は視線を横に滑らせ、松籟もその視線を追う。
机の上の大学ノートやタブレットの隙間に、透明な丸いケースが整列している。
ケースには澄んだ青色の液体に、何か布切れの様なものが浮いていた。
「これはアンドロイドの皮膚です」
ぱち、と瞬きする松籟の鼻先に、ケースが突きつけられる。
「人型AIです。会ったことはあるでしょう?彼らも改良を重ね、そして生まれ続けている。まだ二桁にも満たない数ですが」
鈍った頭に拳を当てて、松籟は思い返した。
政府の中に、やたらと頭が良く容姿の整った”人型”が数人いることは知っている。いつかの事案で捜査協力を受けたことがあり、主に現場の対応で大助かりしたのを覚えている。
事前に人間ではなくAIを搭載した人型ロボットであると説明を受けたが、不気味なほどに人そっくりの風体をしていた。
「これは改良版なんです」
菊はどこか恍惚とした表情で、つるりとプラスチックケースの側面を撫でる。
「初期の人工皮膚は、人に近い質感を求めて、実際の細胞を用いた有機皮膚が研究されていたんですが。良くも悪くも生物的すぎて、強度に難がありました」
どうやらその皮膚とやらの説明が始まるらしい。松籟は首を縮めた。
「修復機能自体は備わっていたんですよ。柔らかい皮膚は細かな傷がつきやすいので、一々直していたらコストがかかりすぎてしまいますからね。ただ、修復には培養液に一、二週間は浸かる必要があって。修復バスというんですけど」
菊は手で大きな柱のような形を作り説明する。そこにアンドロイドを入れるという話をしているらしい。
「そこで起こったのが合成皮膜の研究でした。即時修復に重きを置いた、細胞を使わない皮膚が開発されたんです。亀裂に修復液を入れると、自己修復ポリマーが素早く硬化するんですよ。便利ですよね」
液体といえば、昔はあかぎれなどで液体絆創膏に世話になったなと思う。学生時代にバイトをいくつかやってきたが、特に罠だったのは花屋の短期バイトだった。時給の良さにつられて応募したものの、内容は文字通り泥臭い仕事が多く一瞬で手が荒れ放題になった。
「活躍の場は戦闘や探索時などですかね。こちらもそれなりに展開されました。でも、どうしても独特の光沢があったり、触れると冷たかったり、人間味という部分からは遠ざかってしまっていて……。ほどなくして回収されることになりました」
花屋って泥臭い仕事なんすね、と言えば先輩は大層笑って、綺麗な薔薇の棘を落とす仕事だよ、とキメ顔で腕を組んでいた。ブーケ作りなど指先の感覚が必要になる作業も多いので、結局医者が使うような薄いゴム手袋を買ってどうにかこうにか凌いだ記憶がある。
「では、その後どうしたと思います?」
唐突に菊は問いかけてきた。
松籟はにこにこと笑う菊の手に乗せられたケースを見つめる。
──菊はこれを改良版だと言っていた。ならば、これはそのどちらでもないのだろう。生きた皮膚でも合成皮膚でもない。第三の選択肢。
ケースの皮膚に妙な光沢はない。不気味なほど人の肌だ。これが腕に貼り付いていたら、一見機械とはわからないかもしれない。
前作二つを見ていないので何とも言えないが。見た目は生きた皮膚、と表現するのが近いと思う。
松籟は片眉を上げながら、呟いた。
「……混ぜました?」
お、と菊が声を上げた。
「惜しいですね。言うなればこれは、有機皮膚に覆われた合成皮膚です」
ぱちぱちと手を叩く。
「私たちは考えました。有機皮膚の自然な外観と、合成皮膚の急速修復を両立させられないかと。そしてついに生み出した」
ケースがずい、と眼前に突き付けられる。アップになりすぎてピントが合わない。
「それがこの複合皮膚!合成層と有機層の二層構造で作られた皮膚です。丈夫な合成層を薄い有機層で覆うことで、柔らかくて堅い皮膚を作り出したんですね。この皮膚は損傷を受けると、即座に修復液が染み出て傷口に蓋をします。有機層の回復には時間がかかりますが、機能的にはすぐ修復できるんです」
少しずつピッチを上げていく声に、松籟は頬を引き攣らせる。
