はじめの思うところ

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「じゃあ創、頼んだよ」
傷の癒えてきた頬のガーゼを剥がしながら、迅は創に目線だけを寄越した。
「……いいけどさぁ」
創は受け取ったジップロックをゴーグル越しに眺める。中には焦げ付いた布の切れ端が入っていた。

からりと晴れた秋の空。開け放された扉から丘の乾いた風が入り込んでいる。黒や灰色の装置が敷き詰められたこの部屋で、三刀屋みとやじんは器を象る。
ここにいるということは、この後作業をするつもりなのだろう。顔面を怪我したというのに、連日よくやるものだと創は思う。
「点検終わったんじゃないの」
「終わったよ」
「じゃあ今日は何するの」
迅は古いガーゼをゴミ箱に捨てる。
「アストレイの調整」
持ち上げて部屋の隅に寄せにいった。
創は迅の動きを追って首を回す。工具棚との間を何回か往復して、迅は再び背もたれのない椅子に腰を下ろした。
その眼前には黄金の杯が鉄の土台で固定されている。頂点に穏やかな橙色の炎──アストレイが揺らめいていた。

あの時片桐暁人の体を乗っ取り、迅の顔を焼いた炎。いや、乗っ取ったというよりは、混ぜられたという方が正しいのかもしれないが。
炎のことをアストレイと名付けた男は、それを心底可愛がっていた。
迅は人嫌いの反動か、物に対しての好意が振り切れている。人の意識を好み、食い荒らす、一般に呪いとして分類されるそれを、祈りだなんて名状して。
創は、物をまるで生き物のように愛する迅を白けた目で見ている。自分だって梅蔵(オートバイのことだ)を可愛がっているが、迅ほどの罪深さは持ち合わせていない。ツーリングやメンテナンス中に呼びかけたりはしても、誰かさんのようにバンド頭を押し付けたりおもむろに指の甲で撫でたりなんかしないのだ。
いくら迅の作る物が霊器だとはいえ、その意識の本質は呪いの生存本能のようなものに見える。アストレイは祈ってなんかいないし、祈るような顔をしているのは迅の方だ。

「一緒に行かないの」
「あ?」
椅子の上から訝しげな迅が睨んでくる。創はぱちりと瞬きした。無意識に隣にしゃがみ込んでいたらしい。
「いこ?」
「やだね」
適当にあしらう迅の機嫌はそれほど悪くない。アストレイが戻ってきてからずっとこうだ。どこか心ここに在らずで、損ねる機嫌さえ持ち合わせていない。
創は短く息をついて、別の切り口を試すことにする。
「調整して、元に戻るの?」
迅の表情は変わらない。けれど縦長の瞳の奥で、瞳孔が大きくなるのが見えた。
迅は銀色のルーペのようなものを手に持ち、アストレイに組み込まれた術式を読んでいる。数秒おきに端末へ何事かを入力していた。
しばらくそうした後、ぽつりと返事をする。
「別に、戻したいわけじゃない。彼が今何を考えてるのか知りたいだけ」
黄色い虹彩の表面に、揺れる炎が反射している。
「アストレイは、色んな人間の意識を食べたいと思っていたんだろうね」
片桐暁人に異常なほど執着していたアストレイ。アストレイが彼の何をそんなに好んだのか、創には分からない。単に真新しい感情に酔ったのかもしれない。
「色んな人っていうか、暁人くんにめちゃくちゃ懐いてたくない?」
「……そうかもな」
「実際どうなの。可愛がってた娘をぽっと出の男に取られる気分は」
「…………」
迅は創に顔を向ける。眉間に深い皺を刻み、細めた瞼の隙間から見下ろす、心底不快だと言いたげな表情。
創はにぱりと口を開けた。
「パパ、子離れの時期?」
「誰がパパだ!! 気色悪いたとえをやめろ!!」
があ、と迅が牙を剥いた。
「いいか、僕のつくった子はみな独立して存在する。僕は彼らの親族でもなんでもない」
「パパじゃなくてお母様ならいい?」
「話聞け!!!!」

アストレイは、ここ数日少し不安定だった。片桐暁人の味を忘れられないのかもしれない。しかし片桐はもうアストレイに頼ることはないだろう。アストレイには別の餌を与えていくしかない。
もしくは、片桐の味を忘れさせるような調整を行うか。
おそらく迅は迷っている。不埒な馬の骨の痕跡などとっとと消してしまいたいが、自分の子にはありのままでいてほしいといったところか。
だから今、ただ術式を読んで記録を付けるだけの単調な作業をしているのだ。迅自身、自分がどうしたいのか決めきれていない。
このままアストレイを制御できなければ、待っているのは破壊。呪いの保持者として、管理は義務ですらある。

「独立とか知らんけど、迅の子でしょ。好きにすればいいじゃない。令人くんだって霊布燃やしてたんだし」
「アイツはただの考えなしだろ……記憶も消えてたんだから」
「あ、そうなの?え、じゃあこれ残っててよかったね」
創は改めて透明な袋を見下ろす。霊力を流すと網状に展開するそれは、今は絹のように滑らかな状態で収まっていた。端は焦げ付いてかぴかぴになっているが。
「でもよく残ってたねえ」
「……加賀くんが水の属性持ちだろ。だから辛うじてもったんだろうな」
「ハイハイなるほど?丸焦げになってた誰かさんの代わりに浄化してくれたんだっけ」
迅がぐう、と唸る。アストレイに反抗された傷が疼くらしい。

