ベルトコンベア
6,022文字
ざりざりとスニーカーをアスファルトに引きずる。二歩進んで三歩下がって、回れ右して一歩下がる。
薄く雲のかかる水色の空を見上げ、
「……どこだここ」
亨は白い息を吐いた。
──数分前、松風亨は通話をしていた。冷たい風の吹きすさぶ住宅街のど真ん中を歩きながら。友人である天野佑星と。
『ほんっっっと助かった。ありがとう、この恩は必ず』
「おー覚えとくわ」
大学の更衣室に落ちていたカードケース。開いたら天野の学生証が目に入ったので拾っておいたのだ。適当にメッセージを送れば下校中に電話がかかってきて、教授に怒られないですんだと非常に感謝される。確かにカードキーが複数枚挟まっていた。どれかがゼミ室のキーなのだろう。
「今日暇か」
『この後?うん、家』
「おし、今から行く」
『おっけー』
端末をジーンズのポケットに落として考える。
キャンパス内治安はそこまで悪くないため放っておいても学生課に届けられていただろうが、保護が早いに越したことはない。恩も売れてとんだ棚ぼたである。
さて何をねだろうか。コンビニスイーツでもたかるか──
話は冒頭に戻る。
「はあ……?」
考え事をしながら歩いていたせいで変な道に入り込んでしまったらしい。後ろを向いても既に見覚えのない景色しかなかった。背の低い一軒家の立ち並ぶ、車二台が辛うじてすれ違えるだけの幅の住宅地。大通りの駅に向かうのによく使う近道なのだが、角を曲がり損ねたようだ。
まあ来た方向に戻れば問題ないかとため息をつきながら、マウンテンパーカーのジッパーを首元まで引き上げる。
ここのところ急に冷え込んだ。12月も半ば、雪こそ降らないもののさすがの寒さである。薄い風よけ一つでは凌げそうにない。そう外に出る度思うのだが、結局いつも箪笥からダウンを引き出すのを忘れる。
少し早足になりながらいくつか角を過ぎる。一つ、二つ、三つ──
何度目かの角で、ふと足を止める。
歩いても歩いても、大通りどころか見覚えのある場所がない。それほど長くは通話していないはずなのに。
人ひとりいない静かな四つ角を渡る。まだ空は明るいが、それが逆に空虚さに拍車をかけていた。
「あ〜クソ……」
仕舞った端末を再び取り出す。マップアプリを使うのはなんとなく癪だった。通学路で迷うなんてとんだ屈辱である。
しかしそうも言ってられなくなってきた。何かがおかしい。この流れには覚えがある。
アプリを起動して現在位置を確認する。ピンは住宅街の中を指していた。場所は妥当で、やはりいつも曲がる角より奥の方面にいる。
亨は眉をひそめ、画面を見つめながら一歩踏み出す。
そのまま黙々と道路を進むこと数十秒。
ピンはびくともしなかった。
「……ふざけんなよ……」
薄々予想していた事態が明確に眼前に突き付けられる。
どうやら妙な空間に閉じ込められたらしい。道が増えているのか、引き伸ばされているのか、どこかで繰り返しになっているのか。仕組みはわからないが、とにかく外に出られないような構造になっている。
電波は繋がっているようだが、それがなんだというのだろう。衛星は『お前は動いていない』の一点張りで使い物にならない。どこかに連絡するにしても『異空間にいます』という報告にどう対処させろと。
まあ、何人か当てがないこともないが──
「だァクソ、腹減ってんだよこっちは」
頭を掻きむしりながら顔を上げた先、
黒い何かが見えた。
亨は、昔からよく不可思議な現象に見舞われた。いわゆる霊と呼ばれるものを見たり聞いたりする、ということだ。とりわけ音に関しては敏感で、姿はなくとも声を聞いたりすることがままあった。
およそ百メートル先、前方に立つのは黒い紳士服に身を包んだ背の高い男だった。帽子も被っているようだがよく見えない。
