2月
11,653文字
焦げ茶色のハンチング帽を引き下げて、ウール生地のコートを翻す。ウインクした先には二人の友人。
「うさんくさ」
数歩遠のいて全体を見渡した亨は、その一言でばっさりと切り捨てた。
「辛辣だな。幼なじみフィルター外して見てよ」
「んなもんはない。始めから」
まあ、まるで別人のように見えるということなら、目的は達成されているのだが。
不法侵入──もとい審神者生活区域へ訪問するに当たって、審神者らしい格好を準備することにした。郷に入っては郷に従えというやつだ。
審神者らしさとは、と考えを巡らせた時に、始めに思い付いたのが和装だった。浴衣くらいは持っていたが、もう時期年も暮れる寒空の下では心許ない。そこで当時の流行を知る古物マニアの教授、コスプレが趣味だというサークルの友人、祭り事の気配を察知した姉など、その他数人の手を借り和装一式を揃える。中々馬鹿にならない額が飛んだが、たまの散財くらい許されたい。
仕上げに和真を亨の居室に呼び、着付けてもらって今に至る。
和真は顎に手を当てて見分してくる。何やら痒いところのありそうな顔だった。なんだ二人して、素直に褒めればいいのに。
やがて合点がいったようにぽんと手を叩く。
「学ランだ。学ランを羽織ろう」
亨があー?と上を向く。ああ、『始まった』。
「……和真さん?」
「こう、くっつける感じで」
「どこに」
「肩に」
「どこの番長だよ!」
「そう、スケバン」
淡々とした宣いに横からヒャハハと高い笑い声が重なった。しっかり想像したらしい。
たしかにスタンドカラーのシャツに着物と袴という組み合わせは書生を意識したところがあるし、袴はプリーツスカートに見えなくもない……おい、誰が不良学生だ。
「しかもそれ女の子だし」
「そのコート重そうだからな。学ランなら風に靡くぞ」
「靡かなくていいよ寒いし!まぁた何に影響されたの君は!」
目の前から返答をもらう前に、とんとん、と後ろから肩を叩かれる。
振り向けば目を細め、したり顔の亨がいた。その手にガムテープと学ランが掲げられているのを認め、頬が引き攣る。
「ばかばかばか生地が傷む!」
「あ?じゃあ安全ピンにするか」
「違う!着ない!着けないよ!」
俺を無視して被せた学ランを今度は和真が前から整えている。
と、その眉間に微かにシワがよった。
「小さい」
「え?あー……亨のだから……」
「肩パッドが歪む」
肩幅に合わなかった学ランが浮いてくる。ぎゅ、と俺の肩を縮めてこようとする和真の手と攻防を繰り広げていると、横から学ランを剥ぎ取られた。
亨が苦虫を噛み潰したような顔でこちらを見ている。
「……中学生の制服だからしょうがないよ」
「てめえ10秒前の発言思い出してみろ」
「亨そんなに背伸びたか?」
和真は亨の頭から手のひらをスライドさせて自分の鼻のあたりと比べている。ついでにとばかりに俺も測られた。
「くっそー高身長さんめ。自分の基準で測るんじゃありません」
「ははは」
いけしゃあしゃあと笑っている和真は無言の亨の頭をぽんぽんと撫でた。
少し哀れに思ったので労りの声をかける。
「大丈夫?」
「……」
濁った掛け声と共に足が踏み降ろされた。
「イタタタタ!サンドバッグにされた!」
昼下がり、絶妙に眠気を誘う冬の日差しが背の高い窓から入り込んでいる。L字型の黒いソファーがほどよく熱を吸収していて、角に頭を預けて寝転んでいる亨は案の定うとうとしていた。
俺はその向かいの腰掛けに、和真はソファーの短辺の方に座っている。中央のローテーブルにはティッシュとラムネ、チョコ、のど飴など細々した菓子が転がっていた。昼食の宅配がくるまでの繋ぎである。
つい先程おろした和服は、着ていると重いので既に脱いでボストンバッグに仕舞った。軽くなった肩を回すとぱきりと関節が鳴る。
「じゃあこれ、通行証。渡しておく」
「お、どうも」
和真はジャケットのポケットから白く光る輪を取り出し、こちらに寄越してくる。