「まだ試験段階なんですけどね。修復に専用の修復バスが必要になりますし、層の界面剥離が起きやすくて……いや、それでもこれはいずれ完璧な皮膚になりますよ」
ぐいぐいと距離を詰めてくる菊に、松籟は両手を上げた。
「……で!これが、共同研究の産物だと?」
菊はぱちりと瞬きした。
「そうです。うち……機械系のロボティクス科と、物質系の細胞工学科で開発しました」
立ち上がりかけていたらしい菊は、すとん、と椅子に座り直した。
「今は材料工学は物質系に頼んでいる部分がほとんどですね」
機器を形作る素材については、分業しているということらしい。餅は餅屋とはよく言ったものだ。
とにかく、共同研究が盛んに行われていることは十分伝わった。センター内で情報はそれなりに伝達されていそうだとも。
「そんだけ垣根ないと、異動とか結構ある感じなんすか」
「うーん、異動は少ない方だとは思いますけど、最近増えてきた印象ですね。幅広い知識を求められているのは確かですから。センターと各区の拠点間は元よりですが、共同研究やスキルアップのために外部への出向なども積極的に行っているようです」
何気なく振った話に聞き捨てならない返答があり、松籟は目を瞬く。
てっきり外部とは完全に連携を絶っていて、あったとしても政府指定区域内の個人研究者くらいかと思っていたのだが。
「政府の外ってことすか?」
「ええ。理工学は全国的に研究が盛んですからね。ああ、霊エネルギー系は区域内に制限されてたような気がしますが」
霊エネルギーと聞いて、松籟は傾きかけていた姿勢を正した。
そう、本命は霊エネルギー系の研究情報である。例の死体らはただ身体が損壊していただけではなく、同化性の高さを指標に選定されていた。そしてそれは、霊エネルギーの知識がなければ扱えない。
「霊エネルギー、政府が独占しているんでしたっけ」
確認すると菊は苦笑した。
「あれは危険な代物でしょう。然るべき設備と人員でなければ、大きな犠牲が出る」
「…………」
松籟はコーヒーに手を伸ばした。
政府がそれだけ大事に囲っているのなら、霊エネルギーの情報が漏れる隙はないように見える。
だが機械系や物質系はどうだろう。出向中に霊術だの呪術だのについてうっかり口を滑らせることはあるのではないか。専門分野には劣るにしても、彼らにも多少の知識は備わっているだろう。
ちびちびとコーヒーを啜っていると、菊から切り出された。
「ですので、政府も秘密保持には力を入れているようです。出向中の職員や退職者にも秘密保持義務は適用されますよ」
思わず言葉に詰まる。ちょうど気になっていた部分の回答だった。さっきまでお構いなしに自身の研究について語っていたのに、急に話が早くなるではないか。
「義務、というと”努力義務”のように聞こえますが、実際にはしっかり記憶処理が施されるはずです」
松籟は渋い顔をする。
「……そうだったか」
政府には記憶に干渉する技術がある。
例えばそれは政府指定区域への不法侵入者など、本来その情報を目にしてはならない者に対して施行される。不測の事態への対応策の印象が強いが、実際には出向者や退職者に対して定常的に行われるものなのだ。
「外に出る職員全員にかけてるんですか?」
「はい。もれなく」
あっさりと頷く菊に、松籟は肩を落とした。
情報が漏れる可能性は低そうだ。となるとやはり、犯人は政府関係者か、政府に認可を受けた区域内の個人研究者ということになるだろうか。あまり政府の内情に首を突っ込みたくはないのだが──。
「……まあ、可逆的な処理ではあります」
しかし菊は、声を潜めて続けた。
「出向中、機密に関する情報は脳内に”封印”されるんです。消される訳じゃない。つまり、封印を解けば記憶は元に戻るんです。もちろん鍵となるものは政府が厳重に管理してますが」
松籟はゆっくりと顔を上げた。
話が変わってきた。
「封印を解くって、んな、簡単に言いますけど」
「そうですね、私も当時は信じられませんでした」