黒い男は、まるで亨に反発するように、あるいは先導するように、一定の間隔を保って歩いている。規則正しい足音が自分のそれとピッタリ重なるのが気持ち悪い。
しかし足を止めようとは思わなかった。それで男も足を止めたらどうするのだ。完全にこちらを認識していることが証明されてしまう。
うんともすんとも言わないマップ画面を睨みつけて、別の画面に遷移する。着信履歴から探すのは『亘顕吾』の文字。バイト先の上司である。
大変胡散臭い話ではあるが、亨は呪いを処理することを生業とする機関で働いていた。ひょんなことから機関の職員である亘と知り合い、あれよあれよと囲われたというか。なんというか成り行きだった。
色々大雑把で意地の悪い男だが、呪い関連では信用できる。知識も経験も能力も、多少の蛮行が許されるくらいには豊富なのだ。
多少の葛藤の末、電話をかけることにする。
『はい、亘』
相手は3コールで出た。
「あー……亘さん?まつ……松籟ですけど」
『おう。何か用か』
小声で名乗れば、電話の向こうから椅子がぎぃと軋む音がした。
機関には少し変わった制度が存在する。例えば、偽名を登録するとか。真名を用いる術から身を守るための慣習だということで、職員の半数ほどは使用しているらしい。
松籟というのはその偽名である。慣れないそれに口の中をパサパサにさせながら今の状況を説明する。
亘は特段慌てるでもなく、ああとかおうとか適当な相槌を打っている。まあ繋がっていることがわかるからそれで構わないのだが。ちゃんと話を聞いているのか一抹の不安がよぎる。『そうか、頑張れよ』でぷっつり切られた前例が数回あるので、内心気が気でなかった。
「どっかの角で曲がったりした方がいいすかね」
一通り説明し終わり、さてどうするべきかと問う。
『怖いならしりとりでもするか』
亨は盛大に顔を顰めた。
この人はこういうところがある。人の気も知らないで、飄々と高みの見物を決め込んでくる。馬鹿と煙は高いところが好きとは言うが、全くもって頼りがいのない大人であった。
「やりませんよ。いるんですよ目の前に、聞こえたら挑発もいいとこでしょ」
『縛りは"食いもん"だ。お前が食えるっていうならイナゴでもいい』
「いや、さすがに虫は生理的に無理、」
『よし、しりとり。ほら、お前からだ』
「は、はぁ……?」
……あまり気にしすぎるなということなのかもしれない。たしかに良くないものは良くない気に寄せられるというし、気が滅入ってしまえば普段できるような反応もできやしない。
亨はため息をついて、りから始まる食物を思い浮かべる。
「りんご……」
『不味そうに言うなよ。ゴーヤチャンプル』
「るー……え?ムズくね?」
初っ端から"る"を突き付けてくる亘のこれはわざとなのか、何も考えていないのか。しかも縛りが地味に痛い。
しばらく間が空いて、一つの菓子が浮上してくる。
「る、ルマンド」
『ふむ。……ドライフルーツ』
「つぅ〜〜?……つー……」
『ほら早く』
「まぁってくださいよ」
今まで食べたことのあるあらゆる食べ物を頭に思い浮かべる。食えない物が割り込んでくるのをちぎっては投げ、食欲を呼び起こす。
「……つくね」
もう随分前の話だが、かつてバイトしていた居酒屋には賄いがあった。刺身や揚げ物、鍋物にサラダなど豊富なラインナップで、今思えばかなり充実していた。
果たして先輩達はまだ働いているのだろうか。店長は相変わらずだろうか。そういえば辞めて以来全く行っていないが、あの味が無性に恋しくなった。
『おー、ネギたま』
「マーボー豆腐」
ぽつぽつとしりとりを続けながら道を歩き続ける。本当なら今頃、天野にたかって温かい室内で食べ物にありつけていたはずなのに。なぜ乾燥していく鼻の痛みに耐えているのだろう。