渡された通行証とやらは、バングルの形をとっていた。細身の銀色に一粒のボタンが埋め込まれていて、その周りには鋭角的な紋様が入っている。無機質で洗練されたデザインだった。自分が持つには少々上品すぎる気もするが、シンプルなのでどんな服でもそれほど浮きはしないだろう。
「こういうとこは現代チックなんだ」
「デザインは色々あるな。中のデータが登録されているものと一致すればなんでもいい」
角を挟んで和真はラムネを口に放り込みながら説明する。
横の亨は既に偽造の通行証を譲り受けて街を闊歩しているためか、我関せずで寝息を立て始める。
リングを手で弄んでいると、ふと思い至ることがあった。
「……誰の情報が登録されてるの?」
「架空の人物だな」
「へぇ……」
確かにそれなら情報が二重にならず、なりすましを犯す必要も──
いや待て。
宙に浮いた言葉を頭の中で反芻する。架空の人物。存在しない人間。
顎がすこんと落ちた。
「はぃ!?」
「といっても、全くの架空でもなくて。歴史を保全する過程で、データだけ残して"消えた"人間のことだ」
その言葉を聞いた瞬間、背筋に怖気が走った。
「……は?亡くなった人?」
和真はほんの少し瞼を持ち上げた。
「あー……えっと……、死亡が明確に確認されている人の身分は、さすがに使えない。消えた、というのは、歴史の狭間に落ちた人間、『間人』という人達のことだ」
「……あわいびと」
「歴史に……異常が起こったときに、時間軸に歪みが生じることがあって。そこに飲み込まれた人間は存在を消されたり、逆に歪みから新たな存在が生まれたりする。不完全な形で」
審神者が歴史を守る任を受けていることは知っているが、具体的な仕組みや手法は分からない。時間軸に生じる歪みというのも、いまいち想像がつかなかった。和真が言うのだから確かに存在してはいるのだろう。しかし理解できるかはまた別の問題だ。
「それらの人を俺たちは間人と呼んでいて、間人の中には、存在していた記録だけ残されている者がいる。……使ったのは、そういう人のデータだよ」
理解の範疇を超えたそれは、不気味だった。
「……なんか、怖いね……」
「ん、……まぁそうだな」
思っていたより気味の悪いものの身分を拝借しているようだった。
悪事が暴かれた時のことはあまり考えたくないが、暴いた誰かもとんだホラーに見舞われることになるのではないか。消えたと思っていた人間が依然この世に存在しているというデータを目の当たりにするのだから。
目の前で淡々と説明する男は、そういう事象は慣れっこなのだろうか。あるいは感覚が麻痺しているのか。それとも、目を逸らしているのか。
「うわっ」
ぱん、と膨らんだ風船が弾けるような感覚があった。針を刺した声の主である和真を見れば、彼はソファの上で半分腰を浮かせた体制のまま固まっていた。
その首が向いている先には人差し指が突き出されていて、指の主を辿れば眠たげな飴色の瞳と視線が合った。
何となく目を逸らせずにいると、ふい、と亨の方から外される。ゆったりとした動作で起き上がり、何事もなかったかのようにラムネを振ってティッシュの上に広げ始めた。
「…………え?何?」
問いかけには和真が振り向いた。
「つつかれた……」
「…………」
和真は太腿をさすりながら、中途半端に浮いていた腰を下ろす。
どうやら横から指を突き立てられたらしい。寝てるかと思えばしっかり起きていたようだ。
亨はラムネを星型に並べている。星の端を和真が摘み上げる。その指をじとりと睨みつけて、しかし諦めたのか別の星を作り始める。まるで何でもないことのように、目の前の白い粒に意識を割いている。
──いや、実際何でもないことなのだ。
二人にとってそれは、とっくに飲み込んだ出来事で、驚くべきことではない。喉に引っかかりを覚えているのは俺だけだった。
けろりとしている二人を咎めてやろうかと思ったが、なんだか先の話題はもう流れてしまった気がした。泳いだ手の収まりが悪くて、チョコレートの袋に手を伸ばす。
包みを開き小さな玉を口に放れば、ひとまず不穏な思考は宥めることができた。こういう固形の物はいい。小腹が空いた時に何粒か摂取するだけで満足感が得られる。最近亨の部屋に常備されているが、ようやく亨も甘い物の良さに気付いたらしい。