「解いたヤツがいたんすか」
「ええ……。物質系の方で、自力で術を解いた挙句、霊エネルギー系に関する情報を出向先に漏らした職員がいまして……」
淀みなく話していた菊の目が段々端に寄っていく。一応身内の恥の話は気まずいらしい。
「……いつの話ですか?」
「あれは……三年くらい前でしたかね。ただまあ、時すでに遅しだったというか」
菊は膝に拳を置いて項垂れる。重い息を吐き切ってから頭を持ち上げた。
「発覚したのが、本人の論文提出からだったんですよ。つまり漏らした情報を用いて、出向先で研究を完成させてしまったわけで」
「オイ、それまでバレてなかったのかよ」
「お恥ずかしながら……術者にフィードバックがないタイプの術式ですので……」
「監視とかは?」
「当時は本人からの定期報告だけでしたね。今は多少改善があるようですが」
「……定期報告があったっつーことは、研究終わるまで全然別のこと書いて誤魔化してたってことか?」
「ええ。実績をもって主張をしたかったとか。『優秀な人材は外にもいる』と」
動機はあくまで研究のためで、一応歴史修正主義者などのスパイではなかったということか。どちらにせよマトモでないことに変わりはないのだが。
「で、その後は?」
「もちろん、関係者には記憶処理を行い、論文は破棄されました。該当の職員は懲戒解雇で、記憶を完全消去されたはずです。こちらは復元ができない術ですね」
「ああ……」
本人の自業自得とはいえ、積み上げた知識を消去されて支障がないわけがない。研究を一つ完成させられるほどの能力があったなら、もっと別の分野に活かせばよかったものを。
「ちなみにどんな研究だったんです?」
聞くと菊は逡巡した。
「ええと……破棄された以上、あまり触れてはならない話ではあるのですが」
菊は辺りを見渡した。マグカップで手を温めている朝尊と目が合っていた。
「スプライトの人工生成じゃなかったかな?」
「あ、促した訳じゃなく」
「本当に完成していたのなら、政府は惜しいことをしたね」
「南海先生!」
菊が冷や汗混じりに声を上げて、松籟はひとつ瞬きをした。
その固有名詞には聞き覚えがあった。
スプライト、またの名を妖光石。聞き覚えどころか、嫌というほど知っている。なぜなら呪捜はそれを収集管理の対象としているのだ。
呪いの封印された、呪物として。
「スプライト……って、あのスプライトか?」
「金のような光沢を持ち、天然では花型晶癖をとる美しい結晶だよ。あらゆる霊物を劣化させずに保存する器でもある」
朝尊が言う通り、スプライトは良質な器である。
霊力や呪力の源である霊素というものは、普段大気中に当てどなく漂っていて、その質を絶えず変化させている。霊素は器という物体によってひとつの形を与えられ、いわゆる魂や呪いと呼ばれる霊物となる。
つまり器とは霊素に形を与えるものであり、そして形を保つものでもある。その性質を利用して行われているのが呪いの封印であり、スプライトも封印の器として用いられる物質の一つだった。
なので呪捜も、呪いの封印されているスプライトを見つけ次第、収集する任を受けている。
「先生、あの研究は禁忌とされたんですよ。そう軽々しく口にするものでは……」
「知っているよ。けれどそう隠されると余計に気になってしまうのが人の性というものではないかね?」
「そういう問題じゃないです」
朝尊は松籟の方を見て、人差し指を口元に当てた。
「君もそうだろう?」
囁く声に松籟は目を眇めた。
眼鏡の奥で光る瞳は、禁忌というより神秘でも見ているようだ。さすがマッドサイエンティストと一部で名高い刀。そこに同列扱いされるのは心外だが、正直気にならないことはない。一人の人間が違反を犯すほどの価値があったのかどうか。
「松籟さんは事件の捜査の一環でここに来てるんですよ」
「……あ?」
ごく自然な態度で断言した菊に、松籟は固まった。菊は構わず続けた。