『福神漬け』
「ケーキ」
甘いものはクリーム系を啜るのが好みである。くどい甘さは考えものだが、あの滑らかな喉越しは良い。シュークリームとかカスタード入りの今川焼きとか。天野がよくコンビニでスイーツを買っているのに影響されたのもある。
食べ物全般ならラーメンとかピザとかがっつりしたものが一番好きなのだが、昔ほど胃が強くはなくなってしまったので控えざるを得ない。
『キムチ鍋』
亘はすぐさま甘い物の空気をぶち壊してきた。ちなみにキムチは苦手である。帰ってほしい。
「紅しょうが……、」
ふと違和感を覚える。
変わらず亨の前を歩く黒い男。先程まで見えなかった帽子の形が鮮明に見えるようになってきたのだ。
円筒形のあれは恐らくシルクハットだ。平凡な住宅街にはあまりにも場違いなそれに気味の悪さを覚えた。
というか、つまりだ。
「あのー亘さん?距離詰まってきてる気ィするんですけど……」
『がんも』
「聞いてます?」
『曲がればいいんじゃないか。がんも』
「モナカ……」
いいんじゃないかって、随分投げやりな反応である。
しかしいくらか平静を取り戻したのも事実なので、何か試してみるにはいい頃合かもしれない。
一定のリズムで、なるべく減速しないように次の角目掛けて端に寄っていく。黒い男の背を目の端に捉えながら、四つ角を左折しようとした。
男はぴたりと足を止めた。
ぐわりと頭に血が上る。どくんと全身の血管が跳ね上がって、弾かれたように走り出していた。
「──ちょっとちょっとちょっと!!どうなってんだマジで!!」
『鰹』
「言ってる場合か!!」
『お、だぞ松籟』
「っオムライス!!」
『すき焼き』
角を曲がり、なりふり構わず全力で走り抜ける。自分の足と心臓の音に混じって、背後からこつこつと硬い足音がしていた。
「追われてんすけど……!」
『すき焼き』
「聞こえとるわ!そうじゃなくて」
『すき焼き』
「っは、」
『すき焼き』
まるで機械のように一つの単語を繰り返す端末に寒気を覚える。小さな音のはずなのに、わんと頭の中で反響しているような気がした。
「き、きりたんぽ……」
『ポークリブ』
別の音が返ってきたことにほっとしながら、なんでアンタにビビらされなきゃなんないんだと正気に戻る。
「豚ど……」
あ、"ん"付くなとすんでのところで耐えた瞬間、
首筋にぞわりと怖気が走った。
閉め忘れた扉から隙間風が入り込んできたような、ひやりと肌を撫でる感覚。
絶やしてはならない、本能的に察知した。
その時ようやく理解する。
ああそうか、これは、
結界なんだ。
冷たい汗が額を流れ落ちる。さっきから熱いのか寒いのかよくわからなくて気持ち悪い。
『何だって?』
亘が先を促す。
「……、……ぶたにく!!」
『よし、クルマエビ』
ちりんと、安い鈴の音が聞こえる。
気が付くとそこは見慣れた四つ角だった。
小学生の自転車軍団が、ちりちりとベルを鳴らしながら横切っていく。ふと顔を上げれば、空はもう日がほとんど沈んで、薄い青と黄色のグラデーションを作り出していた。
『お疲れさん。なんか食うか?』
電話口から聞こえた声は、心做しか優しげなものに思えた。ついに自分も焼きが回ったか、と亨は半ば呆然としながら答えた。
「いや、先約あるんで……」
『ほんと清々しいなお前』
住宅街から大通りに出て、自宅や天野宅方面へ向かう駅に入る。幸い帰宅ラッシュよりは早かったようで、人混みに揉みくちゃにされることは避けられた。
腰の辺りに振動を感じる。ジーンズに入れた端末だった。
「ん?あ、そうだ連絡」