つられたのか亨も袋に手を突っ込む。包みを開いては口に放るのを四、五回繰り返して微妙な顔をした。それぞれ別の味が付いてるからそりゃあそうなる。
視界の端で、和真は包みを開いて中のチョコレートを入れ替えていた。ねじって包み、大元の袋に戻すのが見えた。
そして彼は何事もなかったかのように、そうだ、と切り出す。
「それ、少し改造しててな。生体認証用にデータ主の霊波が出るようになってる」
「……霊波ぁ?」
「個々人の持つ波動だ。代わりに装備主の霊波が妨害されるようになってるから、使わない時は電源を切るのを忘れないでくれ」
「あ、はい……このボタンね」
試しに小さなそれを押し込んでみると、紋様が青く点灯した。
「おー、これでオン?」
「ああ」
「電池は?」
「ソーラーか霊力。人工光でも回復するから、明るいとこ置いておけ」
「おっけー」
白い照明を反射して鈍く光る銀色。ここから今も霊波とやらが発せられているのかと不思議に思う。
二人は感知してるのかと顔を上げてみるも、どちらも素知らぬ顔だった。
「なんか出てんの?これ」
「出てる出てる。こもった」
亨に聞いてみると、何とも主観的な感想が返ってきた。
「こも……え……?いつもなんか鳴ってんの俺……」
「あー?あー、うん」
「説明する気ないね?」
亨に問うのは諦めて首を回す。
「和真は感じないの?」
「ん?……うーん、ちょっと冷えた感じはする」
「……どゆこと?」
「……ろうそく?の周りに氷詰めた感じ」
「それはそれでなんかいい感じでは」
腕輪一つでそこまで変わるものなのか。
軽く天を仰いでいると、急に隣で亨がむせた。
「味分かるか」
「っお前か!わかるわ!ぜってぇオレンジじゃねぇ」
「何味だったの」
「……バナナか?これ」
「バナナらしい」
「覚えてないんかい」
オレンジと書かれた包みに入っていたのは果たして何味のチョコレートだったのか。知る者はいない。
無心で糖分を口の中で溶かしていると、はたと気付く。
霊波とやらに関して、地獄耳の亨はさておき、和真は随分抽象的な表現である。察するに波動の質のことなのだろうが、それすなわち、和真の思う"天野佑星"なわけだ。
ろうそくと言われて悪い気はしない。妹が時々使うアロマキャンドルは中々にいいものなのでわかる。
「うわ、顔がきもい」
「ええ?まあまあわかってますよ、風情ある癒し系だってことですよね」
「煙たいの間違いだろ」
「丑の刻参るぞ」
「行くな」
心底嫌そうな顔で突っぱねられる。心配せずとも蝋が頭に垂れてきそうなのでやらない。
「そういう亨は?亨はどんな感じなの」
自分にはわからないのでわかりそうな方を向けば、和真がぱちりと一つ瞬きをした。余計なことを聞くなと言いたいのか、亨は無意味な語音を発している。
和真はああ、と頷いてから答える。
「松の木。松ぼっくりの松な」
亨が目に見えて脱力したのがわかった。
「またそれか。ただの苗字だろ」
「ただの、ということはないよ。名は体をあらわすから」
不満げな亨。また、というと、前にも聞いたことがあるということか。
「へー。なんでまた」
和真は少し上を向いて、言葉を持ってくる。
「……うん、ブレないだろ。ぴったりだと思って」
「あ?」
なるほどたしかに、と思う。
亨はずっとこうだ。釣れず靡かず、ただただそこにある。
言われた当人は、しばらくもにょもにょと口を動かしていたが、どうやら及第点だったらしい。ケッと喉を鳴らした。
買い物待ちの間、手持ち無沙汰だったので手首をいじっていた。
すっかり見慣れた細身の腕輪を覗き込む。円の向こうにキーホルダーを物色する和真が映った。
青みがかった黒髪に白い粉が残っていることに気付いて軽く払ってやる。余程真剣に選んでいるのか、反応はなかった。
結界で覆われているという区域にも、雨は降るし雪は積もる。こぢんまりとした屋根の立ち並ぶ商店街は、粉雪に薄く覆われていた。
通行証を受け取って早二ヶ月。年末年始は和真が忙しかったので、少し間を置いて予定を入れた。大学が春季休暇に突入したのも丁度良く、今回は実に三度目の訪問であった。