「おそらく、万屋街に浮かんだ死体に人体実験の疑いが見られたのでしょう。それでうちに来て、そういった実験の噂がないか聞きに来た。今三年前に終わった研究の話をしても……」
そこで菊は何かに気付いたように押し黙った。
「あれは人を使うね。公的なデータは全てマウスで取っていたようだけど」
朝尊が笑ってそんなことを言う。菊の喉から濁った呻きが漏れた。
勝手に先へ進んでいく二人を見比べて、松籟は歯茎を剥き出した。
「なあ、どういう意味?」
「天然スプライトの生成条件は知っているだろう?」
「…………」
当然知っている。スプライトを知っていれば自ずと知ることになる。それがどれだけ希少なものなのかを。
「……人の化石、みたいなもんだろ」
苦々しく呟くと、朝尊はこともなげに頷いた。
「そうだね。既に生命活動を終えた肉体という器に、何らかの理由で留まっている穢れのない魂が、長い年月をかけて結晶化することでスプライトは生まれる。量や質は格段に落ちるが、人以外の生物でも生成は可能だね」
スプライトが器に適しているのは、穢れのない魂を素材としているからだ。
一般的に器と成り得るのは、岩、木、水といった自然物、あるいは人形、神棚、仏壇といった人工物である。それらは大抵、穢れがなく神聖であるか、人の信仰や恐れといったエネルギーを蓄えている。
スプライトは神聖な器に分類され、そして器は神聖であればあるほど霊素を活性化させる性質を持つ。それは魂を劣化させずに保存したり、呪力による器の腐食を抑制するのに大いに役立った。
呪いの封印において、器の劣化は避けられない。だからこそ再封印に備えて呪術対策課のような体制が必要になるし、呪捜も危険度の高い呪物をいくつかメンテナンスしている。そんな中初めてスプライトの話を聞いた時は、期待半分、疑心半分だったものだ。
「天然だと不純物も多く、何より希少すぎたからね。それを人工で生成する術式を組んだというのが、件の研究さ」
「人工って……あ?まさか」
「仕組みはごく単純だね。君が想像しているもので合っていると思うよ」
ちらりと菊を見るが、もはや止めるのを諦めたようで、ただ萎れた顔で座っている。
松籟は乾いた唇を舐めた。
「──殺すのか」
「そう。生物の魂を圧縮すると、スプライトができる。正しく生命を素材として、物質を生産するのさ」
菊が大きく溜め息をついた。
「わかるでしょう?禁忌になった理由が。職員の罪状は情報漏洩でしたが、研究ごと破棄されたのにはそういう面もあったんです」
「外部のやつは、そんな研究に協力したっていうのか」
「曰く、その先の展望を見せていたようですよ。スプライトの生成は第一段階で、その器を使って、人の蘇生を仄めかしていた」
がつんと、頭を殴られたかのような衝撃だった。
「……は?」
菊は相変わらず何を考えているのかわからない瞳をしている。
そしてふと思う。彼女は努めて冷静であろうとしているというよりは、何か感情を他所に放り投げているのではないか。喩えるなら、まるで掃除機のダストカップを開けるように、繰り返し感情の杯をひっくり返している。
「霊魄器移植術はご存知ですか?」
松籟は首を振る。
「肉体という器のうち、魂を格納している部分は正確には霊魄器と呼ばれます。それを移植する術のことです」
菊は少し微笑んだ。
「霊魄器の大きさ形は、霊力量やその扱いやすさに影響しますので。能力に不都合がある場合に、別の霊魄器をあてがい能力を補正することが目的です」
「……どこの研究?」
「霊エネルギー系の封印術科です」
「ああ、あそこか……」
封印術科のことは飼料として呪物を貸し出しているので知っている。封印の依代となる器の選定をする中で、器の利用方法の研究も進むのだろう。
「移植するには一度魂と器の分離が必要になるんですが、例の研究ではその技術を魂の移植に応用しようとしたんですよ。つまり、死んで間もない人の魂を器から剥がして、別の器に移植する」
「それで、人が生き返るって?」
「ええ、理論上ですが。この時、魂の一時保存にスプライトを使おうとしていたらしいです」