アストレイの鎮華作戦に同行した一人、加賀は自分と刀剣男士の羽織を投げ込み、最後には霊力ほとんど全てをぶち込んだという。あんな轟々と燃える火の中で、随分と無茶をしたものだ。
その際闖入した令人も布を投げ込んでいたのだが、何やらそれはかなり貴重な物だったらしい。アストレイの点検中に布の切れ端を見つけた時、迅は腹の底からため息を付いていた。
それを持ち主に返してこいというのが本日のおつかいである。
令人の連絡先は知らないので、和真と待ち合わせることにした。鶺鴒本丸に訪問してもいいのだが、無理矢理侵入したらえらい目にあったので今回は行儀よくいくことにする。

創は膝に両肘をついて顔を支える。
「ずーっとここ詰めてても答え出ないって。和真、打ち上げあるって言ってたよ。せっかくだからまざりに行こうよ」
「一時的な協力関係だったろ。これ以上付き合い続ける意味はない。ていうか君も毎日来るんじゃない。もういい」
「意味とか言ってないでさー。一時的でも信じたことには変わりないじゃない。それがもう新たな一歩じゃない」
「君は僕にどこへ行かせようとしてるんだ」
「打ち上げだよ」
「君が行け」
迅の返事はつれない。
かちかちと鳩時計の振り子が揺れる音が聞こえる。
創は、ぼんやりと彼らの顔を思い浮かべた。
「──結局、なんで信じたの?」
知り合いの知り合い。創が連れてきた明石元と小豆長光、加賀と宗三左文字。普通の知り合いの和真と陸奥守吉行は置いておくとしても。
迅は理由を問うていた。アストレイを追う理由。元はなんと答えたのだったか。
「……なんて言ってたっけ、えーと、据え膳食らわば皿まで、みたいなんだっけ」
「君の脳が壊死してることはわかった」
「俺が連れてきたけどさ、正直追い出されるかなって思ってたんだよ。でもあっさり結界渡しちゃうし。やっぱ令人くんの友だち補正?」
「あのね、あそこまで来たら協力する他ないだろ。アストレイは一体なんだ。どうせかち合う」
「えー、でもさ、気に入ってるよね。元くんと本陣で一緒に行動したんでしょ?和真から聞いたよ」
「……気に入ってるとかじゃないけど」
まあ強いていえば、と迅は続ける。
「僕に煽られても、令人とためと言わなかったこと」
その目は遠くを見つめている。
「別にね、彼のためでもいいさ。僕のためではなくあくまで自分の友人のためにと、啖呵を切るならそれでもよかった」
同じように外を眺める。開放している扉の下で落ち葉がからからと回っていた。
「けれど彼の目には、別の景色が映っていた。それでまあ、安心したんだよ。飛鳥令人という男と付き合うなら、それくらいがちょうどいい」
創はぐぐぐ、と首を傾げた。迅の言葉を咀嚼する。
「……あー……?なんか研究者っぽかったよね。迅と同じでさ、よそ見なし一直線な感じ」
「それはどうかな。鎧を剥げば、案外生身の人間が出てくるかも」
「鎧ぃ?」
たしかに元の身長は電柱クラスで、分厚い装甲板も胸に携えている。ぶつかったら飛びそうだ。
「令人は強い奴が好きだろ。いいや、強くあろうとする奴、と言った方がいいか」
強い奴、と言われて、創の頭には電柱クラスの男が勢揃いした。創は首が痛くなる思いで考える。
令人からしてみれば、それはただの威圧なのではないか。
しかもその基準でいけば、迅は全然強そうじゃない。力仕事もする以上筋肉がないとは言わないが、身長は170あるかないかくらい。何より令人が筋肉基準で人を好きになるとは思えなかった。
「そういう意味では、加賀くんの方が心配だな」
矛先を変えた迅を追いかけて、創も思考の角度を変える。
見るからに硬派な元と打って変わって、柔和な顔つきの加賀だが(少々ファンキーな傷もある)、彼もあれでいて中々に逞しい体をしている。梅蔵に乗せた時もしっかりとした重みを感じ取った。和真より重量あるんじゃなかろうか。
「加賀くんはー……たしかに足不自由だしバイクで酔うし、めっちゃ泣いてたけど。泣き顔おもろかったから大丈夫だよ」
やはり令人は、筋肉よりも人の情に弱い気がする。彼はちゃんと令人が選んだ人間だと思う。他人のことで涙を流せる人間に悪いやつはいない。創は確信を持っていた。
「意味がわからない。そしてそっちの話じゃない」
「どっちの話よ」
迅の冷たい視線がゴーグルに刺さる。彼はもうその次元にいないらしい。
「令人に変な操を立ててないといいなって話」
迅はいつもこうだ。芝居じみてるというか、とにかく難しい言い回しをする。
「……みさお?誰?」
「もういい……」
何やらとても呆れられている。創は決して自分の頭の出来がいいとは思っていない。しかし一人で納得してどんどん話を進めていく迅にも非があるとは思っていた。
「どいつもこいつも、人に執着しすぎなんだよ。自分を生贄に捧げる信仰なんて、捨ててしまえばいいのに」
迅とはそれなりに長い付き合いだった。
だからどんなにちんけな脳みそでも、哀れむようでいて祈るようなその言葉を、聞き逃すことはない。
「迅だって似たようなもんじゃん」
「は?」
「物と心中しそう」
動きが止まったのは一瞬だった。
彼は視線をアストレイに据えたまま口を開く。
「……心中も何も……順当にいけばこいつらに囲まれて死ぬだろ……」
「ほら、そういうとこだよ」
自覚がないらしい。
「この子たちがいなくなった世界なんて考えられないんだもんね」
すぅ、と迅の顔から表情が抜ける。想像したのか、それとも想像しないようにしているのか。手だけが機械的に動かされる。ルーペに映る術式はちゃんと読めているのか。
しばらく眺めてから、創は迅のその横顔があまり好きではないことを思い出した。