三度とも万屋街という区域に点在するらしい商店街を案内してもらっているが、今回は少し洋風色の混ざる、ハイカラな店構えが多い通りだった。一口に万屋街といっても、街それぞれの特色があるらしい。
腹を括り堂々としていた甲斐あって、特に視線は感じなかった。往来を行く、目が焼けるほど整った容姿を持つ男共。さすがの顔面偏差値の中では俺も埋もれてしまうらしい。横を過ぎる人がよそ者かなんて、誰も気にも止めやしない。気合いを入れて身支度をした身としては、それはそれで寂しいのだが。
まだ浅い知見なりにわかったのは、別に皆が皆和装ではないということ。スーツに制服、チャイナ服からロリータファッションまで、その層は幅広い。思えば亨は近所のコンビニにでも行くようなジャージ姿で通路を潜っていた。気付いていたなら教えてくれればいいのに。
その亨は新しく始めたらしいバイトで不在。本日は和真と街を見て、夕方食事処に三人集合する予定だった。
和真は金具に引っ掛けられた革のキーホルダーを指で掬う。
「買っちゃえよ」
腕をくぐるようにして下から覗き込むと、ようやく目が合う。
「……ああ、悪い。ぼーっとしてた」
「あら。悩んでたんじゃないのか」
体を起こして、棚に並ぶキーホルダーを見る。彼の前には、楕円形のプレートや、ストラップ型の革が付いたシックなデザインの物が並んでいる。
和真は煮え切らない返事をして、持っているキャメルの革を壁に戻す。
内心首を傾げた。どうにもそわそわというか、ぐずぐずしている。選択肢が多いからかとも思ったが、彼は最初に手に取った物をそのままレジに持っていくことが多い。どちらかというと吟味して待たせるのは俺の方で、さっさとしろと亨にケツを叩かれることも少なくない。
「色々あるねえ」
「そうだな」
「買わないの?」
「あー……」
和真は言葉を探すように視線をうろつかせてから、ようやくこちらを見た。
その眉間にはしわが刻まれている。
「鍵もらっただろ。亨の部屋の」
全く予想しなかった方向からの切り込みに、二、三瞬きをした。
一月前、亨は引っ越しをした。
住み始めて一年も経っていないアパートの契約を蹴ってもぎ取ったのは、駅近の鉄筋コンクリートマンションだった。何やらバイト先が提供している寮らしく、広さはこじんまりしているが、中々の好条件な物件だった。
そのバイトは、今まさにこちら側で行われているやつだ。
今まで一緒に一般人をやってきた亨が、いきなりあちら側(今はこちら側か)に行ってしまったことに何となく腑に落ちなさを感じるも、亨にとって居心地いい職場ならばいいと思う。今まで何かと苦労してきた分、少しくらい良い思いをしてもバチは当たらないはずだ。怪しい話に騙されていて、後々借金まみれ……なんてことにならないことを祈る。
鍵の種類はシリンダー錠だった。カードキーや生体認証による施錠が主流となってくる中、今時鍵穴による施錠は珍しい。寮とはいえ、特別古い作りというわけでもなさそうだった。……なんだか怪しい気がしてきた。色々不可解なことが点在している。
亨が俺と和真にスペアキーを渡してきたのはつい最近だ。曰く、適当に溜まり場にして構わないという。いざという時は開けに来い、だなどと人遣いの荒い所望も受けた。まあ確かに、オートロックの建物で鍵を忘れた時の絶望は計り知れない(管理会社という救済措置があるとはいえ)。
「ああうん、もらったね」
キーホルダーのかかる壁と和真の横顔を見比べる。もしかしてそれに付ける物を買おうとしているのか。人からもらった物を丁重に扱うのはいいことだ、と一人頷いてみる。
「それ用?」
「……そう思ったんだが」
そう言ってまた言い淀む。妙なところで言葉を切るので、焦れて肘で小突いてやると、和真は観念したように呟いた。
「俺が持ってていいのかと……」
しばしの沈黙が落ち。
はっと意識を取り戻す。
尻窄んでいく声を拾って再度頭の中で組み立てて、
「──はあ?」
素っ頓狂な声が出た。
俺が持ってても、主語は和真、となると目的語は鍵か。