そっちに向かうと言ってから随分時間が経ってしまっている。この駅から大体20分あれば天野の家には着く。いくらなんでも2時間はかかりすぎだ。
通話していたので気付かなかったが、相当心配していたらしい。おびただしい量の着信履歴とメッセージでロック画面が埋まっている。
そのうち一つをスライドして天野に電話をかける。
2コールで繋がった。
『亨!?今どこ!?』
音は二重になって聞こえた。
「……あー、駅」
首を回せば見慣れた黒髪頭。身をかがめて口元を覆いながらもかなりの声量で話していた。
『駅!?いんのね!?ちょっと待って、俺も今──』
背後から肩を叩く。
黒髪頭──天野は面白いように飛び上がった。
ぐるりと振り向いて亨の姿を認めると、端末と二度見比べて脱力する。
「もぉびっくりしたぁ!既読すらつかないんだもん、なんかあったと思うじゃん」
「あー……」
"なんか"は間違いなくあったのだが、その時亨は既に話す気力を失っていた。
「え、あったの?凄い疲れてるけど」
「……あった」
「な、何?お化け系?え?」
慌てふためく天野を見て亨の疲労は少しだけ拭われる。どうやって切り抜けて来たんだとか、とにかく無事で良かったとか、肩を掴んでピーチクパーチク喚いている。
へっ、とガスの抜けるような思いで笑う。パーカーからカードケースを取り出して突き付けた。
「あ、ああ……ありがとねこれ……」
「もう落とすなよ」
全く、大変な目にあった。せっかくの午後がパァだ。天野にさっさとケースを届けて食べ物をたかるつもりだったのに、何を血迷ったか亘と食べられない食べ物を空に並べていた。2時間(体感は数十分だが)もの間。
「あの……」
俯いていた頭を上げる。
天野が困惑した顔をしていた。
「あ?」
「いや……離して?」
手元を見る。
天野がケースを引いている。その端は亨にがっちりと握られていた。
「……」
「……」
しばし無言の時が流れる。
「オラァ!!」
「なにィ!?返してェ!!」
ケースを取り戻して瞬時に距離をとる。後ろに通行していた人が狼狽える声が聞こえた。
気を取り直して周りを見ながらじりじりと後退していく。
「な、何……?それ秘宝だった……?」
「いいか、これは人質……いや、物質だ。返してほしくばコンビニでなんかいい感じのものを買え。納めろ」
「なんかいい感じのもの??」
亨がケースをパーカーにしまうのを天野は目で追う。しっかりジッパーまで閉めた。
目を白黒させていた天野は、唐突に動きを止める。
「……なんか食べてこうよ。駅だし」
亨はぱちりと一つ瞬きをする。天野は返事も聞かず端末を取り出して弄り始めた。
「あ、回転寿司いかない?久しぶりに」
「ファミレス」
「オウ?」
「ファミレス」
「お、おう……」
ドリンクバーとかあるしね、と謎のフォローをしながら天野は端末をコートに仕舞う。何回か世話になったあのファミレスでいいだろう。行先は決まったので踵を返して駅の外に向かう。
「てかねえ、亨それ寒そうだよ。そろそろ出そうよ冬用の」
「あ?寒かねえわ。むしろ汗かいたわ」
「それ冷えると不味いからね」
「ぐえ!」
突如首元が締め付けられる。引っ掛けるように回されたそれに数歩後ろへたたらを踏んだ。
傾いた体で目玉だけを下に動かすと、白い物がぐるぐると手早く巻き付けられ縛られるのが見えた。
「おし、行こう」
満足気に言うと天野はすたすたと先に歩き出した。
「……」
首の質量を確認する。手触りの良い白いマフラー。襟から入り込む風が遮断されて確かに快適だった。
一瞬解こうか迷って、やめた。
天野を追いかけて外に出る。辺りはもうすっかり暗く、凍てつくような風が吹いている。紺色の空に街灯が点々と浮いていた。
くしゃみした情けない天野の背を叩いて、アスファルトを蹴った。