「てか、迅って令人くん過激派だよね。ファンボ?」

ルーペがアストレイに激突した。迅は小さく奇声を上げてから鬼の形相でこちらを振り向く。
「天地がひっくり返ってもそれだけはない。僕はただ客観的事実を述べてるだけでそこに支持とか愛好とかそういうものは一切」
「あれか、昔は良かったって言ってる古参おじじかな。寂しいね」
「おい黙れ。その顎引き抜くぞ」
「令人くんが選んだんだからさ。迅がとやかくいうことじゃないよ」
レンズを隔てて視線がかち合う。創はごく真面目な顔で口を開いた。
「子離れしなきゃ」
迅はわなわなと震え出す。律儀にルーペは机に退避させられていた。
「あんなガキ育てた覚えはない……」
「そうだね、迅の方が年下だもんね。兄離れだね」
「気持ち悪い……」
「違う?ママ離れ?」
「死ねよ……」
本気で吐きそうな顔をしていたので追撃はやめた。
迅は物を愛している。物は愛を拒絶しないし、押し付けた理想を裏切らない。何より、始めから何も返ってこないと分かっていれば、こちらから愛を期待することもない。
誰からも愛されなかった男は、人に期待することをやめたのだ。
けれど本当は、人を人として愛したかったのではないかと思う。それが叶わないから、所有物としての愛し方を選んだ。
そして今、それが揺らぎかけている。

アストレイは物だ。けれど物の枠を外れていくかもしれない。
令人は人だ。はなから迅のものではない。

可哀想だな、と思った。健気に囲って育てて、横からあっさり奪われて、迅の元にはいつも何も残らない。商売だというのに、物を手放す時祈るような顔をしているのも、所有物として愛しておきながらありのままを願うのも、何もかも救われない。どうしようもなく寂しい男だと思った。
「まあ、だからさ。まずは令人くん以外にもお友達作るところから始めようよ」
迅は眇めた目で創を一瞥した。
「……弁えてるじゃないか。君はお友達ではないな、たしかに」
はて、と創は首を傾げる。特に他意はないが、言われてみれば迅を友人と呼ぶには違和感があった。
「ええ、これ揚げ足取り?じゃあ今から友だちなろ?」
「誰がなるか。損得と利害がわかれば生きてけるんだよ」
「あ〜終わってないんだけど、話ー」
迅は唐突に腰を上げると、喋り続ける創の横を通り過ぎ、店の外へ出て行った。
「……。ま、いっか」
創もまた、よっこらせと膝を叩いて立ち上がる。
迅が人の意見を聞かないことなど日常茶飯事だ。他人が何か言ったところで考えを改める男でもない。創はそれを身をもって知っている。
だから何度でも言う。創が言いたいと思った時に。創の考えが変わらないうちは、何度でも。
迅は人の意見を聞かないが、人の話を理解できないわけじゃない。迅自身、自分が変わらないことを理解しているからこそ、ああいう突っぱねた物言いをするのだ。
それは同時に、自分と他人が別物だと理解しているということでもある。あまりにも冷たくて、けれど創にとっては確かな温かさだった。
きっと迅は変わらない創を受け入れている。創もまた、迅を受け入れている。呆れて諦めているとか、このままでいようと協定を結んだとか、そういうわけじゃなく。
もっと高く遠く、静かな野原。誰にも期待されなかった者、誰かの期待に応えることができなかった者。似ているようでやっぱり似ていない、お互い真に理解し合うことのないそこで、たまに出会う。
それだけだ。
「くぁ〜〜、梅ちゃん、君は寝取られとかなしだよ」
銀のタンクをコンコンと叩いて愛車に跨る。
ひとまずこれを和真に届けねばならない。せっかくのおつかいだ。しっかりきっちりこなしていこうと思う。
「できることからやってこうね」
梅蔵が景気よくエンジンをふかす。
それが相槌のように聞こえて、ああ、迅のこと言えないかも、とほんの少し笑みが漏れた。

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