何を言い出すかと思えば、この期に及んで何の心配をしている。よりにもよって亨相手に。
「なんで、いや、なんでだよ」
「だって、佑の方が家近いし、十分だろ」
「はいぃ……?」
たしかに、鍵の保険面では俺が呼ばれることが多いだろう。何せ近いし、暇だ。フットワークの軽さにはそこそこ自信がある。雑用を任されれば雑に絡みにいく。
しかしこの男。亨の本意がそこではないことなど一目瞭然だろう。何を自信喪失しているのか知らないが、的外れもここまでくると呆れしかない。
猫背の体をこちらに向かせ、がしりと肩を掴む。
「……あのねえ和真、うそだろ和真。君はもうちょっと、言葉の裏ってやつを読んでもいいと思うんだよね」
和真はきょとんとしてから、微かに眉根を寄せた。
「亨に裏なんてあるのか」
「ないよ。よくわかってるじゃんか。裏っていうか、言葉にしてない部分ってこと。延長線上のその先よ」
「その先で君を待ってる……?」
「歌詞?じゃなくて」
額に手を当てて考える。今更わざわざ言葉にしなくても察しているものだと思っていた。付き合いたてのカップルでもあるまいに、何でもかんでも口にするものか。ましてやあの亨だぞ。想像するだけで──いや、想像したら殺される。
でもそうだ。亨のあれは彼なりの"好意"で。
一度懐に入れた相手に、惜しみなく自分の領域をさらけ出す──あの素直さに決まりが悪くなることも少なくない。
「溜まり場にしていい、というか、してほしいんよ」
自分で言っておいて、いざ言葉にするとどこかむず痒さを感じる。何を言わされているんだろう、と思ったがボケた男相手なのでまあ気にしないこととする。
掴んだ肩をばしんと叩いて壁を向かせる。難しく考えずにとっとと買えばいいのだ。
和真はなんとも言えない表情をしていた。微妙に納得いってないような、拗ねた子供のような顔。
おや、と首を捻る。火力が足りなかったらしい。まだジメジメと湿気っている。
もう一発いってやろうかと腕を上げた瞬間、和真は小さく息を吐き、顔を片手で覆った。
「佑は、亨の気持ちと自分の気持ち、同じだと思うか」
「え」
指の隙間から横目で俺を見つめてくる。
助言を求める目だった。自分の中で煮詰めに煮詰め、沈んでいきそうなのを引き上げてほしそうな。ぼやきから一転、観念したように投げかけられた言葉に、自然と背筋が正される。
どうやら本格的に参っているらしい。
壁を見つめ、一旦頭を冷やす。
亨のような眩しい好意を、俺も同じように亨や和真に向けているかと言われれば、答えは多分ノーだ。
でもそれは、彼らが嫌いだからではない。"天野佑星"がそういう人間だからだ。
「いや、違うでしょ。全く同じ気持ちなんて恋人でも、夫婦でもありえないよ」
きっぱりと言い切ると、和真は少し面食らったようだった。
「そうなのか」
「どれだけ仲良くても、別の人間だからね」
好意の抱き方も表し方も、人によって様々だ。人には人の好意がある。同じである必要はない。
「別の……、そうか」
まあ、わからなくはない。同じになりたいという気持ち。同じになれないなりに、同じであろうとする気持ち。それを繰り返して人は歩み寄っていくのだろう。
「でもさ、和真が気にするほど違くもないと思うよ」
特に二人に関しては。彼らは素直なタイプだと思う。こちらが恥ずかしくなるくらいには。もらった鍵も、何やら迷走しているようだが嬉しくはあるのだろう。ちなみに俺はまりものキーホルダーを付けている。
しかし何を以て今更、違いだなんて気にするようになったのか。
同じでなくても十分上手くやっているではないか。なんだかんだ付き合いも続いているのがその証拠である。
「そうだな、十分、似てる」
和真はゆっくりと言葉を噛み締めている。まるで自分に言い聞かせるように。
和真は再び革を手に取っていた。
「……あのさ、何かあった?」
尋ねるのは、ごく自然なことだ。
和真は核心的なことを言わない。その眉間の皺がいつまで経っても読めなかった。だから聞いた。聞くことにした。
「何もないよ。このまま、……このままだ」
ふ、と皺が解けて、一人柔らかく笑う。