人が素材の器をもって人を蘇生するだなんて、正気の沙汰じゃない。外部の人間もよく信じられるものだ。下手な宗教よりよっぽど宗教じみている。
「もちろん、封印術科はその研究には手を付けてません。是非はともあれ、倫理や運用方針にも議論が必要でしょうから」
菊はそう言うが、件の職員が暴走したスプライトの人工生成も、魂の移植も、どちらも根本は政府の研究。政府も信用ならないというのが正直な印象だ。今もちゃんと手網を握っているのだろうか。
「器の移植の方は研究続いてるんですよね?」
「それはまあ……仰る通りです」
「そういえば、魂の移植は課題が山積みだったそうだよ」
不意に朝尊の声が飛んできて、松籟は顔を上げた。
「なんでも、魂と新しい肉体がうまく馴染まないのだとか」
「はあ……。まあ異物取り込んでんだし、そりゃそうなんじゃねえの」
朝尊は隣の机から椅子を持ってきて、菊と松籟の隣に腰かける。
「てか新しい肉体の元々の魂はどうなるんだ」
「取り除いて器を空の状態にしておく必要があるね。うん。それでも微粒な魂の欠片は残っているのかも」
「血液のようなものですからねぇ。合わない時は拒絶反応があるでしょうね」
菊がそう補足する。朝尊はマグカップに入れたコーヒーを飲んでいた。先ほど自分で豆を挽いてきたらしい。
「──破裂するのだそうだ」
そう零す朝尊の眼鏡が湯気で白く曇っていた。
「霊力同士の反発に耐えられず、先に肉体が爆ぜる。ああ、あくまでマウスでの結果という話だがね」
はれつする。耳に入ったその音を、口の中で転がして、飲み込む。
ごく、と乾いた喉が音を鳴らした。
「……その、例の職員、今は?」
「今ですか?解雇されて、記憶処理されましたが……という話ではなく?」
「どこにいるかわかりますか」
「…………」
菊と朝尊が顔を見合わせていた。
「会いたいんですか?」
「関係者も同時に処理をされたという話だったね。どうするつもりだい?」
菊の困ったような顔と朝尊の楽しそうな顔が対照的だった。
「相模の事件の手がかりになりそうですか?けどその人はもう何も知らないと思います」
考えるよりも先に口が動いた。
「じゃあ、当時の処理の記録、探してもらえますか?」
「え」
「該当の職員、出向先の企業、その関係者と見なされた範囲、記憶処理の範囲、それくらいの情報は残っているはずですよね」
「いや、あの、それは……」
松籟は朝尊を見た。彼は殊更愉快そうに顎をさすって、マグカップを机に置いた。
「松籟くん。人体実験の違法性は、実験の有効性、方法の安全性、倫理性などから総合的に判断される。中でも重要視されるのは被験者からの同意取得の有無だ。これがないと違法性有りと見なされて、素行調査庁に拘束される。逆に言えば、同意さえ取れていればそれは正式な臨床研究となる」
妙にかしこまって述べる朝尊に松籟は片眉を上げる。
「ところで話は変わるのだが、最近僕たちはアンドロイドの聴覚ユニットの改良を試みていてね。君の聴覚をモデルにしたユニットを作成してみたいのだけれども。いいかな?」
そういうことか。
松籟は半目で答えた。
「……もう作ってんじゃないのかよ」
「まさか。いつか作りたいと思って、チューニング記録を保管していた程度だよ」
「てか聴覚つっても、実際に扱う情報は周波数だろ。俺に許可取る必要あるのか?」
「いやいや。情報はどう処理するかまで設計しないと意味がないからね。レビューに君も参加してもらいたい」
「……それは臨床研究か?」
「君が許可してくれればそうなるね」
朝尊は搾取的な取引をしない。無理難題を押し付けるわけではないし、成立すればちゃんと見合いの対価を寄越す。確かな情報が手に入るのなら、断る理由はない。
ただ、即答してやるのは癪だった。
松籟開いた両膝に両手をつき、項垂れて数秒沈黙したのち、顔を上げた。
「はぁ。しゃーねーな。協力する」
「ありがとう。それじゃあこの依頼書を渡しておこう」
どこからともなく取り出した一枚の紙と万年筆を受け取る。