キャメル色の革を中指が撫でて、俯いていた顔が上がる。
あれ、と思った時には、和真は既にそこにいなかった。
雑貨屋の喧騒が耳に戻ってきて、そういえば買い物していたのだと思い出す。棚の間から会計をする和真の背中が見えた。
なんだろう、今の反応は。
何を納得したのか。いや、納得させてしまった、気がする。
もしかして、本当に何かあったのか。俺の知らないところで。
喧嘩をしたとは思いにくい。それならそれで、はっきり相談してくるからだ。ぶつくさ文句を垂れていたかと思えば段々勢いをなくして泣き付いてくるまでがセットで、毎度この流れ飽きないのかなと思いながら聞いている。当の亨は一回爆発したらすっかり忘れていることが多いのだが、まあそれは一旦置いておくこととして。
何もない。劇的な何かがあったわけではない。それでも、徐々に、何かが変わり始めている。
一体どこへ向かっているのか。問い詰めてみようか。いや、言わなかったのが"答え"だ。俺には言えないとか、関係ないとか、そんなところだろう。別に全て打ち明ける必要はない。そりゃあそうだ、俺だって全部話すわけじゃない。何でもあけすけにぶちまければいいというものでもない。そう、だから勝手にすればいい。
見ていた丸っこい鳥のキーホルダーを棚に戻し、手で頬を揉む。
なんだか、
面倒だな、と思った。
ぱこん、と小気味よい音が響く。一定のリズムで繰り返されるそれに、ラリーは平和に続いていることを察する。一つ下の新入生女子組が元気よく声を張りながら、互いの打ちやすい場所に、時にいじわるな場所にボールを打ち込んでいる。あの二人は経験者だと言っていた。ちゃらけた目的でサークルに所属する俺などとは違い、純粋にスポーツを楽しんでいるのだろう。
大学のグラウンドから少し低い位置に陣取るテニスコート。中央を手すりで隔てる階段に座って空を仰ぐ。
ぼう、と惚けていると、逆さまの亨が視界を遮ってきた。
「まーた別れたのかよ」
ご愁傷さま、とにやけた声と共にアルミ缶を手元に落としてくる。両手で受けて握り、つめたい方のココアだとわかった。運動場には似つかわしくないが、ちょうど甘い物が飲みたかったのでありがたくいただくことにする。
「聞いてたの」
「聞こえんだよ」
「立ち去りなよ」
「なんで俺が気ぃ使わなきゃなんねんだ」
あっけらかんと言い放って、亨は手すりに寄りかかる。俺の方が上の段にいるとはいえ、そこまで堂々と人の真ん前に立つものだろうか。再び空を仰ぐ。
気温が高くなるに連れて、空の青さも増していた。なんで夏の空はこんなに明るいんだろう、と思う。太陽近いからじゃね、と脳直の感想を言われて、口に出していたことに気付いた。
「太陽あると、みんな元気になるよね」
「干からびてるやつもいるぞ」
熱したつむじを押し潰された。情緒もへったくれもない。
ココアのプルを引いて中身をちびちび啜る。しばらくそうしていると、頭上から佑星、と呼ぶ声がした。
「なんも言わねえのな」
急に落ちたテンションと咎めるような物言いに、少し面食らう。何をだろう。さっきの別れ話の詳細でも聞きたいのだろうか。
「聞きたいの?」
「……ちげえよ。俺じゃなくて、カノジョに」
「彼女……?……ああ、そういうこと」
あっさり別れを受け入れたことに対して、疑問があるらしい。
意外と人の色恋沙汰に興味あるんだな、と思った。
亨は自分からはそれほど下世話な話をしない。小学生レベルの下ネタは言うものの、それ以上の猥談はもっぱら周りが流したネタにツッコミを入れるか、酒が入っていればケラケラ笑っているかのどっちかだ。ウブと評したら笑顔のままヘッドロックをかけられたこともある。
猥談と恋バナは別物なのかもしれない。
「だって俺のこと好きじゃなくなっちゃったみたいだし、しょうがないよ」
何か言っても未練を煽るだけだと思う。既に腹を決めてきているのに、引き止めるのは無粋だ。
呼び出された校舎裏、夏でも木陰のできるベンチ。少し寂しげな顔で見送ってやれば、彼女はぐしゃりと顔を歪めて走り去ってしまった。別れ際にはよくある事だ。終わる時になって、楽しかったことばかり思い出してしまう。
快活だけどちょっとウブ。相手を試すような子ではなかったから、本当に別れる気で会いにきたのだろう。尚更引き止める理由がない。
まあ、強いて言うなら、そろそろだとは思っていた。
人を知ることは楽しい。自分にないものを持つ相手と関わることで、世界は色を増していく。それこそ例えるなら、絵のように。絵なんてバイト先のウェルカムボードくらいでしか描かないから、大層なことは言えないが。
いつだって、真っ白なキャンバスに初めの一筆を置く瞬間が一番楽しいのだ。
とうに絵は出来上がっていた。あとはそれが色褪せる前に、額縁に飾るだけ。
隣で馬鹿でかいため息が聞こえた。
「てめえはよ、いい加減……」
そこまで言って口を噤む。珍しく中途半端に言葉を切るので、俺も気になってそちらに身を乗り出す。亨が見つめる先には、何の変哲もなくテニスの試合が続いていた。
気を取られたのではない。思わず口走った言葉を飲み込んだのだ。
「……なに、俺がどしたの」
聞いたのは、亨が渋い顔をしていたからだ。亨は普段歯に衣着せぬ物言いをする。その彼が言い淀むとは一体どれほどの罵倒なのかと一抹の不安がよぎる。ええいままよ、みなまで言え。
「別に」
「え、何怖いから言ってよ」
「…………」
ゆっくりとした動きで亨は振り向く。何かを見定めるような視線がじとりと俺に纏わりついて、覇気のない呟きが落ちた。
「ソイツのこと好きじゃなかったろ」
はて、と一瞬思考が止まる。身構えた割には火力の低い小言だった。いや、遺憾ではあるのだが。まるで俺が彼女を騙していたかのような言い方をする。
「好きじゃなかったら付き合わないよ」
「お前のそれは"好み"じゃねえの」
そんな、何も外見だけで判断しているわけじゃない。彼女の真っ直ぐな性格は好ましかったし、今も嫌いになったわけではない。ただ、いずれ来る終わりが今だっただけだ。むしろここ数年の中では大分マシな部類の別れ方だった。
「もっとあんだろ、好きだったら悔しいとか、寂しいとか」
そこまで聞いて、自分の片眉が釣り上がるのを感じた。
ああなるほど、フラれた俺の心配をしているのか。らしくもない。ご愁傷さまとにやけていた面はどこにいったのだ。
「ええ、なに、失恋でもしたの?」
笑いながら軽口を叩けば、きっと亨は押し黙ると思った。
「そうだな」
予想していた反応は、来ない。
「俺はそうだった」
亨はぺりぺりと炭酸飲料のラベルを剥がしている。途端に味気なくなったペットボトルの中身がゆらゆらと揺れていた。
「……は」
なんだそれ、聞いていない。
失恋。絵に描いたような傍若無人で、他人に興味がなさそうで、ウブでガサツで、でも意外と器用だったりする、この男が?
そりゃあ恋愛経験の一つや二つ、あったことは知っている。けれど、大体喧嘩別れだったとも記憶している。アイツ都合が悪くなったらすぐキレ散らかしてキンキン泣き喚きやがる、と目を吊り上げている背中を叩いた記憶があった。
相手と同じ土俵に立って、同じ感情を反射させる、そういう男だろう。いつ、誰に、どんなフラれ方をしたらそんな顔をするようになってしまうんだ。
いっそ痛くてたまらないという顔ならわかる。助けを乞う先なら目の前にあるのだから。
なのに今、まるで治りかけの瘡蓋を見るような凪いだ目をしている。
知らない。それは。
傷がついた瞬間も、形も、深さも、何も。
──ああ、でも、そういえば。
亨に彼女がいたことを知るのは、いつも別れ際だったっけ。
亨がそれ以上何かを語ることはなかった。
ただ言葉を失う俺の前で、手すりに寄りかかり、裸のペットボトルを呷る。
瘡蓋に触ってしまった俺に怒るどころか、自分で引っ掻くような真似をして、そうまでして、俺に打ち明けた理由を考える。
傷を癒してほしいわけじゃない。傷を見せることで、俺に何かを伝えようとしている。
俺がそれを知ったところで、一体何が変わるというのだろう。これで上手くやっているのに、一体、何を変えろと。今更、何も変わりも、変われもしないのに。
臓腑に流れる得体の知れない不快感を、冷えた甘味で押し流した。