「というわけで菊。処分の記録の方は任せたよ」
「ど、どういうわけですか!?勝手に取引を成立させないでください!」
「調べものはアンドロイドに頼むだろう」
「う、うーん、確かに素行調査庁にも一機アンドロイドを出していますが……私たちは彼らの業務には干渉しない決まりで……」
「はいコレ」
目を白黒させる菊を他所に、松籟は朝尊に今日付けの許諾書を差し出した。
「うん。確かに」
「………」
菊は唖然としていた。
眉間を揉んで、しばらくしてから口を開く。
「……解雇になった職員は、行動監視までは行っていませんが、現住所くらいは記録があるはずです。それくらいなら、当時の上司辺りが把握しているでしょうから、……私が聞いてみます」
「お」
「それから、当時の処理については、うちのアンドロイドに調査してもらいます。といってもどこまで調べられるかわかりませんが……」
「オーケー。期待しとく」
菊は何か言いたげな顔をしたが、やがて軽く息を吐いた。
「事件が早く解決するといいですね」

「随分長話してたな」
松籟が流しでビーカーをゆすいでいると、肥前が隣に並び立った。
「まーな。その分収穫はあったぜ」
「そうかよ」
「朝尊に仕事取り付けられたから、多分また来るわ」
「あぁ?なんのだ」
「アンドロイド用の耳、見てほしいんだと」
「……あれか」
思い当たる節はあったらしい。”あれ”などと聞くと既に実物が生まれている気がしないでもないが、聞かなかったことにしてやろう。
「先生が面倒かける」
「大したことじゃねえよ」
「多いだろこういうの。変声機も結局あんたが調整した」
「そういやそうじゃねーか」
松籟が笑うと肥前は目をすっと細めて、視線を落とす。松籟の持つビーカーを引き取って、水切りカゴに伏せて置いた。
「あんたも大概物好きだな」
「ハア?んだそれ」
「別に。満足してんならそれでいい」
「あ、そ」
すげない態度の肥前に、松籟はそれ以上追求しなかった。
そうして沈黙が落ちる。
背後では菊と朝尊が話し込んでいる。人型がどこに配属されているとか、彼らへの接触方法がどうだとか、情報収集に必要な整理を色々。
「松籟」
ペーパーで手を拭いていると、隣に意識を引き戻された。
「なんだ?」
長い前髪の隙間から赤い眼差しがちらついている。
呼んだくせに肥前は口を開かない。視線を外すのも違う気がして、く、と眉間に力を入れて迎え撃った。
やがてぼそりと呟きが落ちる。
「鍋」
松籟は水切りカゴを見た。鍋は置かれていない。松籟が使ったビーカーと試験管が数本刺さっているだけ。
「なんでもいい。鍋が食いたい」
松籟は肥前を二度見た。
今、鍋が食いたいと、そう言ったか。
そういえば、最後に肥前に飯を食わせたのは、ひと月ほど前になるか。
毎度呪捜を訪ねてきた時の要件のついでなので、腰を据えてというよりは一口で飲み込める物を出すことが多い。握り飯とか、餃子とか、金平とか。鍋の中から鶏団子だけ掬い出してやったこともある。
その鍋をまるごとという話をしているのか。
「ふは」
思わず漏れた息に、肥前の眉間にシワが寄った。
「はは、わーったわーった。寒くなってきたしな。今度ウチで鍋パするか」
そう言ってほとんど高さの変わらない肥前の肩を抱く。鬱陶しそうにじろりと睨め付けられた。
そうと決まれば何鍋にするかだ。すき焼き、水炊き、おでんにしゃぶしゃぶ。肥前は肉が好きなようだが、煮込めば野菜も魚もそれなりに食べる。肉多めの寄せ鍋でもいいかもしれない。
鍋の具に思いを馳せていると、肩に回していた腕を持ち上げてするりと抜けられる。
「あ、待て何鍋にすんだ」
「あ?……作る時呼べ」
「オイ買い出しあるんだよ」
「なら俺も行く」
肥前はそれだけ告げて、返事も聞かずふらりと遠ざかっていく。
松籟はしばらく顎を落としていた。
本当に、珍しいこともあるものだ。

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